Dr.keiの研究室2-Contemplation of the B.L.U.E-

「科学哲学」っていったい何なんだ?!

科学哲学って、自分が一番苦手としている哲学領域の一つ。通称「科哲」

まずはこちらをチェック
http://www.ut-life.net/study/lecture/kagaku-tetsugaku/

やはりヴィトゲンシュタインとかかわりの深い学問領域だということになりそう。僕が一番苦手としている哲学者がヴィトゲンシュタインなので、当然科学哲学も苦手となる。ウィーンの人なんだけどね、、、

科学(Wissenschaft)とは何か。それを突き詰めて考えるのが、どうも科学哲学のようだ。文系・理系問わず、科学(僕的には「学問」)とは何なのかを解明する長いプロジェクト、それが科学哲学と呼ばれるものらしい。最近は、「心の科学」という分野もあるらしく、その先駆者的な先生にお会いする機会もあった。

僕は、学問というと、「真理の追究」と考えたくなるのだが、科学哲学はその真理がどうも好きではないようだ。

それはさておき、科学哲学について書いたテキストを少し訳してみました。これで、分かるとは思えないけど、、、

***

科学哲学(Wissenschaftsphilosophie)

1.新しいパースペクティブ

 振り返れば、ここ(本書)で分析的な哲学理論として記述したことは、「古典的科学理論」と言いあらわすことができるだろう。古典的というのは、その古典的科学理論が、本来、調和させる統一思想によって導かれたものであり、物理学の手本(Vorbild)によって定められており、同時に、表象(Vorstellung)が課されており、デカルトのMathesis universalies、ライプニッツのScientia generalis、ニュートン公理学のPrincipia(プリンキピア:1687)などが既に早くから一つの理念を形成していたからである。カルナップ、ハーン、ノイラートは、こうした精神に基づいて、「科学的世界観」(Wissenschaftlichen Weltauffassung)のイメージを発展させた。また、ライヘンバッハは、1951年、多くの人に読まれ、大ヒットとなった「科学哲学の形成」(The Rise of Scientific Philosophy)を執筆した。彼らは皆、「伝統的な形而上学や哲学は、それらの概念や言説全てが無意味なものだと証明できるがゆえに、解体されるだろう」という考えを表明したのである。その立場に登場するのが、形而上学から解放された科学である。手短にいえば、伝統的な哲学の問いは、イデオロギーから解放して、原則的にはすべての人のために一度(ein fuer alle Mal)、科学から切り離すべきだ、ということである。そうすると、哲学はただ、表向き(以下のような)新たな哲学的問題が開ける場所にしか留まるにすぎないものとなる。すなわち、哲学を綿密な分析によって無意味なものと暴露するか、ないしは、哲学を当該の専門個別科学に割り当てるかという新たな哲学的問題である。

 トーマス・S・クーンによれば、こうした見解はもはや容認し得るものではなかった。だが、彼によって引き起こされ、弁証法、解釈学、革新スキーマを科学理論の地平に取り込むことを導いた歴史性(Historischen)への転回でさえ、間接的に、科学の視点と理解の確固たる構成要素となった。また、こうした時代的発生(zeitlichen Geschehens)の構造化に関する三つの諸形式も、今やとっくに古典的なものと見なすこともできる。しかしながら、科学の内容的統一の地位へと、歴史的過程のモデル化の統一性(Einheit)は歩んでいったのである。

***

科学哲学を学ぶには、どうもライヘンバッハの『科学哲学の形成』を読めば、なんとなく分かってきそうだ。当然、ヴィトゲンシュタインは分かっておきたい。

そして、哲学からイデオロギー性を排する、ということが科学哲学の使命ともなりそう。ideologiefrei(イデオロギーを排する)というのが、重要なようだ。上の文からすれば、一度、哲学を諸学問から切り離して考え直すことが、科学哲学の大きな役割となっている。哲学って、あらゆる学問の基礎だと僕は考えるが、どうも、そういう考え方はしないようだ。(ここに、従来の哲学と異なるアプローチがあるように思われる!)

「論理実証主義logical positivism」(論理的経験論)の提唱者であるカルナップは、ハーバード大学のクワイン(1908~)の師であり、友人だったらしい。彼らの考え方は、デイヴィットソンやローティーに大きな影響を与えたっぽい。皆、フッサールの「第一哲学」を否定して、科学の基礎付けの無意味さ(?)を訴えた。いや、フッサールのみならず、ヨーロッパで主流だった形而上学のあらゆる言説を「無意味」と考えていた。

トーマス・S・クーンの本はあまりにも有名。僕も二冊研究室にあるな。。。

いずれにしても、科学哲学は、「新しい哲学的問題」に関与する学問であるということが分かった。「科学」とは何か。科学を基礎づけるものはあるのか/ないのか。意外と、これって、答えるのがとても難しい問いだと思う。一応、根拠らしきものはありそうだけど、「絶対的真」といえるほどでもない。「絶対的真」でない以上、科学は、いったい何を根拠に、何を手がかりに、自分自身を正当化すればよいのか。

何が正しいのか、何が科学的に正しいのか、それさえ分からない時代に、科学哲学が果たす役割はもしかしたら大きいのかもしれない。原発を再度動かすか/動かさないのか、というエネルギー問題は、ある意味、科学哲学の得意分野かもしれない。

心の科学は、僕が所属する学会でもリアルに見ているけど、めちゃめちゃぶっとんでいたりする。フロイトやユングやゲシュタルト心理学一派なんかが見たら、気絶しちゃうんじゃないかっていうくらいに、マニアックで、「人間存在」から離れている。でも、それゆえにこそ、胡散臭さもなかったりもする。。。

なるほど。今の時代の学問って感じもしなくもないかな。泥臭さがなくて、洗練されていて、さっぱりしていてて、潔くて、ある種冷血。。。(ヴィトゲンシュタインは随分と泥臭い学者って感じがするけど…)

最も気になるのは、こうした科学哲学・分析哲学がどれも非ヨーロッパ大陸、アメリカ系の哲学であるということだ。ケアリングの哲学も、ある種、レトリックとしては、上の科学哲学的発想で語られているようにも思われる。

日本人の若手研究者の視線は、みんなアメリカ(ないしはイギリス)に向いている。長い伝統をもつ哲学が、「英語圏」での文脈でしか扱われなくなることに僕は強く危惧する。簡単に言えば、皆、英語で哲学するか、母国語で哲学するかの二択しかなくなっていることが怖いと思う。思考が言語・文法によって規定されているとするならば、研究者が母国語と英語しかできないというのは、ある種、極めて世界が制限されていて、ものの見方が強く限定されるのではないか?!

でも、所詮、学問も流行(トレンド)。

流行に便乗しない研究を、僕はしていきたいな。そして、クラシックな大陸哲学にこだわっていきたいな、と思う。ただ、真理の捉え方自体は、科学哲学の考え方も決して共感しないわけでもないんだよなー。けれど、なんか、ひねくれてるんだよなー。。。(汗)

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「哲学と思想と人間学」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事