Nonsection Radical

撮影と本の空間

外見(そとみ)

2016年09月18日 | Weblog
オッサンって自らのことをさておいて、主に異性をいやらしい目でねちっこく見るじゃないですか。
それって頭の中にどんなことを描いているのか。
まるで透視ができるかのように中身を想像するのか。
答えは言いませんよ。
そんなことを言ったら人格通り、あるいは人格を疑われかねないですから(笑)。
ところが最近、そんな自分のいやらしい、ねちっこい視線が(笑)変わってきていることに気がついたんですね。
中身なんかどうでもいい、と。
外側のトータルがどうであるかに興味が移ってるんですね。
まあそれでも、いやらしい、ねちっこい視線には変わりないんでしょうけど。
強いて言えば、ニャンコやワンコを眺めて愛でる感覚というのですか。
ニャンコやワンコを眺めて、毛皮の内側の肉体を想像することってないじゃないですか。
あくまでも毛皮をまとった”肉体”を見て「カワユイ」って思うわけで。
同様に街ゆくジョシ(自分の場合)を外観で判断するわけですよ。
そこには”欲”という感覚はなくて”良く”という気持ちがあるんですね。
またその”良く”も美人であるとかナイスバディであるとかは関係なくて似合っているかが興味の対象になるんですね。
そう言いながらちょっと話は違うけれど、そんな自分の気持ちの変化に気がついたのは、遊中部でオペラのフラッシュモブを見ていた時に、街なかでオペラ歌手のオネイサンがいきなり歌い出すんだけど、その姿が”普段着”なんですよ。
ワンピースやジーンズ姿のオペラオネイサンはバン!バン!バン!ってな肉体をしていて、単純に「おお!スゲえなぁ」って思うんですけど、だからと言っていやらしい目で”中身”を想像したりはしないんですよ。外装をまとった肉体美にスゲえなぁって”感心”するだけなんですね。
もちろん着ている服とのつり合いやセンスなんかも含めてですけど。
そんな変化を個人的には好ましく思っているデスよ。
コメント (6)
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ないものを作る

2016年09月16日 | Weblog
思いつきの根拠のない話題を。
世の中が進んでくると、昔はその道のプロでないとできなかったことが、機材の進化である程度シロートでもできることが増えた。
特に映像関係では、機材の値段も下がり、性能も上がり、発表するメディアも広がり、”商用”にこだわらなければ、やりたいことができる環境は昔とは違ってきた。
逆を言えば、”商用”の世界が商用として成り立たなくなった結果、シロートの世界しか残されていないと言えなくもない。
商用といえば、テレビの世界などやることがない、できることがない、やってもペイしないと衰退の一途なんだろうけど、それは単に”商用”の世界での話であって、まあだからといって”商用”の世界の人間が、”私用”で作りたい映像をただ作るということなどないわけだから、”私用”の世界はクロートの出る幕はないわけだ(暴論)。
その点で写真はちょっと違うけどね。
で、世の中には今撮影しておかないと永遠に消えてしまうことなど身近に山ほどあって、そんな出来事も”商用”の世界では価値のないものであって(そもそも”商用”の世界での価値は報じるに値するかであって、記録して残しておくことでないだろう)、そんな時こそシロートの出番ではないのかと。
それはクロートの目から見たら取るに足らないものかもしれないけれど、偉そうにしていたって金にならないから撮らないのでは最初から論外なんだから「やってから言えよ」と無視して、進化した機材とクロートには手の届かない視点で商用媒体では決して撮られないものを好き勝手に作ってしまうのも手かなと。
幸いなことにテレビのようなマスの媒体は手に入らないけれど、ネットの世界では規模は小さくても発表媒体はあるんだから、それを利用して、ないものを自分で作ってしまうこともできるんだ。
そこに欲を出して、マスの媒体で活躍するプロを目指すボクみたいな通過点でやっていると視聴率しか目のない現在のテレビ放送みたいになって意味がなくなるので、あくまでも自分が作りたいから作るという立場を堅持しないと。
で自分で勝手にミニコミを作り出して、できる範囲で活動する人が増えれば、点描画のようなミニコミワールド絵図がいつの間にか広がっているということにもなりかねない。
そこには、各自の視点で作り出された、見つけ出された世界が広がって、(ある程度)長く保存されて誰でも触れることができるアーカイブ的メディアとして存在するなんてことにも。
まあそれが可能なのは、”商用”でない(むしろ持ち出し)世界の人間だけなんだろうけど。
そういうことでしか、もはやこの世界を残していくということはできないのじゃないのかと”商用”世界の没落をみて思う次第。
コメント (4)
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消えたお家

2016年09月14日 | Weblog
いつも通る道に建つ古いお家。
多分昭和30年代に建てられた和洋折衷の”ハイカラ”なたたずまい。
和式の玄関を入ると玄関脇に洋式の”応接間”がある。
そんな作りのお家に建築計画の看板が立てられ、近々取り壊されることがわかった。
小さな商店街の端っこにあり、商店街もろとも撮影しなければと思いつつ、時間帯が合わずにいたところ、いつものように通りかかったら更地に。
ああ、間に合わなかったぁと自分の優柔不断さにがっかり。
こうやってその通りからお家の記憶が消えていく。
コメント (3)
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夢か幻か

2016年09月12日 | Weblog
惰眠を貪っているとふと頭の中にある書面が・・・
何かわからない。
でも確かにそんな書類を作成していたはずが・・・
なのに最近は作っていない。
本来作らなければならないのに忘れているのかも・・・
でも頭の中の書類はこれだという確かなものではない。
なんの書類だ?わからない。
でも作っていたぞ。
飛び起きて書類棚を探してみるが、おぼろげに浮かんでくる頭の中の書類に該当するものはない。
ワーまずいぞこれは。
過去のことなのかさえもわからない。
赤いスタンプを押して必要事項を書き込む作業。
過去のことならいいが、それも確証がない。
それとも脳内作業の幻なのか。
昔新聞配達をしていて、やめた後も何年も配達漏れの夢を見て冷や汗をかいて目が覚めた記憶があるが、それに近い。
思い出すまで胃が痛いのが続きそうだ。
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弁当ジョシ

2016年09月09日 | Weblog
昼過ぎの電車の斜め向かい側の席に座るジョシ校生。
化粧っ気もなく地味で大人しめのカワイ子ちゃん(死語)。
オッサンにとってはジョシはみんなカワイ子ちゃんだ。
そんなどこにでもいる大人しめの子が、学生カバンを衝立にして弁当を食べ始めた。
2段重ねのカワゆいサイズの弁当箱。
衝立カバンが邪魔をして詳細は見えないが、ご飯の入ったひとつを膝に置き、おかずの入ったものを左手に。
お箸でおかず、ご飯と順番にゆっくりと食べる。
さすがに花も恥じらう乙女であるので、視線を周囲に配って目立たぬように口に運ぶ。
しかし花も嫌がるオッさんであるので、視線を避けつつ、今卵焼きを食べた、今度はほうれん草だとじっくり観察。
お口に運んでよく噛んで食べる良い子だ。
だから時間がかかる。
いったいいつまで食べるつもりなんだと、そのゆっくりさ加減に心配になるが、そういうおっとりさが表に現れているのがまた好ましい。
学校帰りなのだろうが、どうして学校でお弁当を食べなかったのだ?と余計な詮索。
誰かにいじめられているのか?それともワケあって早退したのか?
オトーサンが我が子のように心配になるのは、岡田あーみんの漫画の読みすぎか。
駅に停車するたびに、ジョシの前を通る人がチラ見する。
特に若いジョシは無礼だ。
ガン見してオカズの中身を確認したりする、のをまたチラリと確認するオッサン。
結局15分ほどかけて食べ終えて、お弁当箱をゆっくりかたずけて某駅で下車。
思わず続いて下車しようかと思ったものの一瞬にして中止。
そんなことして何になる。
オッサンにはこうして観察日記を書くだけでも充分幸せ気分になれるのだから。
コメント (2)
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