Dr.keiの研究室2-Contemplation of the B.L.U.E-

所有、欲求、動物化から、責任、対話、ケアへ

所有、欲求、動物化から、責任、対話、ケアへ。

現代人の行動の原理は、所有(have)と欲求(want)から成り立っている。この所有と欲求が正当化されることで(正しいと皆にみなされることで)、現代の産業社会が成り立っている。産業社会は、われわれが「欲しい」と欲求するものを作り、それを売り、金を稼ぐシステムを採用している。人の欲求に訴えることで、僕らは生きているのである。とりわけわれわれは、生活すること、生きることに直接かかわらない商品の恩恵を強く被っている。例えば、パソコンや車やその他電子機器。こうしたものは、われわれが生きる上で、生存する上ではほとんど意味をなさない。だが、こうしたものが開発され、生産されないとわれわれは生きることができない。パソコンや車が新たに開発されることで、その会社のみならず、その下請け会社やさらなる下請け会社に仕事が生まれる。

こうした時代では、欲求に忠実であることが望ましいと、社会(主に産業界)の側から承認される。よりいい家に住みたい、よりいい食事がしたい、よりよいアクセサリーを身に着けたい、よりよい彼氏がほしい、突き詰めれば、承認されたい、と。こうした欲求こそが、現代を生きるために必要な動機となっている。

こうした欲求に基づく人間を、東さんは「動物化」と捉え、批判的に検討する(彼自体はもっと面倒くさくいろいろ書いてますが…)。動物化というのは、欲求に基づいてのみ行動するようになる、ということを意味する。アメリカ型人間スタイルとでもいおうか。

http://www.miyadai.com/texts/animalize/
(東自体は、なんかもう言葉遊び的に語ってますが、、、)
(この二人の議論の根底には、やはり消費社会~産業社会という前提がありますよね。僕の議論上の前提とは全然違う。当然と言えば当然。ただ、彼らの前提が、人間世界の前提だとは思えないし、認められない。この二人もやがては年をとり、場合によってはケアのお世話になるわけで、そうした時に、彼らがどう語るのか。それは聞いてみたいと思う。簡単に言えば、オタクも、健康で、自立した生活ができているという前提があってこその存在であり、失業したり、障害をかかえたり、高齢化すれば、オタクとして生きることは困難となる。人間はいつか通常の暮らしができなくなる時がくる。あるいは、大人になる前に、当たり前の生活が崩れ落ちる場合もある。…)

こうした行動の原理に対置されるのが、教育やケア、養護の原理である。教育やケアや養護は、こうした原理を否定し、別の原理で動くことが求められる。怒りたくないけど、怒る、注意したくないけど、注意する。むかつくけど、笑う。欲しいけど、求めない。教育やケアは、自分の欲求を満たすためにやるわけでもないし、また、相手の欲求を満たすためにするものでもない。ある60代の人が話していた。「昔は、先生は偉かった。子どもが先生に怒られたら、親も先生に誤っていた。でも、今は違う。先生が子どもに怒ると、その親が先生に文句をいう。普通なら、自分の子どもが悪いことをしてすみません、というのが普通じゃないのか?」、と。店や企業では、客やクライアントに怒ることはない。だが、教育やケアの世界では、怒ることも必要。病院も同じだ。ある医師は語る。「注射が痛いから嫌だという子どもに躊躇していては、医師はやってられない。最近の親は『痛くない注射はないのか』と言ってくる。『泣くのがかわいそうだ』、と。痛いのが注射だし、それがなければもっと強烈な苦しみを味わうことになる。なぜ、そのことが分からない」、と。

「快」だけを徹底的に追及するのが、現代社会の全般的なあり様だとすれば、「快」のみならず、「不快」をも与えようとするのが、教育やケアや養護の原理である。

では、欲求を満たすことではなく、何を満たすことが求められるのか。あるいは、満たすのでなければ、何を求めるのか。いや、求めないとすれば、何に基づいて教育やケアをすればよいのか。

その一つに挙げられるのが、「責任を果たす」ことによる義務の遂行であろう。すべきことをしたことの達成感は、欲求を満たすことと同じくらい、気持ちのよいものである。すべきことを果たすことには、苦痛もあるし、欲求とバッティングすることもある。けれど、その欲求を抑え、義務を果たした時の喜びはひとしおである。義務の遂行には、忍耐が必要である。その忍耐をもって、目的を果たした時の喜びは、欲求の充足よりも大きなものではないか。受験をクリアした時の喜び、苦しい実習を終えた後の解放感、手のかかる子どもが成長したことの喜び、責任ある大きな仕事を実現した後の一杯の美味しさ、こうした喜びは、欲求の充足よりもはるかに大きい。

だが、注意しなければならないのは、その「すべきこと」が誰によって命じられるか、である。それには二種類ある。他人に言われてすべきことと、自分がすべきと判断したすべきこと、である。他人に言われてしなければならないことは、shouldであり、自分がせねばならぬと思うことは、mustである。shouldとmustは、共に「せねばならない」だが、その意味合いは違う。受験であっても、自ら「せねばならぬ」と思う人もいるし、親に言われて、「せねばならぬ」と思う人もいる。教育やケアや養護の仕事は、shouldなことも多いが、実践においては、mustが問われる。

日々、自らの意思で、「せねばならぬ」と思うことを遂行できる教師や保育士こそ、自律した優れた実践者であるだろう。逆に、人に言われたことだけをすべきと捉え、それだけをやっている人は、優秀なバイトではあっても、教師や保育者ではない。自分に厳しくある人、欲求を抑え、すべきことがしっかり見えている人、そういう人が、人とかかわるプロであると思う。あるいは、優秀な親だと思う。

ケアは、動物的な営みではない。動物の世界は、弱肉強食である。弱い存在は、淘汰される。人間の世界は、弱い存在を支え、その弱い存在のケアをし、その弱い存在から、学ぶ。弱い存在を無視する社会は、人間的な世界ではない(はず)。

haveの愛情は、所有、欲求、動物化の道を歩む。人間も、生物である以上、この道を歩まざるを得ない。欲しいものは欲しい。だが、beの愛情というのもある。この愛は、義務や責任や人間化の道を歩む。ただ、そのbeの愛も、他人から指示される、他の人々から命ぜられるがゆえに果たすのではなく、自らの意思で自らの義務や責任を全うする道こそが、本当の人間化の道だと今も僕は信じている。

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