春と秋の2回、お彼岸になると母の妹(今年94歳、誰の支援も受けずに一人暮らし成立、頭もしっかり)を訪ね、ひがん饅頭を渡すのが習慣になり20年ほどになります。
そのおばが、昨日訪ねて行くと突然、長崎原爆の日の出来事を話し出しました。
朝から空襲警報が鳴り響き、長崎は不穏な空気に包まれていたそうです。
それで、報国隊として三菱の兵器工場で勤労奉仕に従事していた母とおばは(当時14歳と15歳)稲佐山の麓、あくの浦にある工場へ出勤するのを見合わせていたそうです。
空襲警報が解除されると、クソ真面目な母は、父親の「今日は嫌な感じがするから止めとけ」という制止も聞かずに出かけて行ったそうです。
(おばは、父親の言う事を聞き、家に残ったそう。。。)
そして、母は、長崎県庁の前で原爆に遭ってしまいました。
何も遮る物が無く、原爆の放射能をまともに受けました。
初期の頃、原爆の認定は爆心地からの距離で特別認定と普通認定と2種類ありました。
爆心地から3キロ以内が特別手帳です。
母は、特別でした。
兵器工場へ向かう連絡船に乗船する波止場まで、あと200メートルほど、あと10分もすれば、船に乗り対岸へ渡っていたでしょう。
母は、最悪の事態は免れましたが、
兵器工場にいた人々は、ほとんど全滅に近い状態だったそうです。
話をおばに戻して、、、
母が、放心状態で、目を白黒させて、もうまともじゃない状態で家に帰って来たそうです。
正気に戻すために父親が母を何回かひっぱたいたそう。
それで、ようやく母は、元に戻ったそうでした。。。
この部分、母からは、制止も聞かずに出かけてしまったので、父親から怒られてたたかれたと聞いていました。
しかし、本当は正気に戻す為にひっぱたいたのですね。
お彼岸だから、おばの口を借りておじいちゃんが伝えたのかしらと思いました。