Dr.keiの研究室2-Contemplation of the B.L.U.E-

【現象学とは何か】(ドイツ語→日本語訳)

ケア教育学の本からの引用(仮訳)です。


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現象学(ギリシャ語:phainomenon:現れるもの)は、哲学的、学問理論的文脈においても、また方法論的な領域や、これまでのところ前学問的な領域においても、多様に使用されている概念の一つである。さしあたって、われわれはたしかに、Phänomenen(諸現象)という語を、われわれの感覚に示される事物と理解している。この事物はいったいいかにしてわれわれの意識にのぼるのか、その事物は、そもそも「即自(an sich)」であるか、「対自(für sich)」であるか-ゆえに、われわれ個々人の知覚の外部であるか、いかしにしてその事物はわれわれに理解され、加工され(消費され)、分類されるのか、それらの事物には一つの本質的な核はあるのか、こうした問いのすべてが、まさに、感覚的で人間的な体験や理解を主題とする学問諸領域において特別な意義をもっているのである。たとえば、心理学、精神病理学、教育学、ケア論(介護学)、その他それらに類する学問領域である。

イマニュエル・カント(1724-1804)はまだ、現象学を、単に経験的現象に関する学(Lehre)としか考えていなかった。ゲオルク・W.F.ヘーゲル(1770-1831)は、現象学を、感覚的素材(純性)から絶対的知を導く弁証法的認識プロセスと理解していた。エドムント・フッサール(1859-1938)は、カントとヘーゲルを批判的に退けた。そして、今日では、彼は現象学の最も重要な代表的人物で通っている。「事象そのものへ」という彼の標語は、1970年代~80年代に、一つのルネッサンスを経験し、一方では、実存主義-20世紀のフランスの認識論者はフッサールを古代ギリシャ以降で最も重要な哲学者実存主義と見なした-によって取り上げられ、社会科学の、とりわけ教育学の領域においては、「生活世界」への傾向に結びつけられた。

フッサールにとって、現象学の出発点は、意識に根源的に立ち現れる存在者(das Seiende)であり、ゆえに、あらゆる理論形態(Theoriebildung)に先立って、ないしはそれに反して、それ自体所与されているものである。完全な実存によって基礎づけられないものはすべて、学問的に事実だと見なすことはない-ただ直接与えられた事物のみ、語ることができるのである。あらゆる現象学の目的は、冷静(客観的nüchtern)で、はっきりと再現可能な諸研究を、持続的な接触において、偏見のない(公正な)生体験ならびに学問的な経験知(経験知識)を伴って、可能にすることだと考えられている。この立場から、フッサールは、実証主義的見解を掲げ、こう確信している。

もし「実証主義」が、あらゆる諸学問の先入観なき絶対的基礎づけと同様に、本来的に(元来的に)把握するものへの正しさ(das Positive)を語るならば、われわれは真なる実証主義者である。
(*フッサールは従来の実証主義に批判的であるが…by kei)


ゆえに、現象学的方法の特徴は、与えられるもの(das Gegebene)を、先入観なく、可能な限り正確に完全に記述することにある。だが、純粋な記述に留まるのではなく、一般知、事物の理念(Idee)を解明することに、その特徴があるのである(ヘルムート・ダンナー、1994)。ここにおいて、現象学は、またもや再び、経験的・実証主義的見解と決別する。というのも、現象学は、規定された先取(Vorannahme:前もって受け取っているもの)に基づいて、自ら認識することや、理論に導かれて展開することを拒絶するからである。すなわち、まさにそうした先取は、選抜的(選択的)な知覚を導くだろうし、真なる世界と、その世界の中で生きている個々のものを正当に評価できないのである(ショップマン・ポールマン、2000、S.362)。

-現象学的な見方に従えば-諸理論は、研究する主体の率直さ(偏見のなさ)を脅かす。というのも、諸理論は、人間の経験と「世界それ自体(die Welt an sich)」の間で描かれるし、「事象そのもの」へのまなざしを断つからである。ゆえに、現象学は、決して単に経験的に獲得され、理論に守られた諸観察に役立たせようとするわけではなく、むしろ、感覚的-身体的諸経験、ゆえに「前-学問的」諸次元を考慮しようとするのである。その限りで、フッサールの経験概念は、明らかに、今なお、経験的なもの(der empirische)として捉えられよう。

フッサールにとっては、人間とは、自分自身を何ものか(etwas)と区別し、それと共に自分自身をそのものにかかわる根本能力をもっている存在である。これこそが、全体的に諸問題を打ちたて、その解決に従事するための前提条件なのである。彼の著書の中でも、人間が世界や自分自身そのものを意識させることを可能にするために、いったい自我(Ich)とその生活世界の間にいかなる条件がなければならないのかという問いが彼にとって問題となっている(クリューガー、1944、S.249)。それゆえ、生活世界は己の関心の中心へと向かっていく。というのも、フッサールにとっては、生活世界は、単に人間の主観性の最も原初的な志向関連(Orientierungszusammenhang)として考えられるだけでなく、また、具体的に見通すことが可能な相互主観性(Intersubjektivitaet)の一形式として、また、フッサールがそう名づけているところのゲマインシャフト化(Vergemeinschaftung)の第一の、最も底辺のところにある段階として考えられるのである(ザイフェルト・ラドニツキー、1944、S.249)。

エドムント・フッサールのみならず、マックス・シェーラー、ニコライ・ハルトマン、マルティン・ハイデッガー、カール・ヤスパース、ジャン-ポール・サルトル、モーリス・メルロ-ポンティーといった非常に偉大な哲学者たちによって打ち立てられた現象学の今日の受容(受け入れ・人気)は、まさに社会科学ないしは人間科学の中でも、既に言及した前-学問的(科学的)経験であるリハビリテーションにおいてである。ただ、それでも、学問的(科学的)研究は、「研究される」人間の内的観点に関与し、その内的観点に連れ添い、その内的観点を語らせることも意味し得るはずである。そうして得られたデータ(Material)は、内に潜んだ生き生きさや根源性を保つ明確な志向性(Intention)をもってはじめて、追尾的に(後々)、反省的に、体系的に、処理されるのだ。こうした仕方で、研究対象は、同時に、その主体的地位(Subjektstatus)を取り戻し、フランスの哲学者レヴィナスが示したように、学問の「師匠」となるのである。その「他者」、その「師匠」に、研究は畏敬の念を払わねばならないだけではない。研究は、最終的には、それに恩恵を被っているのである(クリューガー、1999、S.124)。 


***


この原著は、『ケアの教育学』というドイツの分厚い専門書からの抜粋です。大学のテキストにされてそうな、結構読みごたえのある本です。その中の「現象学とは何か」という項目の全部です。

現象学は70年代くらいから90年代にかけて、精神医学、心理学、教育学、福祉学に多大な影響を与えた学問だと思いますが、その後は、一部のマニアックな人間だけが操る奇妙な学問に転落していきました。学問的先入観を否定したはずの現象学は、それ自体が強烈な学問的先入観となり、事象の見方・捉え方が固定化され、その意義を失っていきました。

絶えず生成してくる「生き生きとした現在」を捉えるために、あらゆる先入観(先入見)を排除し、ありのままを記述し、そこから学問的知の生成に貢献する、という理念(あるいは研究方法)は今も変わらず、大切なことだとは思います。でも、その理念や方法にこだわりすぎる傾向があり、逆に事象そのものを捉え損ねてしまう危険性も多々あるかと思います。

現象学は、学問の最初の入り口としてはとても有効だと思いますが、それに固着する必要もないかな、と僕は思っています。現象学の精神は学びつつも、そこから飛び出し、文字通り、事象そのものへとかかわりゆこうとする気持ちが大切なんだろうな、と強く思います。あらゆる学問的概念を払拭して、曇りなき目で事象を見つめ、その根源、その基盤を徹底的に解明していこうとすることは、今もなお、大切な知見であるはずです。

人間を研究対象とする場合、その人間の捉え方や把握の仕方に、バイアスはないか、先入観は入っていないか、先行する概念によって歪められていないか。そういう「反省」がきちんと行われていれば、現象学を突きつめなくとも、現象学的態度にはなっていると思います。現象学は、方法論というよりは、研究者の在り方や研究する態度を厳しく反省させる省察なのです。

自分自身、色んなことを書いていますが、改めて、もう一度「反省」してみようかな、と思ったりもしますね。でも、「反省」することが目的なのではなく、やはり今問題となっている事柄をもう一歩進展させることが一番の目的ですよね。僕の最大の目標は、「みんなが笑顔になれるための条件・理論」を探究することです。そのために、現象学も、一つの考え方として、しっかり学んでおきたいな、と思います。(でも、それが目的には決してなることはないでしょう☆)

…でも、紛れもなく、現象学は僕の青春でした

コメント一覧

kei
南さん

まー、こういう日本語(翻訳日本語)にも慣れておくといいかもよ?!

翻訳って難しくてね。意訳すると、誤解が生じる。直訳すると、意味が通じない。

そのギリギリのところで成り立っているのが、翻訳ってやつなんだな。

参考までに☆
この日本語に見えるけど実は新・日本語or古語に思えてならない書物と同じ内容をブログでお目にかかるとは思いませんでした


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