たまゆら夢見し。

気ままに思ったこと。少しだけ言葉に。

我が背子 大津皇子70

2019-05-08 23:45:48 | 日記
草壁の病状は日に日に悪くなっていると言う。

突然叫んだりしていると思いきや2、3日は寝たきりになるなど正直大伯は心配していた。

草壁は嶋の宮という昔、蘇我一族が住んでいた広大な屋敷を持っているが不穏な空気が漂っていた。

髪結わず寒い朝だというのに「大津、そなたが天皇に相応しかった。それでも我を許しはしないよな。」と言いつつ池に入っていくなどもした。
草壁妃の阿閉皇女が「誰か!皇子を止めて!」と叫び数人で引き戻すが抵抗が激しかった。

阿閉皇女は「皇子しっかりなさって。」と草壁を叱るが「大津は許してくれない。大津はもっと冷たい場所にいる。だから許してはくれない。この命が尽きるまで。」と気が狂ったように池の深くへ行こうとした。
妃は「あなたにはあなたの正義があってのこと。大津さまはそれをお許しくださいました。大津さまは二上山になられました。」と言うと草壁は糸が切れたように静まった。

しかし3日も経たぬうち今度は雪が降る二上山に行き「大津、大津。出てきてくれ!我の話を聞いてくれ!」と叫んでいるところを宮の警護に当たる舎人に連れ戻されるということがあった。

阿閉皇女はたまらず持統に相談した。「眠らせるのが良いのでは。眠ってないのであろう、そなたも。周りが見えにくくなる。そなたも少し休め。我も眠らせられた。不比等にこの手の薬は詳しいであろうし伝えておく。」と持統は不比等に命じた。

阿閉皇女は信じられないと言った顔をしたが持統は「気の病は寝かせておくのも本人の体力を消耗させないと聞いた。」と言った。
阿閉皇女は「左様でございますか…」と肩を落とした。阿閉皇女なりに草壁を愛し大切に思っていた。

持統は「のう阿閉皇女よ。我は草壁とそなたの皇子…軽皇子を我か草壁の後継にしたい。阿閉皇女には世話をかけるが皇位継承者が二名いる宮として今まで以上に健康には気を遣ってもらいたい。頼む。」と言った。

「草壁さまが御健在の今はよろしいのですが、軽皇子となると。」と阿閉皇女は困惑した。

「正直、草壁は呪われた皇子と噂されている。皇位につけても…かと言って軽皇子は幼く…我に万が一のことあればそなたが我のように仲立ちの天皇となり軽皇子への皇位継承となってほしい。」と持統は淡々と言った。

一方で持統は額田王と会っていた。かっては夫の妻であり、後に父天智の妃となった不思議な経歴をもつ万葉歌人であった。祖母に当たる斉明天皇が彼女の歌をこよなく愛したとも言うし、飛鳥、近江の宮廷には必ず彼女の姿があり、歌も含め美貌を称えられていた。
近江朝廷の頃、蒲生の郷で盛大な狩があったがその時は天智天皇の妻であったのにも関わらず天武に相聞歌を詠いあげ、大田皇女を亡くしたばかりの天武が相聞歌を詠い天智天皇が激怒し皇太弟であった天武を避けるようになったと言ういわくつきの歌人でもあった。

しかしその騒動がなければ、天武天皇の無二の皇后には持統はなれなかったかもしれないという不思議な関係でもあった。
その額田王に大名児のことを頼んでいた。
栗原寺に移り住むことを聞いたからであり、額田王からも嘆願が出されていた。
悲しむ大伯のために。落とさずとも良い命を落とした大津のために。山辺のために。その小さな命であった和子のために。
大名児が余生を安心し送れるように。