おはようございます。広島平和記念資料館には、たくさんの人が見学に来ていました。外国人がたくさんいたのも特徴的です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/18/d5/92e80ae37eedbf944d506d01343dedd9.jpg)
世界という月刊誌の8月号に広島平和研究所教授の田中利幸さんという方が紹介しています。私は唖然としました。
1955年にアメリカ下院議員のシドニー・イエーツという人が広島に日米合同の工業用原子力発電炉を建設することを提案しました。いわく
「最初に原子力の破壊をこうむった広島こそ原子力の平和的恩恵を受ける資格がある」このような言葉に被爆者も日本人のほとんどが騙される歴史を作ってしまいました。
その後、米国政府は読売新聞社の正力松太郎氏を抱きこんで、読売新聞と日本テレビをフル活用しがメディア作戦を行いました。この当時から、原発は生まれる前からメディアに操作されていたのです。「やらせ」などというような甘い行為ではありません!
田中氏はこのように書いています。
「米国にとって、とりわけ原子力推進にかかわっていた政治家や企業家にとっては、‘毒を以って毒を制す‘ ごとく、原爆被害者から‘原子力平和利用‘ 支持のこのような‘お墨付き‘ をもらうほど有利なことはない。それゆえこそ、広島が、とくに被爆者が‘原子力平和利用‘ 宣伝のターゲットとされ、繰り返し‘核の平和利用‘ の幻影が彼らに当てられ、被爆者たちはその幻影の放つ輝かしい光に眩惑されてしまったのである。その意味では、被爆者たちは核の二重の被害者とも言える存在である。」
悲しいかな、1955年8月6日に広島市公会堂で開かれた第一回原水爆禁止世界大会でも当時の鳩山首相からの祝辞には「原子力が人類の福祉のために使用されることを望みます」というメッセージも含まれていました。そして原水爆禁止の運動の中に、原子力=「核」の平和利用を積極的に進める潮流ができたのです。
1963年に原水爆禁止世界大会の運動が分裂するまで「原子力の民主的な平和利用」を繰りかえし続けられました。
反核・反原発はバラバラの運動や動きではなく、一緒の問題として考えてゆく必要があると思います。
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世界という月刊誌の8月号に広島平和研究所教授の田中利幸さんという方が紹介しています。私は唖然としました。
1955年にアメリカ下院議員のシドニー・イエーツという人が広島に日米合同の工業用原子力発電炉を建設することを提案しました。いわく
「最初に原子力の破壊をこうむった広島こそ原子力の平和的恩恵を受ける資格がある」このような言葉に被爆者も日本人のほとんどが騙される歴史を作ってしまいました。
その後、米国政府は読売新聞社の正力松太郎氏を抱きこんで、読売新聞と日本テレビをフル活用しがメディア作戦を行いました。この当時から、原発は生まれる前からメディアに操作されていたのです。「やらせ」などというような甘い行為ではありません!
田中氏はこのように書いています。
「米国にとって、とりわけ原子力推進にかかわっていた政治家や企業家にとっては、‘毒を以って毒を制す‘ ごとく、原爆被害者から‘原子力平和利用‘ 支持のこのような‘お墨付き‘ をもらうほど有利なことはない。それゆえこそ、広島が、とくに被爆者が‘原子力平和利用‘ 宣伝のターゲットとされ、繰り返し‘核の平和利用‘ の幻影が彼らに当てられ、被爆者たちはその幻影の放つ輝かしい光に眩惑されてしまったのである。その意味では、被爆者たちは核の二重の被害者とも言える存在である。」
悲しいかな、1955年8月6日に広島市公会堂で開かれた第一回原水爆禁止世界大会でも当時の鳩山首相からの祝辞には「原子力が人類の福祉のために使用されることを望みます」というメッセージも含まれていました。そして原水爆禁止の運動の中に、原子力=「核」の平和利用を積極的に進める潮流ができたのです。
1963年に原水爆禁止世界大会の運動が分裂するまで「原子力の民主的な平和利用」を繰りかえし続けられました。
反核・反原発はバラバラの運動や動きではなく、一緒の問題として考えてゆく必要があると思います。
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