緊急事態宣言が出されました。
緊急下(in need)という観点で、教育や福祉を考えてきた僕の見解といいますか、考えをここで示したいと思い、書き綴っていきたいと思います。
医学的な観点や政治的な視点からではなく、人間学的な視点で、この「緊急事態宣言」をどう捉えたらよいのか、また、これから1か月どう過ごしたら(どう生きたら)よいのか、考えていければと思います。
危機的な状況下で、われわれはどう生きるか。
これは、僕が学生時代から学んできた「現象学」や「実存哲学」の大きなテーマの一つだったと思う。そもそもの現象学というよりは、その応用の学として、危機的状況下にある人間についての分析(例えば「現存在分析」や「現象学的精神医学」など)が20世紀半ばから積極的に行われてきた。今問われているのは、危機的状況下にあって、いかに生きていくか、ということである。
また、今の状況は、赤ちゃんポスト論でずっと考えてきた「緊急下(in need)」の問題とも直結するようにも思う。自宅で誰にも知られないまま子を出産して、その赤ちゃんを遺棄するか殺害するかと思い苦しむ女性のことを「緊急下の女性」と呼ぶが、こうした女性の支援策として、匿名出産や赤ちゃんポストが考案された。今、緊急事態宣言下では、多くの人がまさに緊急下に立っている。
僕は、医療や公衆衛生の専門家ではないので、「新型コロナウィルス」の科学的な見解については語ることができないけれど、上述した視点から、「危機的状況をどう生きるか」については、若干なりとも語りえるかな、と思い、この記事を書くことにした。
われわれが置かれている状況
今、われわれが直面しているのは、日常生活が極めて制限されたことで浮かび上がってきた「非日常性」であろう。新型コロナウィルスの影響で、世界中の「日常性」が失われつつある。「日々の日常」、例えば、街で買い物をする、レストランで食事をする、学校で勉強する、バイトをする、恋人と都会の夜を過ごす、酒を呑みに居酒屋に行くなど、ありとあらゆることが、今、「あたりまえ」でなくなってきている。日常生活の「日常性」が次々に制限されていっている。
ハイデッガーの言葉で言えば、それは、「非本来性」(Uneigentlichkeit)が徐々に失われつつある、ということだ。日常性は、ハイデッガー的には、非本来的なのであり、根源的なものではないのである。そんな日常性を生きる時の「私」は、自分自身の最も固有な問題(例えば自らの老いや死など)を忘却して生きている。自分にとって最も重要な自分自身を気遣うのを忘れ、(実はどうでもよい)他のことばかりを気遣っている。欲しい物、食べる料理、仕事の業務内容、恋人のことなどなど。自分以外の何かを気遣い、それにいわば自らが支配されている。
そんな「非本来的な日常性(自分自身の生や死の問題を忘れつつ、仕事や息抜きや気ばらしなどに追われる日常の生活)」が壊れつつあるのが、今のわれわれの状況と言えるかもしれない。こうした状況下では、人々は、不安に支配され、狼狽し、イライラし、右往左往し、そして(安心を得ようとするために)「大きなもの(神や国家や権力)」にすがろうとする。日常性が崩壊したときに、歴史的な大事件(例えばアウシュヴィッツの悲劇)のきっかけが生まれる。非本来的な日常性は、戦争時に完全に破壊される。
このように書くと、不安を煽っているようにも受け取られかねないが、そうではない。むしろ、そうなったときに、われわれは、忘れ去られていた「自分自身」と対峙することが可能となるのだ。いや、自分自身を本来的に気遣うことが可能となる。「私はなぜ生きているのか」「私はなんのために生きているのか」「どこに向かっていきているのか」、と問うこともできるようになる。
これらはそれほどぶっとんだ問いではないはずだ。日常的な生活が破綻した時に、「あたりまえ」だった日常的なあらゆる営みの尊さに気づく、ということはよくあることだ。「何の不安もなく、ラーメン一杯を当たり前のように食べる」というごく当たり前の営みも、体調を壊し、非本来的な日常性が壊れることで、心から実感することができるようになる。
非本来的な日常性が壊れた先にあるのが、「本来的な非日常性」ということになる。本来的(eigentlich)であるがゆえに、実は、今のわれわれの状況の方が、「もともとの状況」なのだとも言えるだろう。生命レベルで考えれば、「一動物に過ぎない「ヒト」が、何の保証も保障もないところに、投げ出されている」という状況こそが、超越的(あるいは超越論的)な状況認識ともいえるだろう。われわれは、実は常にすでに、何の保証も保障もない状態で、これまでも生き続けてきていたのである。ただ、それが平時は隠されていただけのことであり、今、露わになっているのだ。
危機的な状況下でいかにふるまうか。
実存思想家の中に、フランクルという精神科医がいる。彼が書いた『夜と霧』という本は、世界的な名著であり、世界で最も読まれた本の一つと言える。彼は、精神科医として、絶滅強制収容所にいた人物だ。彼は、絶滅強制収容所の中を生きる人間を「観察」すること、あるいは「共に生きる」ことを通じて、絶望的な状況の中を生きる人間の「分析」を行った(というよりは、後に「考察した」という方が正しいか)。
今、われわれは、いつこの緊急事態が終結するか分からない状況下にいる。戦後最大級の危機的状況だと言われるほどだ。こうした状況を生きるわれわれは、フランクルの言葉で言えば、「無期限の暫定的存在」に近い状態にある。もちろん収容所を生きた人々とは比べものにはならないが、強烈な自粛要請下にあるわれわれは、自ら家に収容されていると言える。自分の努力ではどうすることもできないし、ただ時が過ぎるのを待つしかできない。フランクルは、暫定的存在としてどう人は生きるかについて語っていた。
緊急事態下にあるわれわれに、彼の考察はとても示唆的であろう。彼の視点に立てば、今のいわば「コロナ・パニック」と言うような状況においても、「パニックになる人」と「パニックにならない人」が出てくるだろう、ということが予想できる。更には、「絶望する人」と「絶望しない人」、「暴力する人」と「暴力しない人」が出てくるだろう。一番懸念されるのは、この状況下で自殺・他殺をしようとする人や虐待やDVに手を染める人が増えることだ(このパニック下において、失業者の増加は既にもう起こっている。失業者が増えれば、自殺者が増えるというのは、過去のデータや知見からも推論できる)。
明日ガス室に入れられて殺されるかもしれないという恐怖の中を生きた収容所の人たちもまた、その生き方においては様々だった、というのがフランクルの見解である。今みたいな緊急事態的な状況下においてもまた、どうその状況を生きるか、どうその状況においてふるまうかについては、「個人の自由」なのである。じっと耐える生き方もできれば、イライラしたりパニックになったりする生き方もできれば、こうした状況下でも誰かのために生きることもできる。
つまり、どんな状況下であっても、その状況をどう生きるかについては、個々一人ひとりの自由に委ねられているのだ。いや、自由に自らの態度を決められるか、それとも状況に飲み込まれ、我を見失い絶望するか、どちらかであろう。
そもそも、追いつめられている人は、追いつめられているがゆえに、冷静ではいられない。不安や怒りや恐怖に支配され、我を見失う(衝動買いをする人もまた我を見失った人なのかもしれない)。失業や廃業を余儀なくした人たちも、絶望的かつ緊急事態的な状況に置かれる。この状況下においても、今日も「ガン告知」を受けている人もいるだろう。人間は、いつでもそういう危機的状況に陥るし、そうした時に、どう振舞うか、どう生きるかという問題に直面する。
どんな状況にあっても、その状況をどう生きるかは、個人の最後の「自由」として残り続ける。明日殺されるかもしれないという不安を抱えながら収容所に入れられた人たち(主にユダヤ人)の中にも、自分の命が消されるその日まで、我を見失わず、誰かのために生きた人がいたという。
今、問われているのは、そういうことだと思う。
今、何をすべきか?
われわれは、収容先である場所(自宅や病院等)で、暴力や拷問に苦しんではいない。(ただ、この自粛要請の中、皆が家に閉じこもるようになり、妻(夫)への暴力=DVや、子への暴力=虐待が急増しているとも言われており、そこはまさに収容所の地獄に近い)。ナチス親衛隊(SS)の監視や暴力による命の危険もない(ただ、家庭内での監視や暴力による命の危険性は高まっている)。
多くの人にとっては、「どうしてよいか分からない」「何をすればよいのか」「何もすることがない」という状態が続いていることだろう(そんな中でも世のためにに働いている人、例えば医師や看護師、介護士、保育士等には、国は絶対に追加で補助金・ボーナスを支給すべきだ!)。
この「どうしてよいか分からない」「何をすればよいのか」「何もすることがない」という状況こそ、まさに非本来的な日常において忘却されていた本来的な状況なのである。
今はネットがあるので、一日中スマホでネットを見て過ごす、あるいはYouTubeを見て過ごすという生き方もできるだろうけれど、それもきっといずれは「飽きる」。人間の敵はいつでも「倦怠」である。
そこで、僕が提案したいのは、「創造的な活動をする」ということだ。何でもよい。自らクリエイトすることにチャレンジしてみてはどうか? 料理を作る(できれば新しい料理の可能性を創造する)、文章を書く(絵本、小説、自叙伝、自分の今の考えを述べる)、詩を書く(短歌、川柳、歌の歌詞、英詩にチャレンジするのもあり)、もろもろの製作(ペープサート、おりがみ、造形、おもちゃ開発、彫刻、絵画等)などなど。あるいは、YouTubeで自分の動画や番組を作るというのもありだろう。動画づくりはとても大変だし、時間も膨大にかかる。
受け身で何かを摂取するのではなく、自らの手で何かを生み出す、表現してみる、それを発信してみる、そういうことをし始めると、この膨大な(何もすることのない)貴重な時間が一気に豊かになるだろう。歌詞を一つ書くのにも、3時間4時間あっという間に過ぎていく。小説を書こうものなら、1週間2週間なんてあっという間に過ぎてしまう。制作物もこだわれば、一つを造るのにいったいどれだけの時間を使うことになるか。
(商売でやるわけではないので、そのクオリティーがいいか悪いかは重要ではない。自分が満足できればそれでいい。商売じゃないので、どう作ろうが自由なのだ。それで誰かが一人でも喜んでくれたら、それで最高なのだ)
それに、何かを新たに生みだそうとすると、そのために色々なもの(知識や情報)が欲しくなる。過去の情報を参考にしたくなる。他の人はどうやっているのかが気になってくる。そういう知識や情報への欲求こそが、学びの原動力になる。そのために本を読むのもいいし、本がなくても、ネット上であらゆる情報を探すことができる。(ciniiという論文検索サイトも是非活用したい)
非本来的な日常においては、「受け身」でモノや情報を得るだけだった人も、今回のこの状態を通して、「能動的」なモノや情報の発信者になるかもしれない。新たな自分の得意分野を見つけ、それを育てられるかもしれない。
受け身でただただ恩恵を受けるだけの人ほど、文句を言ったり、他人を攻撃したりする。創造的な人間は、文句を言ったり、他人を攻撃したりはしない(そんな余裕はない)。お客様精神(あるいは評論家精神)で偉そうに上から講釈する人間もまた、創造的な人間ではない。創造的な人間は、講釈するのではなく、自ら行為するのである。行為する人間は、批判する側ではなく、批判される側になる。当事者になるのだ。当事者になれば、もう行為するしかないし、結果を出すしかない。
是非、自粛の中、何もすることがない人は、この機会に、①自分がしたいこと・突きつめたいことを探し、②それを実際にやってみる・作ってみる、➂そして、その対象について深く学んでみる、ということをやってみてほしいなと思う。ちなみに、僕も今、毎日チャーシューづくりに没頭している。美味しいチャーシューを作ってみたいと思い、本やネットを見ながら、チャーシューづくりに没頭している。
あと、誰にも相手にされないけど、一人で、自分の曲のレコーディングに没頭している。1曲作るのに、ほぼ2-3日かかる。ドラムの打ち込み、ベース、ギター等の録音、ボーカル・コーラス入れ、ミックスダウン、マスタリング、そして、YouTube用の動画づくり、これ、全部一人でやるとなると、一曲作って動画をアップするだけで、4日はかかる。でも、こういう状況下だからこそ、それだけの時間をかけて創ることができる、とも言える。この数年間、忙殺に忙殺の日々を重ね、3年以上も新曲のレコーディングをしていなかった。僕の本来の活動を忘却して生きてきたのだ。
曲づくりは、僕の人生のライフワークだったはず。しかし、仕事やら何やらで、そのライフワークを後回しにずっとし続けてきた。まさに、非本来的な生き方だ。このまま死んだら、いったいどれだけ後悔することだったか。自分の作った曲をかたちにして、それをネット媒体でupして公開する。それがすぐにできる時代なのだ。
是非、この時期に、「あなた」にしかできないことを、創造的に行為していただけたら、と思います。何かを書いたり、何かを造ったりしてみてください。そして、よければどこかに発表してください。
最後に僕の最新の曲を♪(でも、もう次の新曲が完成間近です)
夏のけだるさ+夏の夜の禁断の恋をテーマにした曲です(n*´ω`*n)
ちなみに、ドラムは打ち込み(パターンは全部自分で作りました)以外は、全部「自家製」です。自分で実際に弾いています。機械に頼らずに、自分で弾くことにこだわっています。動画も全部自分で編集しました。
自宅でこれくらいのことは僕みたいな「素人」でもできるんですよ\(^o^)/
やってみてください!!
(裏の言葉は、「自分では何もやらないで、文句ばかり言ってんじゃねーぞ」です♪)