Dr.keiの研究室2-Contemplation of the B.L.U.E-

安易な二項対立に流されるな(メモ)

メモです。

よく考えてみれば、精神の優れた人と知的に優れた人は対立しない。だが、人は、精神と知性を対立的に考えることが多い。

「頭はよいけど、心はダメ」、「精神的には優れているけど、頭が弱い」、「技術はあるけど、気持ちがない」、「うまいけど、魂がない」などなど。

こういう言い回しは、表現の仕方としては、分かりやすく、説得力もある。僕もよく使うし、言われることもある。 でも、精神(心、魂)と知性(理性、悟性)は、そんな単純なものではないし、共通点も多い。精神も知性も、やはり人間の高次の能力だし、どちらも鍛えなければ高まらないものである。

精神的に優れた人をみると、時折その人の知性の高さに驚かされる。心ある人の言葉は美しく、またきちんとしている。たまに変な言葉遣いをする精神的天才もいるが、考える能力はとんでもなく高い。

また、本当に知性のある人は、あらゆる視点からものを見ようとするから、感動もしやすい。好奇心も高く、他者の声にも寛容である。もちろん自分の利益のためにしか知識を使わない人もいるが、それは優れた知性ではなく、愚かな知性だ。というか、知性のレベルは限りなく低い。

そう考えると、やはりプラトンやアリストテレスが立てた「善い人は誰か」という問いにいきつくのである。

日々、たくさんの人とかかわる僕としては、精神的にも、知的にも優れた人というのは、あまりいないが、いないことはない。単純な話、本当に優しいと思える人は必ず頭もよいのである。逆に、きちんと考えたり、本を読んだり、自らの知性を磨いたりする努力をしない人は、精神的にも未熟であり、感情的(官能的)であり、自分の感情に流され、振り回されている。

また、精神的に優れた人は、たとえ学歴やキャリアがなくても、まわりの人の信頼を集め、尊敬される。尊敬は、知性への敬意である。やはり、精神と知性はバッティングしないのだ。

教育も同じだ。いつでも教育論は、安易な二項対立で振り回される。学力重視の人は、ゆとりを嫌い、ゆとり重視の人は、学力を嫌う。でも、本当の学ぶ力は、ゆとりある時間の中でしか身に付かないし、本当のゆとりの中でしか、学力は育たない。ゆとり教育が悪かったのではない。ゆとりの中身が共通理解されないまま、ただ表面的にしか理解されず、ゆとりがあまやかしになったから、ここまで非難されているのだ。ゆとりのある学び・教育は、もちろん優れた教師にしかできないことだ。優れた教師とは、答えを子どもに与えることはしない。また、子どもの好き勝手な暴走を容認することもしない。優れた人は、他者を自分の写し、コピーと思わない人だ。だから、じっくりと相手と共に、何かに向かい、共に考えようとするのだ。精神的にも知的にも優れた人は、自分の未熟さや愚かさも熟知している。無知な自分に対して、自覚的である。 そういう人は少ない。そういう人が教師になれば、教育が安易な二項対立に振り回されることはなくなるだろうな!、と。

臨時出張に向かう電車の中で…

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