徒然草庵 (別館)

人、木石にあらねば時にとりて物に感ずる事無きに非ず。
旅・舞台・ドラマ・映画・コンサート等の記録と感想がメインです。

Records of L'Opera Rock Mozart (1)

2013年11月24日 | 舞台
【アーカイブ】
Records of L'Opera Rock Mozart ①


≪はじめに≫
昨年9月に第一報を聞いてから6か月。2013年2月はまさしく『ロックオペラ モーツァルト』(ROM)で終わった! 注:勿論仕事はしていた

作品について:公式HP http://www.mozart2013.jp/

当初4公演分のチケットを取り(+S席だったので合計金額の桁数に卒倒した)、観に行く前は「これだけ行けば十分でしょ」と言っていたのが…2月10日のプレビュー公演で「すべてが変わった!」都合がつく限り全て行け!ということで即・チケット手配に走ったあたりが、昨年9月の「tick, tick,…Boom!」の熱狂に似ていて…また同じことやってしまったのはご愛嬌だ。

あえて言おう。反省はしているが、後悔はしていない。

舞台は生き物。舞台は魔物。
そこに生きる人たちもまた、魔物なのである。
熱狂、あるのみ!


≪ロックオペラと赤/藍≫
この公演の話題性は、モーツァルトとサリエリという『アマデウス』的な人間関係を『ロックオペラ』として(ミュージカル、ではなく)描くことに加えて、主役の二人を二人の俳優が公演ごとに入れ替わって演じる、ある意味役者泣かせな企画そのものにもあった。

これを思いついたネルケプランニングの松田社長はドSに違いない!
何というグッジョブ。何というファン心理を突いた企画!いくら金を使わせる気だ!(爆)

Rouge(赤) Versionと銘打たれた公演では、モーツァルトを中川晃教、サリエリを山本耕史が、
Indigo(藍) Versionと呼ばれる公演では、モーツァルトを山本耕史、サリエリを中川晃教が演じる。

ただ光と影、裏と表といった区分けではない。ふたつのシナリオはまったく違った色合いをもって語られる。その二面性に引き込まれて劇場に通ったファンを巷では「ROM症候群」と言ったらしいが、まさに言い得て妙だった。


≪観劇スケジュール 東京公演≫        
2月10日(日)夜 赤 ※プレビュー公演
2月11日(月)夜 赤   
2月13日(水)夜 藍  
2月14日(木)夜 藍  
2月15日(金)夜 藍
2月16日(土)昼 赤
2月16日(土)夜 赤 ※赤公演最終日
2月17日(日)昼 藍
2月17日(日)夜 藍 ※東京千秋楽  
 
   
この「熱狂的な一週間」を何かの記録に残したいと思った時「主演の二人の変化と進化を見続けた中で、私自身の観る目も変わった」というのが一番のポイントだったので、赤版/藍版と分けて感じたことを書きだしてみた。

題して“Records of L'Opera Rock Mozart”
最初は「インディゴバージョン」…私と中川サリエリの5日間。


*       *       *


『何が中川サリエリの違和感であり、魅力であったのか?』
私にとって『ロックオペラ モーツァルト』インディゴバージョン(以下藍版)5公演「最大のテーマ」は、これに始まり、これに尽きた。
2月13日水曜日。待ちに待った藍版初日。(←プレビュー1日目を見ていないので初見となる)

ここまでルージュバージョン(以下赤版)を2回観て、余りの「ハマり配役」ぶりに衝撃を受けていた目には、興行5日目にして現れた藍版に正直「えっ?」という、どちらかというと肯定的ではない印象を受けた。
もっと正直に言うと、幕が上がった時にライトを浴びて舞台に現れた「中川サリエリ」の余りの違和感に堪えられなかったのだ。それが天井桟敷からの眺めだったとしても。

赤版における山本サリエリの見事な出来映え。芝居や歌、表現力や声の質、迫力、重厚さ、ビジュアル面でも立ち姿や衣装捌きの美しさ…申し訳ないが2月13日夜の中川サリエリは「遠く及ばない」…そう感じた。「これを3日間見続けるのか?」と不安になったのも事実である。
逆に、赤版の中川モーツァルトがキラキラと輝くような、まさに「アマデウスが天からこの舞台に降りてきた」と信じてしまいそうな強烈な魅力を放っていたから、というのもあったのだが。
何より私は二夜続けて山本サリエリの『妖艶優美な佇まいと、切なく狂おしいほどの色気』に心を奪われ、ウットリと酔いしれていた。

その一方、藍版初日の山本モーツァルトは私から見ると「ヤンチャな天才、世間知らずのスーパースター」な中川モーツァルト像とは全く違う、よりエレガントで洗練された空気感の漂うキャラクター造形…良くも悪くも「上手過ぎてソツがない」何かをぶち壊す!という強烈さや危うさはアッキーが数段上に思えて、決して藍版モーツァルトの表現力に不満はないのだけれども「何かが物足りない…」という贅沢なモヤモヤを抱えるはめになった。

歌曲は心配していた通り、原曲のキーの高さにキャストの声域が上手く合わない場面がチラホラ…山本サリエリの中音域~やや低音のかなり太さと力の要る歌唱場面、ところどころ中川サリエリの喉は細く不安定に思え、中川モーツァルトの伸びやかで透明感ある高音と、あのR&B的な歌い方を「そのまま」なぞると、山本モーツァルトの声は半分も良さが生きず、掠れて潰れてしまう。
そして一幕ラスト『薔薇の香りに包まれて』二幕『痛みこそ真実』でその不安が的中し、これまた「3日間これを見守らなくてはならないのか?」と気がかりの種が増えた。

カーテンコールではすっかり「素」に戻ってはしゃいだ様子の中川サリエリを観てさらに「キャラじゃない…」と深まる違和感。しっくりこない、という気持ち悪さ。芝居に酔った観客は往々にして「役イメージ」を劇場を出る最後の瞬間まで壊されたくない、と願うものだが、観客の拍手に応えるアッキーの楽しげな笑顔は、数分前まで「サリエリ」の「嫉妬」や「苦悩」に塗れていた余韻の欠片も残さず…どうしたものか、と多少の困惑を抱えて見つめてしまったものだった。

何故、アッキーに「わざわざ」似合わないサリエリ役まで演らせるのか?
赤版であれほどに素晴らしく、イメージとして完成されたものを提示できているのに、敢えてそれを壊すような真似をする理由は?

憂悶を抱えつつのアフタートーク。稽古中のエピソードを紹介する中、アッキーが目を輝かせて「山本さんについて行きます!」という愛の告白(苦笑)をするに至り「何が原因が分かった気がする…」と思わず呟いてしまった。
役者としてのキャリア、力量、自分にないものを持つ者との出会い。それは彼の場合、好意にこそなれサリエリ的鬱屈にはなるはずがない。人間としては勿論美点だが、それが芝居に出るというのは別の問題だ。これはやはり中の人の『想い』が消せてないのか、抑えても溢れ出てしまっているのか…「まるで子どものように真っ直ぐな、あんな澄んだ目をして、あの鬱屈した大人のサリエリは演じられないだろうなぁ」と、その日は結論づけてみた。


*       *       *


そんなわけで、モヤモヤしつつ翌14日も知人と天井桟敷からの観劇に出かけた。舞台がハケた後、知人は舞台そのものの出来とは別物、と前置きしてから「純粋に子どもの眼をした中川サリエリの違和感」に言及していたので、私も「やっぱりそう見えるのか」と思いつつ聞いていた。

知人「実年齢やキャリアで言うとサリエリの方がモーツァルトより上だったわけで、十分に実績と名声を勝ち得た、分別ある『オトナ』のサリエリが、自分よりも若く才能にあふれた存在に出会い、嫉妬懊悩する…という図式こそがアマデウス的ストーリーのキモなのに、アッキーのサリエリは『自分より優れた者への純粋な憧憬』にしか見えにくかった。言うなれば子どものサリエリ」

私「たぶん赤版は『中の人ファクター』が見る側にも自然かつ有効に作用したから、余計にしっくりハマって見えたんでしょう。アッキーのサリエリには負の感情が滲んでない。透明過ぎる…感情の澱みがサリエリの芝居の深みのはずなのに?それに声も歌詞の激しさとは別次元の、突き抜けた感じで、ドロドロの煩悶や澱み、タメが足りないような…いったい、これからどう変わっていくんでしょうね?」


*       *       *


明けて15日、金曜日の夜公演。
ようやく1階席の8列目ほぼ中央、という良席での観劇。双眼鏡に頼らずとも舞台とお芝居のすべてを手に取るように見られる、まさに最高の環境で、何か違うものが観られるだろうか?と期待して出かけた。余談だが1F最前列や2~3列目だと、その「近さ」に別のミーハーモードが発動してしまい、ひたすら視線は主役を追っかける、という情けない状態になってしまったので、冷静に見るには「距離」が要るのだよ…!

2日間3公演を経て格段に進化を遂げていた、山本モーツァルト。芝居の「そつのなさ」は「余裕」になり、歌声の危なっかしさはキーを多少自分向けにアレンジして改善できたのか、中音域での伸びやかさと所々の高音部が絶妙に絡み、加えてダンスやステップにも華やかさが。数多いバックダンサーとの「動きの一体感」も増して「舞台が一枚の絵のように見える美しいシーン」がいくつも繰り返され、まさに藍版モーツァルトの到達点!

難曲『薔薇』も、前半の抑えた中高音、後半からクライマックスの「叫び」も、ガッツリ音にハマっていたし、こういうのが観たかった!と思わせてくれる満足度合いだった。

必ず「上げてくる」と思っていた。それまでもちゃんと毎日少しずつ工夫をこらして、変えてきていたから…何よりそういう役者さんだから。その過程を見守ってこれたのも、藍版の楽しみだった。

そして中川サリエリを間近で見守った2時間半。
私のたどり着いた結論は……?

これは「恋」だ。

この際、恋に性別はない。
そう、人は、自分にないモノに惹かれるのだ!

彼が見せるのは、恋い焦がれる感情に翻弄される、純粋な一人の人間の、「生身の姿」!

敢えてこう表現をしたくなったほどに、中川サリエリの姿は「クラス1の不良に恋する優等生の少女」のように無邪気で「自分の中に眠る、社会的立場も常識も投げ捨てたいという欲望」と「願いつつも絶対にそれはできない『自分の限界』への苛立ち」が、恋する純粋さをあの『野性的な叫び』に変えて歌い上げているのだ!

そうだとすれば、舞台上でモーツァルトを見つめる、あの潤んだ熱い眼差しも、宮廷での振る舞いとは真逆の、時に自信を失ったかのように震え揺れる声も、暗がりで一人肩を落とす姿も、ラストで楽譜を抱きしめて頬に伝う涙も、すべて納得がいくじゃないか!!!

中川サリエリは「子ども」なんかじゃない。
あれは「恋する乙女」だったのだ!


いいのか、その結論で!!!?
ここまで折角、勿体つけて書いてきたのに…全部台無しになっちゃったじゃないか!w

再び…反省はしたが後悔はしていない。
そもそも『二人の男は惹かれあい、傷つけ合った』がこの舞台の公式キャッチコピーだから。男の嫉妬と愛が主題なんだよ。なんたってアマデウスとサリエリ。愛の究極は所有欲だと誰か言ってたよな?愛するから手に入れたい、相手を支配したい、それができないならいっそ奪いたい、殺したい…!と言うことなのだ!

落ち着け自分。まあ座れ。そして氷水でも頭からかぶれ。(爆)  
というわけで?あの問いへの答えが出た。

『何が中川サリエリの違和感であり、魅力であったのか?』

それは『中川サリエリが恋する乙女だったこと』(キッパリ)恋する「少年」ではない。オトメである。何故なら二幕で自らの守るべき立場と秩序のためにモールァルトを追い落とそうと企てる数々のシーンでは、協力者ローゼンベルグ伯爵を言葉巧みに操りつつ、彼を見送るその表情はいつも「今にも泣きだしそうな」繊弱さを湛えていて、とてもそれは「男の権力闘争」の表情ではなかったから。いつも「これは私の本意ではない」「本当はこんなことはしたくない」「私は本当はお前を認めているんだ」という絶望的な嘆きが、その寂しげに潤んだ瞳には漂っている。←そんなものを見せるのは「恋する乙女」くらいだw

最高にそれを感じるのが病床のモーツァルトを見舞うラスト。ここでは「立場」を捨て去り、一人の芸術家として相対するように、との演出指示があったという。それを聞いてアッキーは「本当に嬉しかった。それまでずっと押さえつけていた自分の感情を、素直に伝えていいと言われたから」と表現していた(2/13アフタートーク)だからだろうか、この場面では山本モーツァルトの方が、悲しみにくれる中川サリエリを大きく受け止め、優しく言葉をかけ、最期の別れを告げる…という立場の逆転した「不思議な構図」が、ごく自然に観る側にも受け入れられていた。

そして、こちらの問いにも答えが。
『何故アッキーにわざわざ似合わないサリエリ役まで演らせたのか?』
それはサリエリの存在を取り込むことが、彼の演じるモーツァルトに必ず深みを与えると分かっていたから。

「恋する目に映った」相手が、一夜明ければ自分の演じる役になる。純粋な「憧憬の対象としてのモーツァルト」を、自ら体現しないといけない。しかし輝きが強くなればなるほど、その「光」の生み出す「影」もまた暗く濃いものになる。

濃い影、負の感情も同様に強くなければ、薔薇の歌やラストの歌は深くならない。モーツァルトが光でサリエリが影…という単純な二元論ではこのシナリオは語れない。あの歌は歌えない。

あの藍色の日々を経て、赤版初日の「一点の曇りもない」夏の太陽のようにキラキラ輝く少年のようなモーツァルトは、最終公演の16日には「生きていくことで起きる挫折や苦難全てを飲み込んでも決して消えない、強く燃え上がる炎」…素晴らしい「ヴォルフガング・アマデウス・中川晃教・モーツァルト」になっていた。

そしてカーテンコール。
笑顔のアッキーを無言で抱きしめる山本サリエリに、私は本気で涙した。


*       *       *


17日、東京公演千秋楽。冷え切った大気が気持ち良い、冬晴れの日。
中川サリエリは、この一週間の試行錯誤と経験を全て芝居と歌声に込めて、ひたむきなまでに純粋で、哀しいほどに真っ直ぐな「恋する乙女(←まだ言うかw)」の狂気と破滅と、魂の救済を見せてくれた。

才能を持ち、誇り高く野心的で、一方で誰よりも傷つきやすく壊れやすい繊細な感情の持ち主。ただ見守り佇むシーンでも、無言の潤んだ眼差しが「私をここから救け出してくれ」「私の想いに誰か気づいてくれ」と悲鳴を上げているような緊張感。荒れ狂う内心を歌い上げる時のメロディーは高く、まさに突き抜けた感情そのもの。よく通る澄んだ台詞の声と、歌声の激しい揺らぎ、傷ついた猛獣が叫ぶような荒々しさ、どちらもこの一週間が育て上げた「中川サリエリ」の魅力となって昇華したように感じた。

千秋楽の客席の熱狂は凄まじく、1階席中央の私たちのところまで2階席、3階席の歓声と拍手が嵐のように降り注ぐ。予定にない「夢を支配するもの」アンコールが飛び出し、歌う山本モーツァルトの真横、舞台中央で黒衣の中川サリエリがロック・スターのように「みんな歌って!拳を上げろ!飛び跳ねろ!渋谷を揺らせ!!」と観客を煽っている。本当にシアターオーブの床が、壁が、空気が揺れる。初日にあれほどの違和感があったその姿も、今となっては全て「この瞬間のために必要な過程」だったんだと納得する自分がいた。

「あれがサリエリか?」と聞かれたら、答えはNOだ。
でも「あれが中川晃教のサリエリか?」と聞かれたなら、私は笑顔でYESと答えるだろう。

この日、私は藍版のサリエリを心から「愛おしい」と思った。


*       *       *


そして… 残っていた「もう1つの疑問」についても、私は自分なりの答えを見つけた。
『赤版であれほどに素晴らしく、イメージとして完成されたものを提示できているのに、敢えてそれを壊すような真似をする理由は?』
確かに「非の打ちどころなく、素晴らしいハマリ役の二人」である。
だが逆に言えば「赤版は誰もが観たくて予想したモーツァルトとサリエリの、最高の具現化」…もし、そうであれば、フィルのように野心的なクリエイターなら「誰も見たことがなかったモーツァルトとサリエリ」も「同時に」作り上げたい誘惑に駆られたに違いない。

きっとそれが「中川晃教のサリエリ」であり、「山本耕史のモーツァルト」だったのだ。

難度の高い歌(平均的なミュージカルよりも1~2音高いという話だった)フランス版よりも心理描写に重きを置いたシナリオと芝居、古典と現代の融合した華麗な衣装(動きにくかっただろうが)、バックダンサーを交えた華やかな、あるいは蠱惑的なダンスシーン…。そして配役交代。

全てにおいて高いレベルの挑戦を同時に課して、彼ら二人が全力で立ち向かった先にあるものは…?

フィル・マッキンリーは、それぞれに強みも持ち味も異なる彼ら二人が「一緒に」その試練を乗り越えた先の「景色」を、二人一緒に「見せたかった」のかもしれない。もちろん、フィルには既にその景色が「見えていた」に違いないから。

もしも今、機会を得られるのであれば、私はフィルと主演の二人に聞いてみたい。
「次(再演)があるとしたら、これ(初演)を超えるため…今度は何に挑戦しますか?」
さて――どんな答えが返ってくるだろう?

できればインタビューではなく…舞台人なら舞台の上で答えを聞かせてほしい。
赤でもない、藍でもない…山本耕史と中川晃教、彼ら二人の奇跡の出会いと挑戦が生んだ「初演」を超える「新しい ロックオペラ モーツァルト」を、近い将来必ず私たちに見せてくれることを期待して…いまは待つとしよう。