たまゆら夢見し。

気ままに思ったこと。少しだけ言葉に。

我が背子 大津皇子 最終話

2019-05-09 09:46:19 | 日記
磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど 見すべき君がありといはなくに。

やはりあなたの近くにいたくて二上山に登ったわ。

うつそみの人にあるわれや明日よりは 二上山を弟背(いろせ)とわが見む。

私は何度二上山を見つめたかしら。
あなたの面影を慕いながら。

薬師寺にもあなたを見たわ。
苦しそうな哀しそうな像。あなたはそんな表情で飛鳥にいたの。
父上の像もあったわ。久しぶりにお顔を見させていただいたわ。あなたに似ておられる。
小さな頃そんなこと思いもしなかったけれど。

でも聖観音さまになったあなたは穏やかそのもので。あなたが生き返ったようで嬉しかったけれど、でもあなたではないのよね。

あなたが龍の守護を受けているせいか川の氾濫はなく民は穏やかに暮らせている。
時折、二上山の方向を見て拝んでいる民もいるの。あなたを慕っている姿に感謝しかないわ。
西陽を受け青が落ちる一瞬の厳かな茜色に染まる時間…あなたのいる世界を垣間見るようで見えない自分に孤独の波が押し寄せる。大津がいない、と暗闇の中再び感じるの。

あなたの部屋から木彫りの白木の観音様を見つけたわ。
伊豆から戻った道作が教えてくれた。道作は郷里に戻らずこの宮の世話をしてくれている。
一度は帰るように言ったけれども頑なで。
道作もあなたの面影を探しているわ。生き残ってしまった自分を責めながら。

白いお顔の美しい観音さま…これが私なの。

あなたが大切にしてくれていたから、なんだかおかしな気持ちにはなるけれど私とあなたの魂だと思い毎日観音経を唱えさせていただいている。

悲体戒雷震。慈意妙大雲。澍甘露法雨。

まるで今の心情に重なるわ。悲しみという雷が鳴り苦しみという雲を立ち込めませ、しかしそんな中でも私たちを潤す糧となり癒しになるよう、苦しい雲はまるで甘みを持った雨になる…物事は観音さまのおちからにより変えられる…

そういえば、草壁皇子がなくなったわね。気の毒な方だった。
その小さき皇子の即位は先送られ持統さまが天皇となり不比等を牽制しておられる。
天皇さまが不敬だけれどお隠れになったら、不比等はこの小さな皇子さまを利用するという不敬な末路しか見えない。阿閉皇女が上手く切り抜けてくれたらいいわね。小さな皇子はあなたの甥にもなるわけだから。

そんなことはどうでもいいかしら。

時は形のない生きものね。

今日はなんだか胸が苦しいの。
薬師も薬も要らない。私もそろそろあなたのもとへ参りたい。
もういいでしょう…大津。この世のお役目は出来るだけ果たしたつもりよ。
私のそなたへの歌を詠んでいま生きている人たちがわかってくれているように、数千年後の人たちもきっとわかってくれる。
不比等が編纂させた書紀より、歌の方が伝わる。そなたが雄々しく文武に優れ誰もが愛さずにはいられない魅力を持った人だと。そして私を大切にしてくれていたこと。

「姉上…大伯、お待ちしていました。」大津の声がした。
「我が背子。」

道作が大津の声を聞いたように思い、大伯を尋ねるとまるで白木の観音さまが化身なされたかと見間違えるほど美しい表情をし、こと切れた大伯がいた。

ー完ー