僕は一応「解釈学」をすべての根底に置いている。
解釈学は、「解釈とは何か」を考える学問であり、
「理解の理論」とも言われている。
解釈学の大御所であるH.G.ガダマーは、
この理解の理論を考えるために、
たびたび詩の読み手や講演の聞き手の例を挙げていた。
おそらく解釈学でなければ、
ほとんどの学問が注目しないのが「読み手」や「聞き手」である。
これを敷衍すれば、解釈学が注目するのは、
プレイヤーではなくて、リスナーの側。
作り手ではなく食べ手の側。
話し手ではなく聞き手の側。
つまり、何かを受信し、受け止める側が、
「解釈学の対象」となるのだ。
一般の音楽理論は、そのほとんどが、
プレイヤーにかかわる理論ばかりだ。
聞き手がどう受け取るのかということについての理論はない。
通常の理論はプレイヤーの側の理論なのだ。
食の理論も同様であり、
食の理論/あるいは調理術のすべてが、
作り手の側に着目した理論ばかりだ。
理論でなくても、問題となるのは常に作り手の技術の問題である。
対話の理論も、そのほとんどが、
話し手の立場からの理論ばかりであって、
聞き手の立場からの理論というのはほとんど存在しない。
いわゆるレトリック(修辞学)の中に「聞く方法」はない。
どう伝えるか、ということばかりだ。
通常の理論は、プレイヤー(行為者)側のためのものばかりで、
リスナー(受容者)側のための理論というのはない。
よい受け手とは何か?
どう受け取ることが正しいのか?より良いのか?
例えば、音楽。
僕自身、ギターやドラムを演ずるプレイヤーでもあるが、
それと同じくらいに、リスナーとして音楽を楽しんでいる。
CDコレクションももはや数千枚になってるし、
ブログでもCDの紹介をしている。
詩を書くことをライフワークにしているけど、詩を読むのが好き。
曲を作ることもライフワークにしているけど、曲を聴くのが一番好き。
こんな感じで、
読むことや、聴くことの理論を目指すのが、「解釈学」というわけだ。
食についても、料理を作ることは大好きで、
とりあえずなんでも作ることはしているし、
料理の技術にも関心がないわけではない。
家に調理関係の本(専門書)は結構ある。
だけど、究極を言えば、僕は「良き食べ手」でいたいと思っている。
僕がブログを書くのも、良き食べ手になりたいがための作業である。
そして、「食べることの理論」(なんかヘンだけど)を見つけたいのだ。
ま、それはともかくとして、
こうした行為者と受容者の間の隔たり、
プレイヤーとリスナーの間の隔たり、
これこそが、解釈学の大きなテーマであり、
どのようにプレイヤーの作ったものが受容者に伝わっているのか、
というのが、解釈学の大きな課題なのである。
オーディエンス、観衆や聴衆、ファン、フリーク、鑑賞者、バンギャetc...
こうした受容者の存在に目を向けることで、
「解釈とは何か」という主題が明確になる。
彼らは、対象となる相手をどのように解釈しているのか?
単純に言えば、「いい」と思うから、オーディエンスやファンになるわけで。
彼らを問題にすることで、「解釈」という行為の意味が問えるようになる。
例えばオーディエンスが何かの試合でエキサイティングするとき、
そこには彼らの理解(解釈)が生じている。しかも、共通の解釈が。
もちろん、理論を作る上での難問も押し寄せる。
プレイヤーや作り手や話し手については、
ある程度までは「説明」することができるし、
「どうしてそうなったのか?」を問うことができ、
因果関係で問題を解決することができる。
だが、リスナーや食べ手や聞き手については、
言葉や表やグラフで説明することができない。
なぜそのチームやアーチストを応援するのか、
ということについて解説する意味はない。
さらに、なぜそのチームやアーチストが好きになったのか?
ということについての説明を他人がすることはできないし、
それを他人がしたところで、「滑稽」なだけである。
なぜその詩や言葉が好きなのか、ということになると、
もはや説明が「有害」になるだろう。
端的に心に響くのだから、どうして好きかを説明することができない。
だから、解釈学は、説明を目指さない。
音楽や料理の世界には、「解説者」や「評論家」がいるが、
彼らは「受け手の代表」となって、「説明すること」を試みる。
でも、それは、「自分がどう見たか、感じたか」を語ることが多い。
優れた解説者や評論家というのは、
完全な説明というより、他者よりも深い理解ができている、
ということにその意義があるように思うのだ。
つまり、深い理解(そのものに即した理解)ができる、ということが、
解説者や評論家の強みなのである。
なので、優れた解説者や評論家は、理解のプロとなり、
解釈のプロということになる。
よき聞き手は、説明のプロではなく、理解のプロである。
では、理解を規定する概念とはどういうものがあるのか?
つまりは、説明ではない理解の理論とはどういうものなのか?
例えば、
①共感することと理解することの違いを明確にすること
②自己を移し変えること=先入見的判断が変更されること
③聞くこと/聴くこと
④待つということの二面性(「何かを待つ」と「ただ待つ」の根源的差異)
⑤能動的受動性を保つこと
⑥対話における「作用」、「影響」を捉えること
⑦他者の「他者性」を疎外しないこと
=他者は自己の映し鏡ではないということ。
⑧理解とは常におのれの理解であるということ
⑨正しい理解というのがないことを自覚しながら、理解という行為を行なうこと
⑩明確な判断がない以上、常に理解には誤解が起こり得るということ
こうした理論の背景には、
「実践(プラクシス)」という特殊な行為に潜む問題性がある。
理解の理論は、常にプラクシスの理論であり、
危うさや脆さや一回性といった、リスクの高い理論である。
これを回避するのがテクノロジーであるだろうけれど、
理解の理論には、テクノロジーは通用しない。
こうした問題を語っていくことで、
説明ではない理解の理論が完成されていくと僕は考えている。
僕は改めて「理解の理論」が欲しい、と思っている。