私がいる。
I am.
Ich bin.
私とあなたと彼と彼女が集まると、私たちとなる。
Iがあって、そのIの集合体がWeである。
私は個である。
私とあなたと彼と彼女が集まると、集団となる。
つまり、「みんな」となる。
そのみんなとなる集団は、小さな社会となり、その個々の人間はその構成員となる。
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幼児教育においてたびたび議論となるのが、この問題である。
すなわち、幼児教育が目指すのは、個の確立か、それとも社会性の確立か。
優秀な人は、きっとすぐに、「どちらもだ」、と答えるだろう。
しかし、実際に、どちらが優先されているのか、と問うとどうだろうか。
それは、個と集団が対立した時に、顕在化する。
たとえば、幼稚園の一室で、みんなが絵を描いているのに、一人だけ外で遊びたいと言い出すときである。
この時、幼児教育の現場ではどうするだろうか?
とりわけその実践者たちは、何らかの対応をしなければならない。
どうするのか。
その答えは、もう、言わずもがなだろう。
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近代的で先進国の一員である日本でも、「個」を尊重することは大切にされている。
けれど、個が集団とバッティングした場合、それでも個を尊重しているのかどうか。
真っ先に浮かぶのが、こういう意見だろう。
「集団生活においては、わがままは許されない。みんなが絵を描いているなら、それに従うべきだ」、と。
もし、このように考える人がいるなら、その人は、個よりも、みんな=集団=社会を優先している、と言える。
大方の日本人は、「個人の(みんなと異なる)意見」は、「わがまま」と見なす。
みんなと異なることは、決して「よし」とはしない。
みんなが左というものを、右というわけにはいかないのだ(苦笑)。
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しかし、次のように考えることもできる。
「外で遊びたいというその子の意志を尊重し、どうにか外で遊べないかを考えてみよう」、と。
手の空いている先生はいないか、その子を見られる人はいないか、と。
あるいは、みんなに意見を聴いて、議論してみようか、と。
もしかしたら、一人の子どもの意見が、みんなを変えるかもしれない。
園庭がもし空いていれば、そのまま、外あそびに変えてしまってもいい。
そう考えることもできなくもない。
でも、そう考えたり、個を尊重するために、みんなに何らかのアクションを起こす先生は少ない。
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幼児教育で最も大切なことは何なのか。
幼児=子どもにとって、まず優先されるべきは、個、集団=社会のどちらなのか。
ドイツのある幼稚園の先生は、笑顔で、こう言っていた。
「言うまでもなく、個ですよ。一人の子どもの意見は、尊重されなければなりません。もちろん無理な要求に応じることはできませんが、それでも、どうにかできないだろうか、とまずは考えます。個の意見は、他人(複数)の意見と違っていてよいのです。それを無理に、まとめる必要もありません。みんなが絵を描いている時に、外遊びがしたいと子どもが言うのであれば、外遊びができるように努めます。それが難しかったら、その子の意見を否定せず、どうして遊びたいのかを話してもらい、しっかりとその声に耳を傾けます」
この先生は、特別な学校の特殊な先生ではなく、普通の幼稚園の普通の先生だ。
まず、ここまでしっかりと「個の尊重」を重視していることを言葉にできることに驚く。
日本の先生は、「みんな絵を描いているんだから、今は絵を描こう」、と言うだけだろう。
実現するかどうかはともかく、「外で遊びたい」と主張したその子どもの意見を尊重するかどうか。
その部分で、日本とドイツの幼児教育の内実はずいぶんと違っているように思う。
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日本人は、そのほとんどが個性を尊重した教育を受けていない。
だから、個性がなんたるかを知らない。
いや、それどころか、個性=人と違っていることは、回避すべきものであり、場合によっては有害なものだ、と捉える。
僕も年を重ね、日本という国で生きていくなかで、「これには抗えないのかも」と思うこともしばしばだ。
「みんな一緒」、「みんなひとつ」、「みんなで団結」、「みんなが共に」。
こうした考えに、強い価値を置きたいのが、日本という国の国民性なのかもしれない。
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でも、私は、私である。
私は、私の意志をもっている。
私は、他人と違っている部分をもっている。
みんなと違うことを欲している自分もたしかにいる。
そういう自分を認めてくれる社会の方が、やはり、住みやすい。
それを、「寛容な社会」と言う。
せめて、幼児期くらいは、「好きなように、自由に、あるがままに、生きたい」という願望を大切にしてあげたい。
幼児教育にかかわる人たちみんなが、この価値を共有してくれたら、少しはこの国も変わるのではないか。
小さい頃に、Iが尊重された人は、きっと、後の人生において、他人の「I」=Youを尊重するようになるだろう。
Iが尊重された人だけが、Youを尊重することができる、とも言えるかもしれない。
少しくらいYouがずれていたとしても、Theyと違っていたとしても、笑って「OK!」って言えるかもしれない。
日本では、ある意味で、誇張して、「個性が何よりも大切」、と言わないと、ダメだろう、とも思う。
日本人個々のうちにある「みんな意識」は、今も、かなり強烈に残っているし、作用している。
「みんな」のまえに、まずは「あなた」。
その「あなた」とかかわる人は、そのあなたにとって、大切な「あなた」となる。
そのたいせつな「あなた」であるあなたは、目の前にいる「あなた」をどこまで尊重できるだろうか。
どこまで許せるだろうか。どこまで受け入れられるだろうか。どこまで認めることができるだろうか。
「●●は許せない」、「××は認められない」をどれだけ消すことができるだろうか。
あなたの寛容度が問われている。
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そんな話を、今日、しました。
以上。