バンドのボーカルについて。
僕は、ボーカルに異様なこだわりをもっている。
僕が心底尊敬するのは、板谷祐師匠と、結城敬志さん。
このお二人に共通するのは、どちらも歌に「精神性」を強く感じる、ということ。
これだと抽象的だな。
もっと具体的に言うと、「歌詞」の世界から、歌い方が決まっている、ということだ。歌い方というのは、発声だとか、音程だとか、そういうことじゃない。「声の表現」というべきものだ。
世の中の多くのボーカリストは、リズム感と音程を重視する。リズムに合っていて、音を外していない。それが基本的に最も大事なところだ。
もちろんそれがなければ、ボーカリストとしてダメなんだろうけど、それにこだわるあまりに失われるのが、ボーカリストの「精神性」だと思う。
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これをどう語ればいいのか。
一つ、思考実験。
まず、次の曲を聴いてほしい。
若い子たちは知らないだろうけど、僕ら世代(よりちょっと前の世代)に大人気だったロックバンド(?!)、チェッカーズの代表曲。
この曲の歌詞は、ちょっと不良の若者の等身大の歌だと思われる。
「ちっちゃな頃から悪ガキで、15で不良と呼ばれたよ」、という歌詞のところでは、フミヤは結構つっぱっているような感じで、そっけなく歌っている。そっけなくというか、不良っぽく、悪ガキっぽく歌っている。その後も、ずっとそんな感じで、悪ぶって歌っている。
でも、ギターソロの後の「仲間がバイクで死んだのさ…」というところ(1:43~)で、フミヤは、これまでの不良っぽい歌い方をやめて、どこか物悲しい感じで歌っている。ここだけの「素顔」(素の顔)だった。
フミヤがこの箇所を意識して、気持ちを変えて歌ったのかどうかは分からない。でも、「聴く側」からすれば、この箇所で、これまでとは違った経験をしているはずだ。この曲が「名曲」たるゆえんは、まさにここにあるようにも思える。これがなければ、ただの悪ガキのポップソング(しかも、音的に、彼らの一つ前の世代の音の焼きまわしに過ぎない)で終わっていたとも思う。
歌詞にこそ、ボーカルの「精神性」が求められる。ボーカルは、気持ちを込めて歌うとかそういう次元ではなく、歌詞の世界に自分を寄り添わせるのだ。そういうボーカリストが、「精神性の優れたボーカリスト」と言えるだろう。
ボーカリストの「主体性」に、精神があるのではなく、「歌詞」にこそ、精神があるのである。そして、その歌詞の精神の声を聞き、それに自らを重ね、そこから求められている「声」「歌」を表現できる人が、精神的なボーカリストなんだと思う。
板谷祐師匠も、どこかの記事か何かで、「曲を聴いて、その曲が要求するような言葉を書いて、その言葉が要求するように歌う」、と言っていたと思う。
精神的なボーカリストというと、そのボーカリスト自体が精神的だと思われる。けれど、それは違う。
そうではなくて、外の世界(歌詞やメロディー)に、自らを委ねられる人が、精神的なボーカリストなんだと思う。
(結城さんは、歌詞の世界に一貫性があって、歌い方と歌詞が常にマッチングしていた)
藤井フミヤも、僕にとっては、凄いと思えるボーカリストだった。改めて、この曲を聴いて、ボーカリストとは何なのかを考えさせられた。たしかに、「仲間がバイクで死んだのさ」というフレーズは、記憶にきれいに残っている箇所であった。
巧いとか下手とか、そうじゃないところのことを、もっと言葉にしなきゃって、思うこの頃でして。
最後に、僕的にチェッカーズといえばこの2曲なんです。
改めて、フミヤのボーカリストの凄さに気付きました。