こんにちは、領です。
『意識は科学で解き明かせるか 脳・意志・心に挑む物理学 天外伺朗 茂木健一郎』
この本は、2000年3月20日、第1刷発行とあるので20年前に出版されたものです。私がこの本を読んだのは、10年前ぐらいです。対談ものの本は薄味だな・・・と思うことがほとんどなのですが、この本は、とても重要なことが濃く分かりやすくまとめられています。
今回、5,6年ぶりぐらいに、もう一度読んでみました。この本を購入した当時、何度も読んでいるので懐かしいと思いました。
でも、あれ?こんなこと書いてあったっけ・・・と思うような文章がありました。
当時は、読んでも理解できなくて意識に引っかからなかったんだと思います。これからも読み返していく本です。この2人の最近の本も読みたいです。
対談の構成とかは考えてあると思いますが、それにしても対談なのに完璧にまとめられていて、読みやすいです。
私は、言葉にしようとすると、しっちゃかめっちゃかでぐちゃぐちゃになります。袋の中でもがいているイメージです。なので、脈絡なく思ったことを書いてみたいと思います。おんなじことを何度もグルグル書いています。
まず、この本を読んで嬉しかったことを書きます。
「光子や電子の二重スリット実験について、通過したスリットを特定する検出装置を置くと干渉縞が消失する」ということは知っていたのですが、検出装置って一体どんなものなんだろうと興味がありました。
色々な本を読んだけれど検出装置について書かれているものはありませんでした。この本には、「光子の場合だと写真の乾板ですが」と書かれていて、細かいことですが、納得できて良かったです。
ちょっと思ったこと・・・『「私とは何か」と問うことに気付いている私とは何か』、このブログのタイトルについて書きます。
このタイトルは「私」というものを実在として重要視しているということを含みます。
今思うのは、実在はない、ということです。「私」もこの世を構成する部品の一つです。「私」は最上位の概念として、無次元の点に割り当てられた情報で時空に遍在するので、特別なものだと思っていました。存在の縁(よすが)だと思っていました。しかし、そうではなかった。この世が紙でできたペラペラなものに見えて焦燥感に苦しくなりました。
私は、立体ポップカードが好きで、ついつい季節ごとに買ってしまいます。夜の日本庭園のカードは、お気に入りです。この世と自分の要素が立体ポップカードと変わらないとは思っていましたが、私が使用している、「私」さえもペラペラな紙だと思い至りました。
それでも、そう思考する前とそう思考した後で何もこの世に違うところはないので、変わらず普通に生きるしかありません。
この本には、「クオリアを記述する数学は、最終的にニューロンがどう動いているということを記述するふつうの自然科学の手法と同じことになるわけです。」「実は客観的な立場から見ると、心が動かしていようが、ふつうの意味での物理的な場が動かしていようが区別がつかない。」ということが書かれています。
この文章は、5、6年前に読んだときには、理解できていませんでした。でも、この文章は、とても重要だと思います。
意識を随伴現象で思考するのか二元論で思考するのか、脳が意識を作り出すのか意識が脳を作り出すのか、自由意志の有り無し、意識に能動性はあるのか、ゾンビなのか、意識の相依相関する構造はどのようなものか・・・いろいろ思考したところで結局、ニューロンの動きしか見ることができない。本当のところはどうなのか分かる日は来るのでしょうか・・・。
意識について思考を巡らせ何らかの答えを得ても、そう思考する前とそう思考した後で何もこの世に違うところはないので、ゾンビだとしても変わらず普通に生きるしかありません。でも、ニューロンの数式だけでなく、思考が数式に従う証拠を集めれば答えは見えてくるかもしれません。
このブログに書いたように囚人ゲームを実際の人でやってみた結果を量子力学で説明できるとか、幼稚園児の集団にお片付けをさせたとき、率先して片付ける園児数人を別にすると、残された集団からまた、率先して片付ける子が出るとか、世界的出来事が起きたとき乱数発生装置に偏りが生じるとか、人の行動パターンとか、あとは1人の個人が一生に持つ快と苦を測定するとか、回ってみてもらって左回り右回りの分布を調べるとか、お金持ちの分布がべき乗に従うとか・・・。
何もかもが数式に従っている!となったらまた意識とは何か・・・と思考する材料が増える。自由意志は存在しないという感触を得る。この世が自分の自由になっているという感触への不信感・・・。
この本には、「脳の働きというのは「量子力学」以前の物理学で記述できるものではなくて、「量子力学」がさらに発展してようやく記述できる話だと思います。」と書かれています。軸として、ペンローズさんのことが詳しく書かれていて読んでいたら、ちょうどノーベル賞の話がニュースでありました。ブラックホールの話も好きです。
今のところ私がお気に入りの思考は、「意識は時空に遍在するので、あらゆる認識に随伴するが能動的なものではない。」このような感じです。さらに、量子力学や果ては万物の理論から人の意識は唯一として存在し、全ての人は同一人物だということが眼前に叩きつけられる日は来るのでしょうか?
既に意識が時空に遍在するときホムンクルスは必要ないし、時空に独立した能動的な自由意志を持った観察も必要ないと考えます。
時空の一切は、常にこの世の最上位の「意識」に圧縮されているイメージです。何だか「眼」という言葉が使いたいです。常に最上位の眼に圧縮されている。または、包含されている。
【無次元の点→電子クオーク→原子→分子→DNA→肝臓、心臓、脳など→人間→思考→無次元の点】どの段階にも不可分に「眼」は存在します。
どの段階にも「眼」は、一対一対応しています。下位の目が上位の目を共有していると見ることができます。
下位の目=上位の目で、それに気付くことが悟りでもあります。これは、自分の意識と他者の意識は唯一として存在するということです。思考も上位のものほど共有されている構造です。
このような構造は、やっぱりDVDの圧縮が分かりやすいと思います。映像のコマが進んでも同じ位置に赤色が割り当てられていたら進んだ分の全ての赤色を一つにまとめる。
思考(概念)の抽象度を次元と表現すると高次のものほど一つとして存在し時空に共有されている構造です。
その究極が「私」です。「眼」です。「目で見る耳で聞く舌で味わう鼻で嗅ぐ自分が思考し感じ行動する」ということを自分のものと観る意識が「私」です。この世の一切が無に潜在し「私」のみになる、このむき出しの「私」になることが悟りです。
「私」という概念、というか主観そのもの、意識の起源は時空に遍在し唯一として存在します。
同じ時空に他者が存在しますが、今、自分が使用している自分という視点が他者を生きていています。この世の一切の人生は自分が生きることになるサンプルのように見ることができます。誰かの前世、誰かの来世ではなく、一切の人生は一人のものです。
1人という表現は、なにか究極の生命というイメージを持ちやすいですが、「私」という情報が唯一として存在する構造というだけです。
「私」という意志は、コピペで十分です。
一切の人間が同一人物なら生活や健康を壊すほど他者を嫉妬したり憎んだり怒ったり奪ったり攻撃したりする必要はないです。正義もほどほどがいいです。これらの感情を無かったことにすることも良くないです。ほどほどに憎む。そういう苦しいものをほどほどにするということは、楽しいこともほどほどにということになります。
しかし、ほどほどに生きようとしても、そうは行かないように世界は展開したりします。何か手放しても中心軸がずれるだけのイメージがします。それなりに苦しいことは存在し続けます。
手に入れても足りないし手放しても足りない、安全な中道に付近で生き続けることも出来ません。何か手放してもさらに手放す状況になるし、欲をなくせば安全ということではないです。
上手く淀みを消化する人生があって、行き詰まる人生も存在します。その両極は不可分で、全ての人生は自分が生きる人生です。自分が普通と思う範囲で快と苦の両極を見て生きるしかないです。
そこに全ては自分という思考が存在するとどうなるかな・・・。
この世について思考を巡らせて、生き方を考えても普通に生きづらいです。精神科医でも人間関係を上手くこなせるわけではないことを思いました。
私は、3年前から嚥下ができなくて悩んでいました。水を飲むのも怖い。対処法を読むのも嚥下をさらに意識してしまって怖い。でも、最近ハラスメントの記事のコメントを読んで、私が言って欲しいことが書かれていて、それを読んだら嚥下ができるようになりました。ハラスメントって分からない人は分からないので理解してもらえないつらさがあります。また嚥下が苦手になるのではないかという不安もあります。
何が言いたいかというと、「悟れば幸福だけになれる」ということはないということです。「こう生きれば幸せになる」ということにがんじがらめになってしまうのはお勧めできないです。でも、「こう生きれば幸せになる」という思考にがんじがらめになることによって、この世の無常をはっきりと認識することになります。
さて、この本には、ホロムーブメントという言葉があります。そこから思ったことは、この世は無次元の点のみになっても解像度が変わらない構造ということです。
ホログラフィーという構造は全知を可能にするのかもしれないと思いました。
そして、ホログラフィーという構造から「私」という主観は、唯一として存在し、全ての人に共有されることを可能にすると思いました。それは、全時空の人々が、同一人物ということです。
さらに、「私」は人間だけのものではありません。
この本には、「意識を必ずしも個人に属するものではない」「意識が脳も作り出しているし、宇宙も作り出している」と書かれています。
私は、時空に独立した能動的な「意識」は存在しないとしています。(「意識」は別の表現では、「私」「主観」「心」「自己」「観察」「観自在」「眼」などがあり、このような表現として「意識」を使って書いていきます)「観察」は時空に独立した能動的な行為ではないということです。
それは、全てにおいて自由意志を持った何らかの行為は存在しないということです。
いつも書いていますが、「意識」は最上位の概念であり、無次元の点に割り当てられていて、時空に遍在します。(ということは最低位の概念でもあると言うことになり、最上位と最低位はループします)最上位の概念は、全ての存在に共有されます。
脳に「意識」が宿るのではなく、「意識」は時空に遍在する。
【無次元の点→電子クオーク→原子→分子→DNA→肝臓、心臓、脳など→人間→思考→無次元の点】どの段階にも不可分に「意識」は存在します。
H2Oは水としての性質が顕われます。そして全時空の存在するものに相依相関して存在します。その構造を高度化していき、物質が特定の形で存在すると、そこに思考が顕われます。ニューロンはそれぞれの思考に対応した発火を示しますが、思考はニューロンだけに属するものではなくて、全時空の存在するものに相依相関します。
【 】の中身は、物質と思考が分断されたものではなく、無次元の点の関係性が展開する地続きのものです。下位の物質や概念は、より上位の概念に圧縮されて存在する。逆に、上位の物質や概念は、より下位の物質や概念を全て包含します。
この本に、「ある意味でいうとクオリアが、ふつうの自然科学でいう質量とか電荷とかそういった量に対応するのではないかと思います。」と書かれていました。この文章から、イメージしたことを書きます。
氷が溶けたり、花が枯れたり、原子が崩壊したり、思考、概念、感情、寿命も時空にどのように生じ滅するかは、あらかじめ定められて存在するイメージです。空腹感、恋愛感情、喜怒哀楽・・・。
悟りの状態となる、むき出しの「意識」は、刹那であり永遠というイメージです。
時空に大きく共有された般若心経に触れることは、何かあるのかもしれません。私という個人が消滅し、むき出しの「私」になる一歩手前の最後に存在した概念は神でした。神という概念も大きく共有されています。
最上位に共有される概念が「意識」です。共有度が高いほど上位の概念で、そういう構造が過去とする情報になるか決める感覚です。
共有度が高いほど中心、過去、根源のように表現されます。あらゆる物質や概念は、あらゆる段階の共有度(抽象度)を持ち存在します。
この本では、「赤い花が右に動いている」という表象を「右に動いている」「赤の色」「花という形」のクオリアに分解でき、これらのクオリアが統合されるからこそ、知覚できると書かれていました。
私の感触では、「今」は「今」全て存在します。「今」認識した「今」は、「今」存在したばかり。中学生の「今」も、さっきの「今」も、「今」「今」と思った「今」も、死ぬ直前の「今」も、「今」存在します。そうでなければ全知は存在できないと考えます。
仮想粒子がぱっと顕われて消えるようなイメージ、そんな刹那に一切の「今」が存在する。
あらゆる抽象度のあらゆる組み合わせの五蘊が「今」全て存在する。
何が書きたいのかというと、「赤い花が右に動いている」という表象は、そこに存在することは、決定論で決まっていて、それぞれの「右に動いている」「赤の色」「花という形」のクオリアに「意識」が不可分に存在するように、「赤い花が右に動いている」にも「意識」が不可分に存在する。
ニューロン伝達の時間の流れがあって「赤い花が右に動いている」に至るのではなく、時間の流れに関係なく上位概念として「赤い花が右に動いている」は存在し不可分に存在する「意識」によって「赤い花が右に動いている」を認識しているという状態が今、存在する。
何だか思ったこと。マインクラフトでチェストを作るとき3×3のマスに決められたとおりに木材を置くと勝手に完成します。最初からチェストの情報はゲームに存在します。
「意識」とは、「観自在」に言い換えられ、「観る自己が存在する」という質感で、「意識」は、なんらかの永遠の命のような瑞々しいものではありません。人間は「意識」を俯瞰して「意識」する構造を持ちます。その「意識」の最上位の状態が悟りです。
観察を積み重ねると縁起縁滅が秩序だって見えてきます。「意識」を「意識」する。「観察」を「観察」する。極限までメタ認識が上がっていきます。マイクラと同じで一定の条件を満たせば悟りが完成します。完成しますというより、悟りが完成した「今」が今存在する構造です。一切が同時になる状態です。「意識」が全時空をまとう全知のイメージです。
電子が仮想粒子をまとう構造と似ていると感じました。仮想粒子の陽電子が中心で仮想粒子の電子が外側という構造は、人が引き寄せたいものと引き寄せたくないものを持つ構造に似ています。この構造が無限から有限を存在させるイメージです。幸せだけでは存在できない構造です。
人の体細胞がiPS細胞になれるように、全ての人は全知です。無限と反無限が重なって無に潜在する様子は、合掌の様子を思い起こします。この世が顕われるのは、合掌の逆のイメージです。エヴァがATフィールドをこじ開ける映像が浮かびました。
下位の概念に対し上位の概念はそれらを同時とする構造。下位の概念の「意識」、というより「観察」、書き直すと、下位には下位の「観察」が存在し、上位には上位の「観察」が「今」存在する。今まで生きてきた個人を1人の人間としてまとめているのも同じ構造です。今まで生きてきた人生の視点をまとめる視点です。
一切の「今」は「今」存在し、あらゆる物質、思考、感情・・・あらゆる五蘊の抽象度のパターンが尽くされていて、物質から思考まで含めた抽象度の幾何学が万物の方程式に従って存在します。
自由意志は存在しないので、この本に出てくる意味での「ゾンビ」として人間は存在します。脳と意識の二元論ではあるけれど、時空に独立した瑞々しい意志を持つ何かではないです。ニューロンの発火の同時性を決めるホムンクルスは必要ない構造です。
「意識」というのは、「観察」、究極の眼です。ここでは使いやすい「観察」で文章を書きます。「観察」は人間だけのものではなくて無次元の点~物質まで不可分に存在し、この世は物質から思考までメタ認識の上下の幾何学です。
時空の展開というより、もう「今」は今存在し、一切の物質や概念の抽象度のパターンは、「今」存在します。概念は創発するのではなく、上位に対して個別となる下位の概念がそれぞれ存在し、下位のそれぞれの概念を包含する上位の概念が存在し、上位の概念、下位の概念それぞれに「観察」は付与されていて、下位概念①→下位概念②→下位概念③⇒上位概念完成、としたとき、上位概念は①→②→③の時間発展を同時に扱うのは、上位概念には上位概念の「観察」と、「今」しか時間は存在しない構造だからという感触です。
このような構造は、因果的ではないかも。その上位の概念は、別の時空にも共有して使用されている。先ほど書いたDVDの圧縮を参考にした説明の方が分かりやすい気がします。
もう一回、DVDの圧縮で書いてみます。
悟りは無次元の点に至ることです。この世の一切を「今」に圧縮した情報です。この世の一切を今、観察する状態ですが、相反する無限が無に潜在し何も存在しません。一歩だけ思考を進めると「何も存在しない」という思考も存在しません。
私が無次元の点に割り当てられた「観察」のみの状態を知ったとき、DVDの圧縮と同じ構造だと思いました。バラというクオリアはバラの要素を「今」に圧縮下情報です。時間は「今」しか存在しないからです。バラの下位の要素にも各々「観察」が不可分に存在する。そして、一切の「観察」が「今」存在しています。人がバラを認知するときバラの要素が各ニューロンを発火させるのに時間差がありますが、バラとして認知するときその時間は無視されるのは、因果的流れで認知しているのではなく、「今どの範囲を認識しているか」または「今どの範囲に共有されているか」という構造が「今」全て存在しているから、時間経過が無視されるのではなくて「今」しか存在しないから・・・などと考えました。時間が圧縮されるという因果的な見方ではなく、もう圧縮したものが存在している・・・。
単純にDVDの圧縮ではなくて、マトリョーシカ見たいな構造です。マトリョーシカはどんどん入れ子が大きくなるけれど、思考は、どんどん抽象度が上がる構造です。
情報自体に意味のある時空は存在していなくて、共有のされ方によって時空が存在するイメージです。
DVDなら、高次にまとめられた赤が各コマのこの位置に何コマで時空に存在する感じです。
この本に「三〇分しゃべったことを記憶するという意味では、人間はそれをどんどん抽象化してしまう。」と書かれていました。この世の一切って材料がそろうと抽象化するようにできていると感じました。また自己組織化とかカオスの縁などについて書かれた本が読みたくなってきました。
こんなことを思い出しました。上下逆さまに写す装置を頭にはめて生活すると、最初は動けなかったけれど何日かすると上下逆さではなく普通に見えるようになるというテレビの番組です。
デジカメで映像を撮影しているとデジカメの画面は実際の動きより情報の処理分遅れてズレます。私は、それが面白くてぐっぱーぐっぱーと手を動かす映像を撮影していました。その動作を続けるとある一瞬、時間のズレがなくなって普通に感じました。
この世は意味ある「今」が存在するようにしていると思いました。
この本を読んでショックだったことは、「人間(数学者)は、単なる記号の操作ということでは汲み尽くせないような、何かの能力を持っているのではないかということをゲーデル自身が言っているのです。」この文章です。
ゲーデルの不確定性原理が、神の存在を否定したというようなことを何冊かの本で読んだことがあります。ゲーデルさんとしては不本意ですね。
私としては、神はいないという思考が気に入っています。人間の汲み尽くせないような能力の原因は、両極の思考が相依相関して存在するからだと思います。例えば、神は存在する~存在しない、その両極の思考は片方だけでは存在できません。独立自存のオリジナルの真理は存在しません。
計算不可能な時間発展はないような気がします。「計算不可能な時間発展がある」という思考が、計算可能なものから出てくるイメージです。
この本にはグリセリンの中で拡散するインクの実験から「ボームは我々が観測できないような「隠された秩序」というものが宇宙に存在するのではないかということを考えたわけです。」ということが書かれていました。
以下引用です(『意識は科学で解き明かせるか 脳・意志・心に挑む物理学 天外伺朗 茂木健一郎』)
P24 天外 ものが大きいときをマクロの世界、素粒子のようにちいさいときをミクロの世界という言い方をします。マクロの世界では粒子一個では波動にならないが、ミクロの世界では粒子一個でも波動になる。電子や光子を一個だけ飛ばすと、一つの粒子が二つの穴を同時に通ってそれがお互いに干渉するという現象が観察されるのです。
ここで非常におかしなことは、たとえば穴の片側に光子なり電子なりを観察する装置を置きます。光子の場合だと写真の乾板ですが、そういう装置を置く。こうすると、この光子はどちら側の穴を通ったかというのがわかり、二つの穴を同時に通るということがありませんし、干渉現象も起きない。観測することにより、何かが変わってしまうのです。このような、非常にやっかいな現象の意味を問うことが、いわゆる「観測問題」なのです。
P29 コラム エヴァレットの多世界解釈では、波動関数の収縮のプロセスはなく、その代わり、起こり得る全ての可能性に対応する多数の世界(many worlds)があるとする。そして、我々人間の意識は、並列して存在する多数の世界のどれかに所属し、起こり得る全ての可能性のうち、一つだけを観測するのだとする。つまり、波動関数が収縮して一つの世界に決まるのではなく、起こり得る全ての可能性は実際に起こり、宇宙は多数の世界に分裂するが、ただ、そのような多数の世界の一つに、我々人間がいるだけだということになるのである。
多世界解釈は、私たちの日常的常識に反するように思われる。一つの電子の可能な軌跡を考えても、それだけで可能な世界の数はとんでもない数になる。ましてや、宇宙全体の可能な分裂仕方を考えたら、とても計算できない数になる。
P36 天外 ではシュレディンガーの波動方程式で、たとえば一つの素粒子を表現するとどうなるかというと、空間の一点に存在していると言うことはできず、空間的に広がっている。波動関数のレベルでは、その素粒子がどこにあるかとうのはわからないわけで、さっきのスープ状になる。ところが観察すると、それはある場所に観察されるということなわけです。
P66 天外 一般的に光は直進するというとが言われていますが、それは古典物理学の話で、量子力学になると光が直進するということは言えません。
たとえばA点からB点に向かって光が飛んでいく。量子力学では、光というのは一個の光子で、波動であると同時に粒子なのです。これを「量子力学」ではどういうふうに考えるかというと、A点からB点に向かうあらゆる可能な経路、必ずしも直線だけではない経路も通ると考えます。
もちろん、経路によって通る確率が違いますから、違うそれぞれの確率を複素数で表現したものが、先ほどお話しした波動関数と言うことになるのです。その波動関数を全部足し合わせたものが、実はA点からB点に光が行くということになるわけです。
P69 茂木 因果律では、原因があって結果があります。その原因というのは、必ず実際に起こったことが原因になって結果が生ずるわけです。ところが「量子力学」の場合には、実際には起こらないことでも起こる可能性があれば、結果に影響を及ぼす。これは古典的な因果律と非常に違うところで、ダブルスリットの実験でも実際には片方のスリットを通ったとすると、もう片方のスリットは実際には、通らなかったわけです。それでも、通る可能性があったということがもう片方のスリットを通った方の光子の軌跡に影響を及ぼす。
P91 天外 電磁場もそういう素粒子の集まりとして記述することができて、このようなゆらぎを考慮すると、電磁場も一番下のエネルギーがゼロではなくて、ある一定の値を持っている。「ゼロ点エネルギー」とは、そのような考え方です。プランクスケールという10のマイナス33乗センチメートルという寸法を最低の寸法として計算すると、一立方センチメートルの中に全宇宙のエネルギー以上のエネルギーが詰まっているという計算結果がでてました。
P118 天外 三〇分しゃべったことを記憶するという意味では、人間はそれをどんどん抽象化してしまう。そのようなことはどんなコンピュータにもできません。さきほどのOSのように、もう少し上の概念レベルの組み立てが必要になってくる。
P123 茂木 ゲーデルの定理にはもう一つ意味がありました。数学者(人間)は、矛盾がないということを証明できないかもしれないけれど、矛盾がないということを知っているではないかと言ったのです。どうも、人間(数学者)は、単なる記号の操作ということでは汲み尽くせないような、何かの能力を持っているのではないかということをゲーデル自身が言っているのです。
P136 天外 我々はいまの瞬間しか普通は認識していないのですが、未来とか過去ということも実感として認識できる、そういうことがあると考えています。確かに、ふつうの物理学ではこういうことはあり得ない。ただし「量子力学」の波動関数ということになると、この対談でも何度も述べたように、話は全然違ってくる。たとえば孤立素粒子の波動関数というものを考えると、それは全空間に分布しているし、全時間に分布していることになるので非局所的なわけです。どちらかというと、波動関数の収縮を起こす前の生の波動関数をそのまま観察して、それを逆に脳の中で意識的に収縮する。ただし、ふつうの収縮の仕方とちょっと違うような収縮の仕方をしているということがあり得るのではないか。
P149 茂木 光というのはマックスウェルの電磁場の方程式でどのような役割を果たしているかというと、粒子と粒子が相互作用するときのメディア、媒体として働いているのです。ですから光というと我々は直感的に目で見える光を考えますが、物理学の立場でいうと、それは相互作用を媒介するものであるわけです。
現代的な見方をすれば、質量がゼロの粒子は全て光速度で動くわけです。光に限らないわけです。たとえば重力子なども質量がゼロだと考えられています。「相対性理論」というのは光の伝播する時空の幾何学で、いまのような見方をすると、相互作用の伝播する要素を顕す幾何学だということもできるのです。
P162 茂木 現在、通説となっている仮説というのが「随伴現象(epihenomenon)」という考え方です。すなわち、私たちの心は脳の中のニューロンの活動に随伴して生じる現象であり、その対応関係というのがどうなっているのかということはまだ分かっていないが、とりあえずニューロンが発火している状態について情報が得られれば、我々の心の中の表象は決まってしまうという、こういう考え方が「随伴現象説」です。
これに対立する考え方が「二元論」で、心は脳と独立して存在するという考え方です。「随伴現象説」は、心は脳という物質的な現象のコインの裏表に過ぎず、心は脳から独立して存在し得ないと考えます。さらに、「随伴現象説」では、心というのは何の能動的な役割も果たしていません。極端なことをいうと、心があってもなくても物質としての脳は全く同じ振る舞いをするという考え方になります。このことから、チャルマースというアメリカの哲学者が提案している、心がなくて脳と同じ機能を果たすゾンビというような概念が出てくるわけです。ゾンビのような存在が、いま実際に心と脳を考える科学者の間で議論されているわけです。
一方、「二元論」では、心は脳が無くても存在し、ある程度能動的な役割も持っているということになる。もっとも、脳科学者で「二元論」を採る人は少数派です。
さて私たちの心の中には、いろいろな表象があります。そのような表象の単位になっているものがクオリアです。物質界における単位が原子だとしますと、心の中の様々なものの単位がクオリアになっているわけです。
P165 茂木 「赤い花が右に動いている」という表象は、これらのそれぞれ別々のクオリアが統合されているからこそ、知覚できるのです。このような統合が、脳の中でどのように行われているかが「結びつけ問題」と名づけられて、ここ数年ほど、神経科学における非常にホットなトピックになってきています。
P170 茂木 ニューロンとニューロンがどのように相互作用しているかという、それを記述するハミルトニアンのようなものを書いてしまうと、それだけでいま天外さんがおっしゃった、どのニューロンとどのニューロンの発火を心の時間の中では同時と見なさなくてはいけないかということも自動的に決まってしまう。つまり、システムとして決まってしまうと考えているのですが。
P173 茂木 つまりある意味でいうとクオリアが、ふつうの自然科学でいう質量とか電荷とかそういった量に対応するのではないかと思います。その立場からいいますと、あるものとあるものが同時であるということを検出するユニットが必要だということにはならないと思うわけです。同時であると言うことは、そのシステムを自然法則として記述しようとするときに、その自然法則の形式から自動的に決まってしまうものであるということになるんです。小人がいるということを前提にしないで、むしろそれを消したいという動機づけからこういう考え方をだしたわけです。
P182 茂木 いま、人間とまったく同じ機能を果たすゾンビというものを考えます。ゾンビというのは、もともと中米で薬物を使って仮死状態になってしまった人のことをいうのですが、チャーマーズの言うゾンビは、人間ではない、しかし人間そっくりな存在で、まったく人間と同じ振る舞いをして、話しかければ人間とまったく区別がつかない受け答えをする。ところが、このゾンビには心がないというのです。人間が持っているような心的現象を、いっさい伴わないで人間とそっくりなことをする。それがゾンビなわけです。
いまの脳科学の通説である「随伴現象説」では、心があってもなくても同じですから、ゾンビの存在の可能性は否定できない。我々人間が全部ゾンビであった可能性もあるわけです。では、なぜ我々はゾンビではなくて、心を持っているのか。「随伴現象説」ではそれには答えられないくて、なぜか知らないけど自然がそうなっているからだといういうことになるわけです。
それに対立するものとして「二元論」という考え方がある。ノーベル賞を受賞したエックルズという神経生理学者も、晩年「二元論」的な立場を提唱した。「二元論」の立場では、心は、能動的な役目を果たす。つまり心があるかないかによって脳の振る舞いが変わってくるわけです。もっと大胆に言うと、心が脳をコントロールしていると。
P185 茂木 いま、もし「二元論」が正しいとして、心が脳を実際に動かしているとします。では心が脳を動かしているところを客観的な立場で見たら、どういうことになるか。あくまでも脳は物質で心が脳を動かすということは、物質がある動き方をするということになります。でもそれを客観的に見た場合には、物質が動いているということはそれに対立する力の場が存在するということですから、客観的に見た場合には、力の場が存在してそれに伴ってニューロンを構成している粒子が動いているという、ふつうの自然科学と全く同じ記述の仕方ができるわけです。
だから、実は客観的な立場から見ると、心が動かしていようが、ふつうの意味での物理的な場が動かしていようが区別がつかない。
ここまで読んでくれた方、ありがとうございます