虹入り水晶とは、水晶内にクラック(ひび割れ)を持ち、そのクラック面が光を反射する際に虹色の輝きを放つ水晶のことです。
このように、見る角度や太陽の角度によっては、クラックだけで虹は見えません。
角度を変えると、クラックで光が干渉して虹が見えます。
そして、ある角度で光源である太陽をクラックに反射させると、虹は生じず光に満たされた状態が見えます。
この世界は、クラック面の虹の干渉と同じ構造です。
虹は掴めませんが、私たちの世界は電子の反発により物体を掴むことができ、実体があるように感じられます。
虹は太陽光の干渉の結果、人間が観察します。
電子、さらに、人間、人間の思考、人間の意識も、高次の干渉が存在するだけで、元は光源であることは同じです。
世界は光源から生じ光源に滅します。(原初の光源)
この世界内の物質である水晶は、「光源、虹、観察する人間」に、分かれていますが、「原初の光源」には、光源自身に、「干渉の結果生じる世界、純粋な観察」の両方を物理的性質として持っています。もうちょっと物理的な言葉で整理すると「対象を生じる性質」と「対象を観照する性質」です。
「対象を生じる性質」と「対象を観照する性質」、この物理的性質を持つ原初の光源自体が、あなたの意識の焦点の正体です。(人間の所有物として感じていますが、その感じも対象を生じる性質から生じ、観照しているだけです。)
意識の焦点(観照作用)は、時空を満たしかつ唯一として存在します。
それは、この世界の全ての人生を唯一の意識の焦点(観照作用)が「観ている構造」になります。
たった今、意識の焦点が、私の人生、あなたの人生、全ての人生を観ています。意識の焦点は、全知です。
この構造は、「全ての人は、同一人物」という構造を導きます。
たった今、目の前が観えているなら、それが原初の光源自身です。対象を生じ観ています。
人間の意識の焦点にピッタリ重なって世界全体を観ています。
人間の意識の焦点に重なっているだけで、「意識の焦点」ではなく、ただの「焦点」です。意識という質感は、「対象を生じる性質」から生じたものです。
ただの「焦点」、こうやって書くと、不快な人がいるかもしれません。でも、人間が想像するような、輝く永遠の命を持つ何者かが意思を持って観ているわけではありません。全ては、単なる物理現象でしかありません。
干渉が消え光源そのものに復帰すると、ただの「焦点」そのものをありのままに悟ります。悟りは、普遍的な物理現象です。
世界は光源から生じ、光源に滅する。干渉によって生じ、干渉によって滅する。
だからといって、「この世界は、虹のような幻影であり執着をなくせ」とは思いません。
苦しいことは苦しいし、嬉しいことは嬉しいです。
存在しているかぎり、不動の精神はあり得ません。