10月13日(土)『ヴォイツェク』&アフタートーク
実は初日に行って、かなり困惑して帰ってきた舞台でした。舞台としての完成度、芸術性、音楽、歌、俳優の演技も誰も彼も怖いくらい鬼気迫ってまさに「怪演」――けれども、私の中でそれらは素直に溶け込むどころか「異物感」を残したまま強烈なモヤモヤとなって数日間残ったのでした。
初見のモヤモヤがそれなりに落とし込めれば吉、そうでなければ、私がこの舞台を「今は人生に必要としていない」ということかもしれない、とまで思いつめて臨んだトークショーでした。←これはお芝居の内容や完成度、芸術的な価値とは全く関係ありません。もっと精神的な、個と個の間に生まれる共感性みたいなものです。
観劇後、山本さん+白井さんのトークショーで白井さんから説明された演出の意図や、この舞台自体の醸し出す空気感について感じていたことに対するある種の回答が得られてよかったと思います。モヤモヤ感を上手く具体的に表現できていなかったので、霧が晴れた気分です。さすが、空気や雰囲気を言葉にするのが実に的確…素晴らしい落とし込み方を見せて頂きました。
つまり、モヤモヤした観る側の心情は、演出家の仕掛けた「落ち込むべき沼」…私はそこに、落ちるべくして落ちたというわけです。そうか、言葉にできない感覚をそのまま信じてよかったのか!とスッキリ!!!(もちろんそれで共感性が生まれるかというと、それは別です。具体性を持たなかったモヤモヤが言葉を与えられある形を成した→理性で理解できた、という表現が近いでしょうか?)
あと印象的だったのは劇中で使われている音楽、意図的な不協和音というか、歌い手にとっても難しい(例えばメロディーラインと歌は半音ずれている)と、山本さん談。
山本「音楽劇とミュージカルの違いって何かな、って考えたらあれだ!拍手が出ないことだって気づいたんです!(爆笑)ミュージカルでは一曲歌いあげたらお客さん拍手しますけど、ヴォイツェクなんか歌いながら曲が終わってもいないのにハケちゃうし…」
白井「直後の台詞もひどいしね(笑)」←お前は精神錯乱だ、みたいな大尉の台詞のこと。
↑
聴いていて「身をゆだねる」「心惹かれる」という気持ちになれなかった、むしろセイレーンの歌声のように「不吉な音」を感じ、「ここにいてはダメだ」「これにハマってはダメだ」と警告の棘が肌に触れるような…理由はこの不協和音だったのでしょうか。
人間の狂気と毒と愚かさに満ち満ちた、ヘドロのように濃密な舞台でした。誰も彼もが少しずつ狂っている。でも、誰一人として自分がおかしいなどと思っていない。芝居巧者たちが繰り返し見せつけるこのパラドックスはまさに「毒舞台」の名前に相応しく、観る側の精神を侵食していくのです。共感してはいけない、共感したら飲み込まれる、正直にそう思いました。
ただ、中途半端な部分も目立ちました。ヴォイツェクとマリーの関係性がどうも説得力を持って入ってこない…ここがもっとしっかり描けていたら、悲劇が悲劇に見えてくるのですが、あれでは…少し無理があるような気がします。
アフタートークでモヤモヤはある程度消化できたものの、かといってもう一度観に行きたいか?と聞かれると、う~ん…と言うのが正直な感想で。あの長くて難解な台詞をどうしても追ってしまうので、すごく観る方もエネルギー奪われる。聖書や故事の引用もかなりあざといなと感じるところもあって、合わないな…と思ってしまったのです。
そんな中で、石黒英雄くん演じるアンドレースの頼りなさ。それは演者の経験値や力量、年齢の差だけでなく、周りが狂い過ぎているから、彼だけがいい意味でもそうでない意味でも「まとも過ぎて」修羅場のような舞台上でオロオロとする新兵のような存在だったから…かも。しかも、これまた「ブレないまともさ」少しくらい影響されておかしくなるかと思いきや、良くも悪くも「変わらない」10日で少しは芝居が変わるかと思いきや、あまり変わらない。
人間の狂気と毒に満ちた濃密な舞台――だからこそアンドレースの見せる心優しさや弱さ、まっとうな言葉に一抹の救いも感じました。特にヴォイツェクに向かって「お前が嫌いだよ」と(ついに)言ってしまった後、兵舎に乱入してきた鼓手長がヴォイツェクを殴りつけるのを身体ごとで止めに行くシーンには胸を打たれました。
「馬鹿と気狂いは真実を言う」(イギリスの諺)
読めば読むほど難しい。大量のセリフを通り抜けて、最後に残る印象はシンプル。そこにたどり着くのに大変なスキルがいる。現代も何が正しくて何が間違っているか不安定な時代。見ている人の心が揺れる作品にしたいと思います。(山本耕史さんインタビュー:毎日新聞より)
確かに「見ている人の心が揺れる作品」なのは間違いありません。ただ、観ている側としては「心が揺れる」と「心を揺さぶられる」の違いを改めて考えてみる機会にもなりました。それも高揚するような揺れ動きか、不快適ゾーンに否応なく放り込まれるような揺れなのか。
心は揺れました…大きく、深く。
しかしその揺れ方は、私にとって(どちらかというと)後者であったのかもしれません。
実は初日に行って、かなり困惑して帰ってきた舞台でした。舞台としての完成度、芸術性、音楽、歌、俳優の演技も誰も彼も怖いくらい鬼気迫ってまさに「怪演」――けれども、私の中でそれらは素直に溶け込むどころか「異物感」を残したまま強烈なモヤモヤとなって数日間残ったのでした。
初見のモヤモヤがそれなりに落とし込めれば吉、そうでなければ、私がこの舞台を「今は人生に必要としていない」ということかもしれない、とまで思いつめて臨んだトークショーでした。←これはお芝居の内容や完成度、芸術的な価値とは全く関係ありません。もっと精神的な、個と個の間に生まれる共感性みたいなものです。
観劇後、山本さん+白井さんのトークショーで白井さんから説明された演出の意図や、この舞台自体の醸し出す空気感について感じていたことに対するある種の回答が得られてよかったと思います。モヤモヤ感を上手く具体的に表現できていなかったので、霧が晴れた気分です。さすが、空気や雰囲気を言葉にするのが実に的確…素晴らしい落とし込み方を見せて頂きました。
つまり、モヤモヤした観る側の心情は、演出家の仕掛けた「落ち込むべき沼」…私はそこに、落ちるべくして落ちたというわけです。そうか、言葉にできない感覚をそのまま信じてよかったのか!とスッキリ!!!(もちろんそれで共感性が生まれるかというと、それは別です。具体性を持たなかったモヤモヤが言葉を与えられある形を成した→理性で理解できた、という表現が近いでしょうか?)
あと印象的だったのは劇中で使われている音楽、意図的な不協和音というか、歌い手にとっても難しい(例えばメロディーラインと歌は半音ずれている)と、山本さん談。
山本「音楽劇とミュージカルの違いって何かな、って考えたらあれだ!拍手が出ないことだって気づいたんです!(爆笑)ミュージカルでは一曲歌いあげたらお客さん拍手しますけど、ヴォイツェクなんか歌いながら曲が終わってもいないのにハケちゃうし…」
白井「直後の台詞もひどいしね(笑)」←お前は精神錯乱だ、みたいな大尉の台詞のこと。
↑
聴いていて「身をゆだねる」「心惹かれる」という気持ちになれなかった、むしろセイレーンの歌声のように「不吉な音」を感じ、「ここにいてはダメだ」「これにハマってはダメだ」と警告の棘が肌に触れるような…理由はこの不協和音だったのでしょうか。
人間の狂気と毒と愚かさに満ち満ちた、ヘドロのように濃密な舞台でした。誰も彼もが少しずつ狂っている。でも、誰一人として自分がおかしいなどと思っていない。芝居巧者たちが繰り返し見せつけるこのパラドックスはまさに「毒舞台」の名前に相応しく、観る側の精神を侵食していくのです。共感してはいけない、共感したら飲み込まれる、正直にそう思いました。
ただ、中途半端な部分も目立ちました。ヴォイツェクとマリーの関係性がどうも説得力を持って入ってこない…ここがもっとしっかり描けていたら、悲劇が悲劇に見えてくるのですが、あれでは…少し無理があるような気がします。
アフタートークでモヤモヤはある程度消化できたものの、かといってもう一度観に行きたいか?と聞かれると、う~ん…と言うのが正直な感想で。あの長くて難解な台詞をどうしても追ってしまうので、すごく観る方もエネルギー奪われる。聖書や故事の引用もかなりあざといなと感じるところもあって、合わないな…と思ってしまったのです。
そんな中で、石黒英雄くん演じるアンドレースの頼りなさ。それは演者の経験値や力量、年齢の差だけでなく、周りが狂い過ぎているから、彼だけがいい意味でもそうでない意味でも「まとも過ぎて」修羅場のような舞台上でオロオロとする新兵のような存在だったから…かも。しかも、これまた「ブレないまともさ」少しくらい影響されておかしくなるかと思いきや、良くも悪くも「変わらない」10日で少しは芝居が変わるかと思いきや、あまり変わらない。
人間の狂気と毒に満ちた濃密な舞台――だからこそアンドレースの見せる心優しさや弱さ、まっとうな言葉に一抹の救いも感じました。特にヴォイツェクに向かって「お前が嫌いだよ」と(ついに)言ってしまった後、兵舎に乱入してきた鼓手長がヴォイツェクを殴りつけるのを身体ごとで止めに行くシーンには胸を打たれました。
「馬鹿と気狂いは真実を言う」(イギリスの諺)
読めば読むほど難しい。大量のセリフを通り抜けて、最後に残る印象はシンプル。そこにたどり着くのに大変なスキルがいる。現代も何が正しくて何が間違っているか不安定な時代。見ている人の心が揺れる作品にしたいと思います。(山本耕史さんインタビュー:毎日新聞より)
確かに「見ている人の心が揺れる作品」なのは間違いありません。ただ、観ている側としては「心が揺れる」と「心を揺さぶられる」の違いを改めて考えてみる機会にもなりました。それも高揚するような揺れ動きか、不快適ゾーンに否応なく放り込まれるような揺れなのか。
心は揺れました…大きく、深く。
しかしその揺れ方は、私にとって(どちらかというと)後者であったのかもしれません。