私とは何か?と問うことに気付いている「私」とは何か?

私とは何か?意識の起源とは何か?悟りとは何か?般若心経とは何か?これらの問いの答えを考える。

読書18 『仏教思想のゼロポイント「悟り」とは何か 魚川祐司』その2

2020年07月26日 | 意識と悟りの構造

こんにちは、領です。

『仏教思想のゼロポイント 悟りとは何か 魚川祐司』

この本を読んで、浮かんだ思考を書いていきたいと思います。浮かんだ思考なのでこの本の内容そのものではありません。

善因楽果悪因苦果、これだと縁起を如実知見することは難しいと思います。善という側面を維持し続ければ、苦しいことは避けることができると思ってしまいます。この善因楽果は、私にとってとても強く作用していていました。しかし、どんなに努力しても誠実に生きても楽果だけを享受することはできません。楽と苦に振動することが存在するための条件だからです。それが縁起の法の性質だからです。
流れるプールを体一つでせき止めるようなものです。太陽だけを求めて西に走り続けることはできません。善のみを求めれば、それを捨てざるを得ないことが的確に世界に展開します。時には死にます。
正しく生きる道というものに、ピンッと張り詰めていれば、世界の振動循環に気付くと思います。無常ということを覚知します。さすがに善は善であって維持しようと努力しやすいので、善を求めることは、無常を知覚する近道だと思います。ただ、普通の人は、もっと自然に自分の矛盾を見ないで出来事に反応して生きていきます。私は、善のみでこの世ができていないと許せない認められないと、善だけにすることができると、とてつもなく我が儘で、放漫な性格でした。振り返ってみると、決して理想の善人とは思えない人生を送っています。自分基準の善です。

この世をほじくり返した結果、個人という魔法が解ける、涅槃を理解します。涅槃はゲームオーバーとも感じます。
個人という魔法が解け、すべての人が同一人物という構造の理解は、慈悲を持たざるを得ないです。慈悲は利己的なものになります。しかし、縁起の法のもとでは、慈悲だけを持つようには展開しません。どんな思考もほどほどに。目の前に究極が手に入りそうでもある程度で手放す。難しいですが、人間らしく生きられる範囲は狭いです。特に思うのは、我が子を最上の環境で育てたいとか、絶対笑顔だけにしてあげたいとかです。ほどほどの範囲で振動し生きる人がいるとき、はみ出す人もいて、その全てが存在することが必要で、全てが自分であるとき、思った通りに生きれば良いということでもあります。

上位の概念ほど、人類に共有されて存在するイメージがあります。上位の概念は、下位の概念に共有される構造です。最上位の概念は、「私」です。一番シンプルな無次元の点に割り当てられた「私」は、時空に遍在します。
五蘊が仮和合して、「私」が創発されるのではなく、「私」という情報に満たされた時空を五蘊が展開します。「私」とは、無次元の点に割り当てられているので、無次元の点の性質を持ちます。「私」とは、不生不滅であり、不動であり、常です。これが実在としてしまうことはできません。
最近よく書くとおり、顛倒夢想の一覧の一つです。この「私」のみの状態が涅槃です。自分自身~全時空が存在しないのは、この業の解消の一点だけです。悟後も肉体を有し個体性を有し、渇愛も有し、煩悩も有します。普通の人間です。性格の難ありの部分もそんなに変わりません。

「私」に満たされた時空上を、五蘊が展開していく所をイメージすると思うことがあります。来世とは、今の自分を反転させたものになる。自分が拒否したもの受容したものが反転する。チクチク布を縫うとき一本の糸で表裏表裏になります。前世来世を見るとき表しか見ていないので自分の要素が連綿と続いているように解釈してしまうこともあるような。そう考えると自分が善とするものを肉体と精神の極限まで追求するのは嫌だと思います。相依相関、縁起の法の内に存在するとき嫌だと思考しても、そこに留まれるわけではないので無駄な抵抗です。

ここまで読んでくれた方、ありがとうございます

コメント
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