亡くなった父の事を考えていたら、
一人暮らしで息絶え絶えの母を
介護している弟から電話があった。
能天気に父の命日のことを話し始めたら
弟が怒りだした。
「死んでしまった人のことより、
今生きているおふくろを何とかしないと、、、」
弟の声は切実だった。
「これ以上、どうすればいいのか、俺はもう疲れたよ・・・」
地域包括の方と、ヘルパーと、母と。
三様の言い分に疲れ果てたと。
こんな時、すぐに行って話を聞いてあげたい。
弟に代わって、母のことを見てあげたい。
気持ちはあるのだけど、
自分の仕事のことに精一杯で、
すぐに動けない自分が歯がゆい。
・・・一瞬ぐさっと来たけれど、
そんなことを言っていられない。
同じ日本に住んでいるんじゃないの、
外国にいる訳じゃない。
明日、と言われてもすぐに行こう。
そう思いながら、シフトを見る。
月末の仕事を月末までに仕上げれば、
月初めは休めそうなのが分かった。
スタッフに事情を話し、少しだけシフトを調整した。
8月31日に支援、9月1日に介護の実績を送りだし、
夜中に東京まで行くことにした。
朝には母とゆっくり話すことができる。
金曜日に来るというヘルパーにも会えるし、
連絡しておけば、ケアマネにも会える。
いくつかのデイサービスを尋ね、母に合いそうな場所を決め、
または妹の家に一時的に避難するように勧めることもできる。
さあ、忙しいよ~♪
まだまだ元気だと思い込んでいる母に
上手く引導を渡し、80歳の肺がん患者の年寄りらしく、
子供たちの言うことも聞いてもらおう。
勿論、母の言い分も聞いてはあげるけどね。
毎日エアコンを使うから、電気代が嵩む、、
と言った兄を引っ張り出して、
もっともっと協力してくれるように要請しないといけない。
悲しいけれど、現実に向かい合いながら、
皆が生活できるように考えよう。
これからは、「時々東京人」になると決めた。
うちの両親はまだまだ元気いっぱいなんであまり考えた事有りませんが、
避けては通れない事なんで今の内から弟とも話しておかないとナって思います。。
介護は何年で終わるか、先の見えない恐怖があります。
無理することなく、普段の生活の中に
介護が組み込まれていたら
そんなに大変なことはありませんが、
住む所が違っていたり、
それぞれの想いがずれていたりすると、
時間が経つにつれてずれが大きくなり、
いろんな所がきしんでくるのかもしれません。
状況はそれぞれ違いますが、協力してやっていこうという気持ちだけは確認し、
普段から兄弟仲よくして行くことが
ケイスケさんが今すべきことでしょうね。
まだまだ人生先が長いですよ。
コメント、ありがとうございます。
まだ観ぬ角島の風景をありがとうございました。 お忙しいと思いますが、お元気で・・・
お身体、ご自愛を祈ります。
父が退院できることになりましたが、寝たきりは変わらずで、思い切って両親を関西の施設に
移し、姉や孫達が気軽に行ける環境にしました
。 しかし、母にとっては郷里が忘れられず、
認知症もあって、振り回されましたが、5月に
倒れ、7月末に亡くなりました。 父は脳梗塞
の後遺症で半身不随、言葉もしゃべれず、栄養
は胃ろうからという状態ですが、訪ねると表情
でコミュニケーションができ、心が落ち着きます。 亡くなりはしましたが、母への看護、介護で悔いはありません。 その点は、姉二人も同感でしょう。
nashikoさんの決意にエールを送ります。
大変でしょうが、いい思い出になると思います。 頑張ってくださいね。
やっと帰って来ました。
忙しい数日でしたが、一応やれることはやって来ました。
少しでも安心して生活できるようにと
今は祈るばかりです。
いつもありがとうございます。
ご両親の看・介護、頑張りましたね。
今もお父様の介護は続いているのですから、
進行形ですけれど、、、
私は、離れている分、随分兄弟たちに助けられて来ました。私が今出来ることを
出来る範囲でして行くしかないのでしょうね。
兄弟たちに感謝しつつ、これからを真剣に考えて行こうと思います。
また、コメントお願いしますね。