たまゆら夢見し。

気ままに思ったこと。少しだけ言葉に。

我が背子 大津皇子 山辺皇女 1

2019-05-22 20:20:08 | 日記
私は裸足で追いかけた。

でも、止められてしまった。

「皇女さま、殉死は禁じられております。どうか和子を大切に慈しんでくださいませ。大津さまも皇女さまが後を追われるのを望んではおられませぬ。」

礪杵道作にまた心配をかけてしまった。礪杵道作は大津さまの大切な舎人。大津さまに忠誠を誓う舎人。

大津さまの後を追いかけたくて磐余池に足をかけた途端、礪杵道作の太い腕に引き止められてしまった。

裸足のまま私はこの香具山にある屋敷に戻された。

礪杵道作…泣かせてすまない。

和子は、夭折させられてしまう。草壁皇太弟か不比等の手によって。

謀反人の子として…そして私は謀反人の妃として。

いつも気にかけてくださる皇太后さまも、何度か言伝を頼んだがご返信くださらない。

草壁皇太弟の言葉の方を御信じあそばれて、同母姉の息子で、夫の子で天皇である大津さま、異母妹の私をお切り捨てになられたのであろう。

仕方ない。皇太后の実子の草壁皇太弟に重きを置くのは。

しかし、私と大津さまとその和子に何の咎もないはず。

大津さまの命を奪うということは、私と大津さまとの和子もこの飛鳥浄御原の朝廷には必要がないということ。

そんなこと礪杵道作もわかっているのであろうに。

「伊勢から斎宮大伯皇女さまが向かわれています。大津さまの妃である山辺皇女さまをお守りくださるでしょう。私はこれから伊豆に向かわねばなりませぬが、どうぞ大伯さまを頼りにお命を大切に…和子を大切に。」と道作はうつ伏していた。

これが今生の別れだというのか。

大伯のお姉さま…大津さまの最愛の女人。

我が背子 大津皇子 山辺皇女

2019-05-20 20:19:38 | 日記
稚拙な文章で、終了したと思っていた「我が背子 大津皇子」に訪れてくださる皆様ありがとうございます😊

スピンオフではないですが山辺皇女から見た大津皇子、大伯皇女を書かせていただきたく…

でも、もう少し読み込みたいところもあり、まだまだなところもあり…お時間をいただくとは思いますがもしよろしければ、また訪れてくだされば嬉しいなぁと思い…

このような稚拙な文章ですが、精一杯想像や疑問を膨らませ書けて、また訪れてくださるみなさまにおもしろいなぁ、なるほどね…など感じて頂けたら嬉しいなぁと思い…

もしつまらない、となってもご愛嬌で許していただけるのなら…

私なりに精一杯書いてみたいと思います。

どうぞよろしくお願い申し上げます。

題名は 我が背子大津皇子 山辺皇女で書きたいと思います。

もう少しお時間をいただけたら嬉しいです😊



我が背子 大津皇子 あとがき

2019-05-10 08:30:42 | 日記
数年前 大津市に移り住みました。

近江神宮が近江朝廷の跡であったと聞いたり、三井寺園城寺に天智天皇、持統天皇の産湯になった井戸を見たりして学生時代に習った歴史でなく、その溢れた歴史に魅了されていました。

奈良に迷い込んだ時です。
二上山がじっと迫ってくる姿に畏怖を感じました。三輪大社から見た雨に煙っていた飛鳥の平野に天香山、耳成山、畝傍山がぽーんと浮かび上がっていてとても神秘的でした。
名前はわからなかったけれどあぁこれはただことではないと思いました。
伊勢にも一ヶ月に一回は行きました。理由はないのに何故か行きたくなりました。
多気というインターが気になって降りたりしました。
山を越えると広がる熊野灘に圧倒されました。 伊勢=鳥羽でしたから。
高速が使えない時走っていた道が壬申の乱で近江への進路コースだったり、多分大津皇子が伊勢へ下った時の当時は道無き道だったのであろうなと考えられる道もありました。

ただ、二上山から視線を感じるのです。和歌山へ行こうとするとじっと感じるのです。

何か意味はあるのでしょうけれど、わからないままでした。
今日は二上山へ行きたい、行くぞと思ったら失敗して薬師寺に着いてしまったこともありました。

そこにあった祠が大津皇子由来のものだったなんて…またまたこれはただごとではないと思いました。

大津皇子とあるものは片っ端から読みました。

悲劇の皇子…本当にそうなんだろうか。大伯皇女とも同母姉弟とは本当かな。

弟背、背子って詠むかなぁ…

この不思議を伝える大津皇子、大伯皇女の話があってもいいのではないかなと思いました。

想像を膨らませ膨らませ書いたのが 我が背子大津皇子でした。

悲劇、無念は書きたくなかったです。
そんな大津皇子であれば、とても素晴らしい文章や表現はたくさんあります。拙い表現しか出来ないけれど死さえも堂々と受け入れる皇子であり、大伯皇女のことを大切にしているとともに心の拠り所にしている姿を書くのが私が出来ることなのかなと思いました。

本当に稚拙な文章を読んでくださってありがとうございました。またフォローしてくださった方、ありがとうございました。
少しでもあなたさまがたに生き生きとした大津皇子、大伯皇女がいましたらとても光栄で嬉しいことです。
本当にありがとうございました。


我が背子 大津皇子 最終話

2019-05-09 09:46:19 | 日記
磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど 見すべき君がありといはなくに。

やはりあなたの近くにいたくて二上山に登ったわ。

うつそみの人にあるわれや明日よりは 二上山を弟背(いろせ)とわが見む。

私は何度二上山を見つめたかしら。
あなたの面影を慕いながら。

薬師寺にもあなたを見たわ。
苦しそうな哀しそうな像。あなたはそんな表情で飛鳥にいたの。
父上の像もあったわ。久しぶりにお顔を見させていただいたわ。あなたに似ておられる。
小さな頃そんなこと思いもしなかったけれど。

でも聖観音さまになったあなたは穏やかそのもので。あなたが生き返ったようで嬉しかったけれど、でもあなたではないのよね。

あなたが龍の守護を受けているせいか川の氾濫はなく民は穏やかに暮らせている。
時折、二上山の方向を見て拝んでいる民もいるの。あなたを慕っている姿に感謝しかないわ。
西陽を受け青が落ちる一瞬の厳かな茜色に染まる時間…あなたのいる世界を垣間見るようで見えない自分に孤独の波が押し寄せる。大津がいない、と暗闇の中再び感じるの。

あなたの部屋から木彫りの白木の観音様を見つけたわ。
伊豆から戻った道作が教えてくれた。道作は郷里に戻らずこの宮の世話をしてくれている。
一度は帰るように言ったけれども頑なで。
道作もあなたの面影を探しているわ。生き残ってしまった自分を責めながら。

白いお顔の美しい観音さま…これが私なの。

あなたが大切にしてくれていたから、なんだかおかしな気持ちにはなるけれど私とあなたの魂だと思い毎日観音経を唱えさせていただいている。

悲体戒雷震。慈意妙大雲。澍甘露法雨。

まるで今の心情に重なるわ。悲しみという雷が鳴り苦しみという雲を立ち込めませ、しかしそんな中でも私たちを潤す糧となり癒しになるよう、苦しい雲はまるで甘みを持った雨になる…物事は観音さまのおちからにより変えられる…

そういえば、草壁皇子がなくなったわね。気の毒な方だった。
その小さき皇子の即位は先送られ持統さまが天皇となり不比等を牽制しておられる。
天皇さまが不敬だけれどお隠れになったら、不比等はこの小さな皇子さまを利用するという不敬な末路しか見えない。阿閉皇女が上手く切り抜けてくれたらいいわね。小さな皇子はあなたの甥にもなるわけだから。

そんなことはどうでもいいかしら。

時は形のない生きものね。

今日はなんだか胸が苦しいの。
薬師も薬も要らない。私もそろそろあなたのもとへ参りたい。
もういいでしょう…大津。この世のお役目は出来るだけ果たしたつもりよ。
私のそなたへの歌を詠んでいま生きている人たちがわかってくれているように、数千年後の人たちもきっとわかってくれる。
不比等が編纂させた書紀より、歌の方が伝わる。そなたが雄々しく文武に優れ誰もが愛さずにはいられない魅力を持った人だと。そして私を大切にしてくれていたこと。

「姉上…大伯、お待ちしていました。」大津の声がした。
「我が背子。」

道作が大津の声を聞いたように思い、大伯を尋ねるとまるで白木の観音さまが化身なされたかと見間違えるほど美しい表情をし、こと切れた大伯がいた。

ー完ー


我が背子 大津皇子70

2019-05-08 23:45:48 | 日記
草壁の病状は日に日に悪くなっていると言う。

突然叫んだりしていると思いきや2、3日は寝たきりになるなど正直大伯は心配していた。

草壁は嶋の宮という昔、蘇我一族が住んでいた広大な屋敷を持っているが不穏な空気が漂っていた。

髪結わず寒い朝だというのに「大津、そなたが天皇に相応しかった。それでも我を許しはしないよな。」と言いつつ池に入っていくなどもした。
草壁妃の阿閉皇女が「誰か!皇子を止めて!」と叫び数人で引き戻すが抵抗が激しかった。

阿閉皇女は「皇子しっかりなさって。」と草壁を叱るが「大津は許してくれない。大津はもっと冷たい場所にいる。だから許してはくれない。この命が尽きるまで。」と気が狂ったように池の深くへ行こうとした。
妃は「あなたにはあなたの正義があってのこと。大津さまはそれをお許しくださいました。大津さまは二上山になられました。」と言うと草壁は糸が切れたように静まった。

しかし3日も経たぬうち今度は雪が降る二上山に行き「大津、大津。出てきてくれ!我の話を聞いてくれ!」と叫んでいるところを宮の警護に当たる舎人に連れ戻されるということがあった。

阿閉皇女はたまらず持統に相談した。「眠らせるのが良いのでは。眠ってないのであろう、そなたも。周りが見えにくくなる。そなたも少し休め。我も眠らせられた。不比等にこの手の薬は詳しいであろうし伝えておく。」と持統は不比等に命じた。

阿閉皇女は信じられないと言った顔をしたが持統は「気の病は寝かせておくのも本人の体力を消耗させないと聞いた。」と言った。
阿閉皇女は「左様でございますか…」と肩を落とした。阿閉皇女なりに草壁を愛し大切に思っていた。

持統は「のう阿閉皇女よ。我は草壁とそなたの皇子…軽皇子を我か草壁の後継にしたい。阿閉皇女には世話をかけるが皇位継承者が二名いる宮として今まで以上に健康には気を遣ってもらいたい。頼む。」と言った。

「草壁さまが御健在の今はよろしいのですが、軽皇子となると。」と阿閉皇女は困惑した。

「正直、草壁は呪われた皇子と噂されている。皇位につけても…かと言って軽皇子は幼く…我に万が一のことあればそなたが我のように仲立ちの天皇となり軽皇子への皇位継承となってほしい。」と持統は淡々と言った。

一方で持統は額田王と会っていた。かっては夫の妻であり、後に父天智の妃となった不思議な経歴をもつ万葉歌人であった。祖母に当たる斉明天皇が彼女の歌をこよなく愛したとも言うし、飛鳥、近江の宮廷には必ず彼女の姿があり、歌も含め美貌を称えられていた。
近江朝廷の頃、蒲生の郷で盛大な狩があったがその時は天智天皇の妻であったのにも関わらず天武に相聞歌を詠いあげ、大田皇女を亡くしたばかりの天武が相聞歌を詠い天智天皇が激怒し皇太弟であった天武を避けるようになったと言ういわくつきの歌人でもあった。

しかしその騒動がなければ、天武天皇の無二の皇后には持統はなれなかったかもしれないという不思議な関係でもあった。
その額田王に大名児のことを頼んでいた。
栗原寺に移り住むことを聞いたからであり、額田王からも嘆願が出されていた。
悲しむ大伯のために。落とさずとも良い命を落とした大津のために。山辺のために。その小さな命であった和子のために。
大名児が余生を安心し送れるように。