“さるかに合戦”  臼蔵 と 蜂助・栗坊 の呟き

震災や原発の情報が少なくなりつつあることを感じながら被災地東北から自分達が思っていることを発信していきます。

まっとうな社会を築く

2015年03月09日 09時03分49秒 | 臼蔵の呟き

歴史の進歩は、どのような人物であっても、その変化,進歩から逃れることはできません。侵略戦争推進、軍国主義復活を扇動しても、平和な社会を求める世界、人類のうねりを止めることはできません。

旧天皇制政府の侵略戦争による莫大な被害を、歴史の教訓として活かさなければなりません。

<信濃毎日社説>まっとうな社会を築く★旧河野村長の遺言

 敗戦直後に悲劇は起きた。1945(昭和20)年8月。満州の首都、新京近郊に入植し2年目の下伊那の河野村開拓団である。73人が集団自決したのだ。翌年の夏。分村移民を決め、開拓団を送り出した村長、胡桃沢盛(もり)は自死した。41歳だった。

 70年の時を経て、村長の孫で精神科医の胡桃沢伸さん(東大阪市在住)が先月、阿智村の満蒙(まんもう)開拓平和記念館で講演した。〈祖父が残したもの〉。こうした場で初めて話すテーマと内容だった。
 祖父の死は家庭内で語られなかった。胸の上に大きな岩が乗り、「話すな」と命じている。伸さんは幼いころからそう感じていた。 2004年、父親が盛の日記の公開を決意。満蒙開拓の歴史を後世に伝える下伊那の活動を知り、祖父と向き合うようになった。

 講演を引き受けたのは、戦争を招きかねない安倍晋三政権に危機感を抱いているからでもある。「戦前にぐいぐい戻ろうとしている。今、何も言わないわけにはいかんだろうと」

   ▽皇国農村の模範

 胡桃沢盛は1905(明治38)年、養蚕農家の長男に生まれた。日記は村長日誌と合わせ30冊。120万字に上る。飯田市歴史研究所のゼミに参加する市民らが3年がかりでパソコンに打ち込んだ。

 以下、胡桃沢日記とその解説から足跡をたどる。

 盛は大正時代に青春を過ごし、社会主義に共鳴。社会運動家の山本宣治らが講師を務めた「信南自由大学」に参加している。

 1940年、36歳の若さで村長に就任。その直後、皇居で行われた紀元二千六百年式典に参列。日記には〈聖代に生を受けし喜を高らかに唱う。我が民族のみの持つ誇りだ〉と感動を記した。

 1941年12月8日、日本は太平洋戦争に突入した。世界恐慌を契機に急落した繭価はこのころ持ち直し、満州移民の希望者が減少。国はあの手この手で自治体に移民送出を割り当てる。

 盛は満州移民に当初はためらっていた。だが次第に国策の歯車に組み込まれていく。

 1943年9月。河野村は天皇に尽くす農村「皇国農村」の指定を受けた。大きな眼目の自作農を増やすことは、小作率が高い現状から断念せざるを得なかった。残る選択肢は、一定の割合の村民を満州に送る分村移民だった。

 〈安息のみを願っていては今の時局を乗りきれない。俺も男だ〉。分村移民を決断した同年10月22日付の日記にある。

 やがて盛は国策を率先遂行する模範的なリーダーと評価された。

 村には皇国農村確立運動の補助金として9万7500円が配分された。移民の送り出しや村に残った農家の育成などに使われた。

 45年になると開拓団から男性が召集された。ソ連が侵攻した8月9日以降は高齢の団長と女性、子供ばかりに。そして敗戦。土地や家から追い出されていた現地中国人の暴動が起きた。絶望した団員は16日夜から17日朝の間に次々と仲間を手にかけていった。

 盛は敗戦後の日々をぼうぜん自失の中で送る。〈満州に在る同胞の事愈々憂慮を伝えらる。冬が迫り来る〉=11月26日付。

 翌46年4月、盛は村長を辞職。農業暮らしに入る。日記には開拓団の末路の記述は見られないが、自責の念、葛藤、苦悩が伝わる。

 夏に入るとさらに追い詰められている状況が分かる。

 〈頭鬱々(うつうつ)として落ちつかず〉=7月9日。

 〈終日の不慣れな労働に身体がぐたぐたに疲れ、神経のみ光る〉=7月14日。

 日記は16日付で終わる。死を選んだのは27日である。

   ▽終わらない戦争

 盛の日記は全6巻が刊行され脚光を浴びている。だが伸さんは講演で訴えた。祖父を美化してほしくない。分村決断という過ちを犯した加害の人であり、日本がアジアを侵略し迷惑をかけた全体像の中で位置付けてほしい―と。

 「祖父は責任を認め、後悔が痛切にあった」。伸さんはそこに死の意味があり、加害の悔いこそ伝えたいと考える。そして、その先に進むにはどうしたらいいか、会場の人たちにも問うた。

 今も世界の至るところで起きている悲劇と応答する。理不尽なことに泣き寝入りしない。加害者は過ちを認める。そうした責任を個人が果たすだけでなく、皆の手でまっとうなことが堂々と通る社会を築く。そうした問題提起だ。

 会場には河野村開拓団員でただ一人、生還した久保田諫(いさむ)さん(85)もいた。「気持ちが苦しさを増したとしか言いようがないが、よくぞ話してくれた」

 終わらない戦争がある。戦後70年談話を出す安倍首相にも知ってほしい事実である。


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