カントの『啓蒙とは何か』(岩波文庫)より。
1784年の文章です。
①
啓蒙とは、人間が自分の未成年状態から抜けでることである。
ところでこの状態は、人間がみずから招いたものであるから、彼自身にその責めがある。
未成年とは、他人の指導がなければ、自分自身の悟性を使用し得ない状態である。
ところでかかる未成年状態にとどまっているのは彼自身に責めがある、というのは、この状態にある原因は、悟性が欠けているためではなくて、むしろ他人の指導がなくても自分自身の悟性を敢えてしようとする決意と勇気とを欠くところにあるからである。
それだから「敢えて賢かれ!(Sapere aude)」、「自分自身の悟性を使用する勇気をもて!」-これがすなわち啓蒙の標語である。
②
大方の人々は、自然の方ではもうとっくに彼らを他者の指導から解放している(自然的成年)のに、なお身を終えるまで好んで未成年の状態にとどまり、他者がしたり顔に彼らの後見人に納まるのを甚だ容易ならしめているが、その原因は実に人間の怠惰と怯懦とにある。
未成年でいることは、確かに気楽である。
私に代わって悟性をもつ書物、私に代わって良心をもつ教師、私に代わって養生の仕方を判断してくれる医師などがあれば、私は敢えてみずから労することを用いないだろう。
私に代わって考えてくれる人があり、また私のほうに彼の労に酬いる資力がありさえすれば、私は考えるということすら必要としないだろう。
こういう厄介な仕事は、自分でするまでもなく、他人が私に代って引き受けてくれるからである。
…
ここに、「自律」と「依存」の基本的な問いがある。
ケアや保護や支援を考える時に、同時に、考えなければいけない問題がここに示されている。
ケアや保護や支援は、それはそれとしてとても大事だが、それを行うのと同時に、自律へと向けて働きかけなければならない。
「福祉」と「教育」の根本的なズレが、ここにある。
あるいは、
「生命保護」と「自律性」のズレ、ともいうべきか…。
カントは、こうした「自律性」を「個人」に与えることは難しいと言う。
「個人としては、殆んど天性になり切っている未成年状態から、各自に抜け出すこと」は「困難」だ、としている。
その上で、こう言う。
④
…-個人ではなく-民衆が自分自身を啓蒙するということになると、そのほうが却って可能なのである。
それどころか彼等に自由を与えさえすれば、このことは必ず実現すると言ってよい。
こういう場合には、大衆の後見人に命ぜられている人達のなかにも、自主的に考える人が何にんかいるからである。
この人達は、未成年状態という軛(くびき)から自分で脱出すると、やがて各人に独自の価値と、自分で考えるという各人の使命とを理性に従って正しく評価するところの精神を諸人に広く宣伝するだろう。
ケアや保護や支援は、個別にやる方が望ましいかもしれないが、自律を目指すとなると、グループワークの方がよい、という話にもなるが、それを超えて、広く社会の問題として考えよ、とも捉えることもできるかもしれない。
ここで、カントは、「自主的に考える人」、「自分で考える」、という言葉を使っている。
アドルノも、このカントの言葉から、自律性の意味を考えていた。
…
赤ちゃんポストの優れた点として、パニックになった母親(あるいは父親)に、一度、赤ちゃんを預けさせて、自分で考えるための時間を与えている、ということが挙げられるかもしれない。
未成年の状態で、半ば混乱状態にある母親(あるいは父親)から、赤ちゃんを引き離し、「考える時間を与える」、もっといえば「自由を与える」ということをしているのかもしれない。
というか、事実、そういう機能を果たしている。
赤ちゃんポストには、多くの赤ちゃんが預け入れられているが、その三分の一くらいの赤ちゃんが、再び親元に戻っている。
赤ちゃんポストは、単に赤ちゃんの命を守るだけでなく、赤ちゃんをいったん預かり、その間に、親に「考える時間」を与えている、とも言えなくもない。
事実、赤ちゃんポストをつくったシュテルニパルクは、それを意識的に、行っていた。
つまり、赤ちゃんポストは、「生命保護」や「緊急措置」的な要素だけでなく、ある意味で、啓蒙的な要素をもっている、とも言えるかもしれないのである。
とすれば、また同時に、赤ちゃんポストは、保健・福祉的というだけでなく、実に教育的な装置、ということにもなる。
この辺が、これからの課題かな、と。