こんにちは、領です。
絶対の価値は存在しません。
「絶対の価値は存在しません。」という思考にも絶対性が存在しないので・・・。
絶対という言葉は、直ぐに矛盾に至ります。
「私は嘘つきです。」これも嘘つきなのそうじゃないの?
人間の思考の中に永遠不変の独立した価値は存在しません。
それは、仏陀の思考も同じです。
「悟り」「仏教」「人が嫌がることはしない」「感謝」を含め絶対の価値のあるものは存在しません。
宇宙誕生138臆年を一年で現わすと、12月31日午後11時52分ホモ・サピエンス誕生となります。人が現われてから8分の分量です。
これにどのような感想を持とうとも、万物の理論が発展するなか数学や物理に従って避けようがなく決定論で人という構造は現われます。
何回宇宙が誕生しようと多世界(もしくはマルチバース)を含めて、同じ原子の配列、同じ仏教、同じ悟り、同じ仏教論争、同じ戦争がただ単に数学や物理に従って存在を現わします。(時空内の視点では時間が存在しますが、本質は「今」全て存在します)
「悟り」を目指すべき重要なものと思考することは、ブラックホールの重力によって引き寄せられている状況にたいし、自らブラックホールに価値を認め自らブラックホールに向かっていると思考することと同じです。
ふと思ったこと、
吊り橋効果。
泣くから悲しい。
手がかかる相手を好意的に思ってしまう。
意識する前に無意識の準備が始まる。
縁起縁滅の法から自由な五蘊は存在しません。
悟っても自由自在にはなりません。
「自在に観る」とは、「縁起縁滅の法に自在して観る」と、ふと考えました。
自らに自由意思があって「縁起縁滅の法に自在して観る」わけではありません。
縁起縁滅の法に従って、時空の決められた位置に「縁起縁滅の法に自在して観る」という構造が現われます。
これは、何回宇宙が誕生しても同じです。
縁起縁滅の法に自在して観る。とは、他責で思考することをやめ、出来事の起点を自己にし、不快の原因も自己に帰します。どんなに不快・理不尽・理解不可能なことがあっても、自分の記憶や経験の中から関係し合う快を発見します。快不快という出来事に対する身体感覚をイメージの中で幾何学的に構造化します。それは、曼荼羅のようなものです。
この構造化を続けると、五蘊が自己の思い通りになるものではなく世界全体と関係し合って存在していることに気付きます。
無常ということにたいして、自分の常を願う働きなどまったく歯が立たないことを納得します。「納得すること」これ自体が縁起縁滅の法の展開通りに現われた状態です。
操作や作為を停止した状態、自責の状態で自己の快不快を観察すると、この「観る」という構造が高次化して五蘊が空に至るのを照見します。
これは、何回宇宙が誕生しても同じです。
五蘊が一切存在を現わさないとき、如実に知るのは純粋なむきだしの「観る」です。
一切の五蘊を「観る」状態は何も存在しませんが全知です。「観る」は、一切の五蘊を観る。
この世の全ての人の五蘊にたいし、唯一の「観る」が存在します。
この構造は、全時空の人がたった今、同一人物ということです。
全知は、「今」が「今」すべて存在するという見方ができます。
各「今」に対して、全「今」が存在するという構造は、「今」が無限回目という見方もできます。
ドラマで、ある一日を繰り返すという怖いドラマがあります。最終的に悔いを残さない生き方を選択し、さすがに次の日を迎えてハッピーエンドかと思ったら、繰り返しに戻って・・・無気力になる。
数式に従って繰り返し現われる「悟り」という地点。
「悟り」の価値は絶対的なものではなく、価値を見いだす存在と価値を見いださない存在が強く相依相関して不可分に存在します。
ここまで読んでくれた方、ありがとうございます
おまけ
今、歯の根治療をしてます。5年以上前に治療したときからおかしいと思っていた部分で、やっと歯の詰め物をとったら神経が死にかけていると・・・。ほっぺの腫れはこの歯が原因だそうです。5年以上ずっとしんどかった!!治療早く終わらないかな