今日は3ヶ月くらい前に予約をしていた「闇の世界見学」へ。
Dialog in the darkは、1989年、ドイツ発祥の新しいワークショップで、視覚中心に生きるわれわれ現代人を「完全なる闇」へと誘う新しい試みである。(紹介しつつなんだが、もう予約で完全に埋まっているので、今回はもうチケットは入手不可能)
赤坂の小学校の廃墟の中でひっそりと行われている今回のイベント。完全な闇とは一体どういう世界か? 近代社会は視覚中心の社会を構築してきたが、その視覚が奪われるとどうなってしまうのか。これは実に面白いテーマであると思う。単なるブラインドウォークに終わっていないところがポイントだ。
Dialogということで、このワークショップでは参加者同士のコミュニケーションも問題としている。闇の世界で助けとなるのは「人の声」だ。闇に入るとき、今回は8人が同行するのだが、みんなで声を掛け合わないと闇の中で共に存在し合うことができない。闇が「対話」を誘うのである。ある意味、新しいグループワークともいえるだろう。
8人一チームで廃校となった小学校を歩く。ただそれだけのことだが、校内は完全なる闇。一寸の光も存在しない。一歩闇の中に入れば、全く100パーセント視界がなくなってしまう。夜よりも暗い闇。案内人となる視覚障害をもったスタッフが僕らを導いてくれる。スタッフは当然その「闇」が日常であるので、何の問題もない。「目の見える」僕らは「目の見えない」スタッフに頼らざるを得ない。そうでなければ、一歩も前に進むことができない。闇の中では、目が見えるということの方が見えないことよりも具合が悪いのである。
最初は体育館らしき場所に入る。そこに色んなものが置いてあるが、どこに何が置いてあるかは一切分からない。手だけで世界を認識しなければならない。手から得られた情報から、「そこがどこであるか」を判断しなければならない。もちろん手だけでなく、耳、鼻も使うことができる。口は「世界の認識」にとってはほとんど重要ではなかった。
その他、様々なところを巡るのだが、中でも嗅覚が世界を捉える上でとても重要である、ということが分かった。匂いから見えてくるものがあったのだ。目ではなく、鼻で見る世界(詳しいことは伏せておきます。これに行く人が見たら醒めてしまうので)というのがあるんだ、というのは大発見だった。
あと、視覚がなくなるからといって、視覚的世界が完全になくなるわけじゃないということも分かった。闇というキャンバスに僕らは色んなものを描くことができる。ただ、それは、僕らがかつて見たものを闇というスクリーンに写しだしているだけなのかもしれない。これは最後までよくわからなかった。ただ、これまで僕は、「耳が聴こえなくなることと、目が見えないことだったら、目が見えないことの方がはるかに辛い」と思っていたのだが、そうとも言えないのではないか、と思うようになった。むしろ、目が見えないことで、周りの音や人の話がより鮮明になるのである。普段何気なく適当に聴いている人の話も普段以上に注意深く聞こうとする。
完全なる闇も怖いが、完全なる静寂も怖いと思った。耳が聴こえれば、かなりにぎやかである。色んな音を聴いて、孤独を紛らわすことができる。だが、完全なる静寂は、視覚的にはにぎやかだが、音の世界からは隔離されており、静まり返った孤独と共に常に生きなければならない。
われわれ現代人は、ますます「目」を頼りに生きようとしている。パソコンなんて、まさに目だけのコミュニケーションツールである(音が出るのもあるんだけど)。今日は、クルーの8人(全くの他人同士)と触ったり、声を掛け合ったり、匂いをかいだりしながら、コミュニケーションを図った。普段、こうやってアカの他人の肌に接触することはほとんどない。そういう意味でも、すごく原始的なコミュニケーションを生きたような気がした。
Dialog in the dark。いつかの機会に是非行かれんことをおススメします。