人間は誰も、時代の影響を受けています。
その時代によって作られる考え方(思考形態)を、ドイツ語で、「時代精神(Zeitgeist)」と言ったりします。
今の現代人を見ていると、ますます「冒険しない道」を選ぶようになってきているように思えて仕方ありません。これを、「保守への道」といってもよいし、「安心・安全への道」といってもよいかもしれません。
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「あなたは、広く危険な道と細く安全な道が二つに分かれていたら、どちらの道を行きますか?」
きっと昔の人は、多少のリスクはあっても、広く危険な道を行くという選択をしていたでしょう。そして、それを「よし」とする考え方が強くありました。「少年、少女よ、大志を抱け!」、と。
けれど、今の人たちは違います。多少のリスクがあるなら、それを回避しようとします。そして、狭く安全な道を選択します。そして、それを「よし」とする空気があります。「無難に生きよ」、「そこそこでいい」、「狭い世界で楽しく生きていればいい」、と。
このことは、今の人たちの恋愛を見ても分かると思います。今の人たちは、恋愛に対してとても消極的です。「草食系」という言葉以前です。
一つは、恋愛対象が極めて限定されてきています。それなりに幸せな恋愛をしている人をみると、中高生の時、あるいは学生時代に学校等で出会った人とそのままずっと付き合って結婚する、というケースが増えてきているように思います。それはそれ自体、とても幸せなことのように見えますが、ドライに見れば、個々の思想や価値観や人生観(あるいは職業観)が定まらない状態での「配偶者の選択」が起こっている、とも言えると思います。恋愛において冒険する、という感覚は今や、失われてしまっているのでは、と。事実、学生たちに聴くと、「リスクの高い魅力的だけど危険性のある男よりも、魅力やトキメキはないけど安心できる男性を選ぶ」、という意見が全体の三分の二を超えていました。
もう一つは、「どうせダメだから、恋愛なんていいや」という消極さです。今は「非婚時代」とも言われています。非恋時代と言ってもいいかも。恋愛に対する消極さをみると、今の時代精神が見えてきそうです。「がつがつ攻めるくらいなら、じっと待っておく」、という感覚でしょうか。これは男女を問わなそうです。事実、とても美人でとても元気な女子が、「がつがつしてそう」という理由でフラれた、という話も聴きました(もったいない…)。恋愛感覚そのものが、80年代~90年代と違ってきているようです。
そして、先日テレビで放送されていましたが、結婚相手として「公務員」の人気が高いそうです。かつては、「三高」といって、高学歴、高身長、高収入の人が「理想」でした。が、今の時代では、面白いもので、低学歴、低身長、低収入であってもいい、という女性も増えてきています。公務員は、その間、つまり、中学歴+中収入。「そこそこ」=「人並み」=「普通」の代表格みたいなものです。そこに人気が集まっている、と。これもまた、「冒険しない時代精神」を映しているように思えるのです。
危険やリスクを避けて、安全な道を選ぶ。そのこと自体は、「正しい選択」といえるでしょう。でも、人間は、それと同時に、「刺激」や「誘惑」や「かけひき」を楽しむ生き物です。そして、また、そういう刺激やかけひきから、色んなものが新たに生まれます。「背伸びをしない」、「等身大」、そういう言葉は、とてもよい響きをもちますが、その一方で、新たな自分を見つける、ということを放棄することにもなります。
今の時代、旅行の質も変わってきました。アドベンチャー的な異国への旅を回避し、手軽で、安全で、平凡な旅行を選ぶ傾向がある、という話を旅行代理店の方から聞いたことがあります。海外旅行を敬遠する傾向も、この数年、よく見られることらしいです。一部のマニアック層では、そういう旅行を楽しんでいる人もいます。けれど、多くの人は、そういう旅行(=旅)を求めていない、ということのようです。
こうした中で、人々が「保守化」するのは、ある意味で当然のような気もします。今の空気全体が、「保守」なんですよね。守りの姿勢になっている。そして、「備え」ばかりを意識して、危険な道を回避する。そういう「閉塞感」が、ますます今の時代を包み込んでいるようにも思えます。
それは、「専門家の時代」という言葉でも表現できるかもしれません。専門家まかせにする時代。なんでもかんでも、外注の時代。専門家というと聞こえはいいけれど、「それ以外はできません」という表明でもあります。プロといえば聞こえがよいけど、プロもまた、他のことはできません、という表明でもある。あるいは、「それだけできればいい」という思想に直結します。
専門家が増えれば増えるだけ、それだけ僕らは弱体化します。チャレンジ精神もなくします。「人任せ」にしてしまいます。それが今の時代なんだ、と言われればそれまでですが…。
そういう時代の中で、「主体性をもて」や、「自律して生きろ」と言われても、その言葉にリアリティーが感じられません。専門家(=他人)にぶらさがって生きているわけですから、理想論で片づけられてしまいます。
広く危険な道を歩めば、やらなければならないことは増えるし、そのリスクも大きいわけです。そこに踏み込むだけのモチベーションが今の時代には見当たりません。ただ黙って、専門家のいうことを聴いて、思考停止状態で、安心の道を歩むほうが「よし」とされるわけです。
健康への過剰な関心も、そこに結びつきます。健康・保健への「圧力」は強まるばかり。もちろん健康であるほうが望ましい。けれど、今の時代の人々を見ると、その健康に振り回されてしまっている気がします。健康への過剰な要請もまた、一つの保守化の表れでしょう。先回りをして、現在で未来を規定しようとする「予防」。
「ネトウヨ」といわれている新しい保守の人たちも、ゆえに、一つの「時代精神」の表れ、と考えた方がいいのかな、と最近は思います。彼らが特別なのではなく、一人の世界内存在として、現れるべくして現れている、というような。
つまりは、全てが守りに入っている、ということ。危険を恐れ、危ない道を避け、できるだけ守られた場所にいようとする願望。これを、アイロニカルに、「自己家畜化」という言葉で表現することもあります。
http://www.geocities.jp/rikwhi/riko/prologue1_main.html
http://www.obihiro.ac.jp/~meatscience/selfdom.htm
全てに共通するのは、「危険への恐れ」と「未来への恐れ」、だと思います。「少年少女よ、大志を抱け」というのは、そういう恐れに負けないで、大きな志をもて!、と、そういうメッセージだったと思います。
今、この「少年少女よ、大志を抱け!」という標語は、どうみんなに響くのでしょうか。「カッコ悪い」って思うのでしょうか。それとも、「それでも、カッコいい」と思うのでしょうか。
小さな現実に押しつぶされそうな時代に、「大志」をもって、大海に飛び出す人は、滑稽なのでしょうか。偉大なのでしょうか。時代遅れなのでしょうか。先鋭的なのでしょうか。
僕は…
ここで、やめておきます。