Dr.keiの研究室2-Contemplation of the B.L.U.E-

プレイヤーとリスナー/作り手と食べ手/話し手と聞き手

僕は一応「解釈学」をすべての根底に置いている。

解釈学は、「解釈とは何か」を考える学問であり、
「理解の理論」とも言われている。

解釈学の大御所であるH.G.ガダマーは、
この理解の理論を考えるために、
たびたび詩の読み手や講演の聞き手の例を挙げていた。

おそらく解釈学でなければ、
ほとんどの学問が注目しないのが「読み手」や「聞き手」である。

これを敷衍すれば、解釈学が注目するのは、
プレイヤーではなくて、リスナーの側。
作り手ではなく食べ手の側。
話し手ではなく聞き手の側。

つまり、何かを受信し、受け止める側が、
「解釈学の対象」となるのだ。

一般の音楽理論は、そのほとんどが、
プレイヤーにかかわる理論ばかりだ。
聞き手がどう受け取るのかということについての理論はない。
通常の理論はプレイヤーの側の理論なのだ。

食の理論も同様であり、
食の理論/あるいは調理術のすべてが、
作り手の側に着目した理論ばかりだ。
理論でなくても、問題となるのは常に作り手の技術の問題である。

対話の理論も、そのほとんどが、
話し手の立場からの理論ばかりであって、
聞き手の立場からの理論というのはほとんど存在しない。
いわゆるレトリック(修辞学)の中に「聞く方法」はない。
どう伝えるか、ということばかりだ。

通常の理論は、プレイヤー(行為者)側のためのものばかりで、
リスナー(受容者)側のための理論というのはない。

よい受け手とは何か?
どう受け取ることが正しいのか?より良いのか?

例えば、音楽。

僕自身、ギターやドラムを演ずるプレイヤーでもあるが、
それと同じくらいに、リスナーとして音楽を楽しんでいる。
CDコレクションももはや数千枚になってるし、
ブログでもCDの紹介をしている。

詩を書くことをライフワークにしているけど、詩を読むのが好き。
曲を作ることもライフワークにしているけど、曲を聴くのが一番好き。

こんな感じで、
読むことや、聴くことの理論を目指すのが、「解釈学」というわけだ。

食についても、料理を作ることは大好きで、
とりあえずなんでも作ることはしているし、
料理の技術にも関心がないわけではない。
家に調理関係の本(専門書)は結構ある。

だけど、究極を言えば、僕は「良き食べ手」でいたいと思っている。
僕がブログを書くのも、良き食べ手になりたいがための作業である。

そして、「食べることの理論」(なんかヘンだけど)を見つけたいのだ。

ま、それはともかくとして、
こうした行為者と受容者の間の隔たり、
プレイヤーとリスナーの間の隔たり、
これこそが、解釈学の大きなテーマであり、
どのようにプレイヤーの作ったものが受容者に伝わっているのか、
というのが、解釈学の大きな課題なのである。

オーディエンス、観衆や聴衆、ファン、フリーク、鑑賞者、バンギャetc...

こうした受容者の存在に目を向けることで、
「解釈とは何か」という主題が明確になる。

彼らは、対象となる相手をどのように解釈しているのか?
単純に言えば、「いい」と思うから、オーディエンスやファンになるわけで。

彼らを問題にすることで、「解釈」という行為の意味が問えるようになる。
例えばオーディエンスが何かの試合でエキサイティングするとき、
そこには彼らの理解(解釈)が生じている。しかも、共通の解釈が。

もちろん、理論を作る上での難問も押し寄せる。

プレイヤーや作り手や話し手については、
ある程度までは「説明」することができるし、
「どうしてそうなったのか?」を問うことができ、
因果関係で問題を解決することができる。

だが、リスナーや食べ手や聞き手については、
言葉や表やグラフで説明することができない。
なぜそのチームやアーチストを応援するのか、
ということについて解説する意味はない。

さらに、なぜそのチームやアーチストが好きになったのか?
ということについての説明を他人がすることはできないし、
それを他人がしたところで、「滑稽」なだけである。

なぜその詩や言葉が好きなのか、ということになると、
もはや説明が「有害」になるだろう。
端的に心に響くのだから、どうして好きかを説明することができない。

だから、解釈学は、説明を目指さない。

音楽や料理の世界には、「解説者」や「評論家」がいるが、
彼らは「受け手の代表」となって、「説明すること」を試みる。
でも、それは、「自分がどう見たか、感じたか」を語ることが多い。

優れた解説者や評論家というのは、
完全な説明というより、他者よりも深い理解ができている、
ということにその意義があるように思うのだ。

つまり、深い理解(そのものに即した理解)ができる、ということが、
解説者や評論家の強みなのである。

なので、優れた解説者や評論家は、理解のプロとなり、
解釈のプロということになる。
よき聞き手は、説明のプロではなく、理解のプロである。

では、理解を規定する概念とはどういうものがあるのか?
つまりは、説明ではない理解の理論とはどういうものなのか?

例えば、

①共感することと理解することの違いを明確にすること
②自己を移し変えること=先入見的判断が変更されること
③聞くこと/聴くこと
④待つということの二面性(「何かを待つ」と「ただ待つ」の根源的差異)
⑤能動的受動性を保つこと
⑥対話における「作用」、「影響」を捉えること
⑦他者の「他者性」を疎外しないこと
 =他者は自己の映し鏡ではないということ。
⑧理解とは常におのれの理解であるということ
⑨正しい理解というのがないことを自覚しながら、理解という行為を行なうこと
⑩明確な判断がない以上、常に理解には誤解が起こり得るということ

こうした理論の背景には、
「実践(プラクシス)」という特殊な行為に潜む問題性がある。

理解の理論は、常にプラクシスの理論であり、
危うさや脆さや一回性といった、リスクの高い理論である。
これを回避するのがテクノロジーであるだろうけれど、
理解の理論には、テクノロジーは通用しない。

こうした問題を語っていくことで、
説明ではない理解の理論が完成されていくと僕は考えている。

僕は改めて「理解の理論」が欲しい、と思っている。

コメント一覧

kei
っちさん

英語だとね~(汗)
気合入れて読まないと駄目だから、みんなスルーしちゃうのでは?内容も内容ですし。

是非一度、日本語で聴き手と奏者の関係について論じてもらいたいです、もちろんっちさんに!! ガダマー、今もねちねちやってますよ~

るきさん

とても「解釈」の難しいコメントを…(汗)まず、「解釈は価値観が重なることである」というのがわかりません(汗) 読み手と書き手の価値観が重なることが解釈ということですか?とすると、それは「共感」の問題になります。でも、共感できないけどすごいと感じることってないですか? 「なんだか凄い」という感覚。芸術とかではそういうことって結構あると思うのです。つまり、価値観が重ならないけど、ひきつけられる経験というか。。。

また、「本当に相手に伝えることは出来るか、不可能である」、というところも謎めいていますね。不可能だという根拠はどこにあるのでしょうか? あと、解釈学的には、「本当に伝わっているか」ではなく、「どう伝わっているか」を問題にします。「本当に伝わる」ということは、作者や作り手の意図が大前提になります。が、解釈学は、作り手と作品を切り離してしまいます。作り手は問題外なのです。そうすると、「作り手の伝えたいこと」がなくなり、「作品がわれわれに何をどう伝えているのか」ということだけが問題となります。

作り手と作品と受け手の関係性をどう捉えるかで、考え方もずいぶんとちがってくるんですね。。

僕に置き換えれば、「るきさん」という方が何を伝えようとしているのか、ということよりも、るきさんが書いたお言葉をどう僕が理解するか、ということが問題なのですね。

同じように、このブログでは、keiがどんな人かはまったくどうでもよくて、書かれた記事そのものから、読んでくれる人がどう理解しているのかが僕には問題なのです。

なので、るきさんのようなコメントはとてもありがたく、そしてうれしく思います。ありがとうございます!!
るき
解釈
全ての根底は

  価値観の相違

である。
解釈は価値観が重なる事であり、物事を同じ面から捉えられる事である。
色即是空
目に見える物が全てではない。
本当に相手に伝える事は出来るのであろうか?
不可能である。

これをスパムと捉えるかどうか、解釈の仕方である。
っちさんさん
john cage
現代音楽の巨匠John Cageは、聴き手と演奏者・作曲者の関係を突き詰めた人であり、オレはアメリカでその人についての論文を書きました(ミクシでも発表したが英語のためかいつにもまして誰も読んでくれなかった)。

ガダマー懐かしいね~ 
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