Nonsection Radical

撮影と本の空間

4月23日 木曜日 後始末

2015年04月23日 | Weblog
大阪を出て行く後始末をシュクシュクと行なう。
何を持って行き、何を処分するのか熟慮はせずに区分する。
出来るだけゴミとなるものを残さないようにするだけ。
そんな気分になるのも、これから”話題”になっていくであろう総理大臣談話に関して話を聞いた事も関係するのか。
そもそも戦後に生まれた世代がどうしてずっと昔の事でケンケンガクガクしなければならないのか。
ジイさんバアさんの世代がやらかした事が、今の、そしてこれからの若者に何の関係があるのか。
原因はたったひとつ。
あとあとまで遺恨を残すような事をジイさんバアさんたちがやったからだ。
良い悪いの問題ではなく、遺恨を残すような事をしたのが悪い。
相手に対して、そんなことをいつまでも・・・と言う事ができないのは、我が身を振り返って、戦後何十年とか、原爆投下とか、はたまた何回忌法要とか、過去を振り返ってばかりいるのだから、人間とはそういうものだと自分に対するように他人にも接することで理解出来るだろう。
当時の日本人は、自分らのする事が遺恨を残して、孫子の代まで影響するなどとは考えずに行動した結果が、現在まで続く周辺国とのいざこざとなっているのだ。
だから当然、その”とばっちり”を受けている現代人は、「ったくよ~、クソジジイクソババアどもが余計な事しでかすからこんな眼に遭うんじゃねえかよぅ」と憤るのが正しい反応である。
けっして総理某のように、祖父の汚名を晴らすなどと思うのは勘違いも甚だしい。
ジイさんが余計な事をしたから、困難な舵取りをしなくちゃならないんだと怒るのが正しい政治思想である。
ところが現代人であっても、自分らのジジババがしでかした余計な事に眼を向けず、今更原爆投下に対して怒るのが間違いであるかのように、過去にやられた事を持ち出してくる周辺諸国に怒りの矛先を向ける人がいる。
例に挙げたように、それは自分たちの行なっている事に弓を引く行為である。
どちらも過去のジジババがやっちまった事でエライ目に合っているのだ。
だからこそ遺恨を残すような事をやったヤツらを責めるべきなのだ。
仕方なかったんだと言われても、それで納得出来るようなもんじゃないだろう。
お互いにそういうものなんだから。
ただ、現代人も心しておかなくてはならないのは、「今」自分らが何かをやっちまったら、それが将来の人達にまで遺恨を残す事になるという事だ。
そう心得て行動しないと、結局将来の人から「ったくよ~、クソジジイクソババアどもが余計な事しでかしてよ~」と言われるはめになるのだ。
心して引っ越しの後始末をしないと。



大垣駅前商店街 1
岐阜県大垣市高屋町1丁目
撮影 2014年12月23日 火曜日 11時20分
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