Dr.keiの研究室2-Contemplation of the B.L.U.E-

演奏技術の向上とそれと共に失われた言語の力 -ロックの終焉?-

最近、強く思うことがある。

それは、僕が生きてきたこの20年で、格段にバンドマンたちの演奏技術が向上したということと、それと同時に、歌詞の世界が恐ろしいほど貧弱なものになってきている、ということだ。

まず、これを見てほしい。

とんでもない「技芸」だと思う。恐ろしいほどに超高速ギターだ。凄い。凄すぎる。。。ギターをやっている人なら、きっと、「うわー、こんなのまねできない…」と思うだろう。怪物レベルである。

けれど、このギターの音で、人の心は揺さぶられるだろうか。この超hyper高速プレイを見て、涙するだろうか。鼓舞されるだろうか。音楽のもつ根源的な力が与えられるだろうか。

もちろん、この動画でも確認できるように、感動することはできる。僕自身、「おおおおお~!!!!」って思ったし、叫びそうになった。

でも、それは、ここで奏でられている「音楽に」、ではない。そうではなく、音の「技」に感動しているだけである。「速さ」に感動しているだけである。そこに、芸術的感動はない。あくまでも、超絶な技法に感動しているだけである。

音を楽しむ、という意味では、この上の「名人芸」も十分に「音楽」なんだと思う。

けど、それが、ロックなのだろうか。ロックンロールなのだろうか。そう、僕は反省する。

僕の中では、ロックとは、「魂の叫び」だ。あるいは「心からの叫び」だ。余裕をもって、テクニカルに音を楽しむというのもあってもいいと思うけれど、それは、自分の中では「ロック」じゃない。余裕がある、というのは、ロックじゃない。切羽詰まった感じ、というか、追い詰められた感じ、というか。そういうものが、ロックの基本だと思う。

魂の叫びである以上、言葉の力は大きい。人間は、音にのせたメロディー、その言葉に酔いしれる。演奏そのものに酔いしれるのも否定はしないが、それをロックには求めたくはない。

最近のバンドマンたちは、既に「英才教育」を受けている場合が多い。小学生や中学生の頃から、ギター、ベース、ドラムをスクールで習っている、というバンドマンも多い。そういう「エリートバンドマン」が増加しており、演奏レベルは、僕らの時代に比べてもはるかに向上している。正直に言えば、「何をどう演奏しているのか、わけわからないバンド」が実に増えている。

ゆえに、高校生で楽器を始めた、という子たちは、今のシーンではなかなか活躍できない。昔は、ヤンキーが悪ぶってギターをもって、叫んでいるだけでも、カッコよかった。でも、今は違う。スマートで、幼い頃から楽器に慣れ親しんだ子たちが、大人顔負けの演奏をする時代なのだ。ヘタクソなギターをかき鳴らして、がなっているだけのバンドマンは、見向きもされない時代になっている。

でも、歌詞の世界はどうだろうか。

個々のバンドの歌詞分析はここではしないけれど、大まかに二つの路線がある。

①中身のない上手な英語の歌詞

学生たちに、「このバンドがいいですよ」と教えてもらう若手のバンドの多くが、英詩で歌っていることに気づく。しかも、今の時代、なかなかその英語がお上手。でも、実際に読んでみると、気持ち悪いほどにおそまつな意味内容のものが多く、そこに思想やイデオロギーはなく、少し怖くなるほどポジティブなものが多い。「英語で歌う」というだけしか価値のないような歌詞も多い。これも、テクニックに走った演奏と同様、英語スキルの上達でしかない。

②自己肯定型・自己承認型の歌詞

最近売れているロックバンド(ヴィジュアル系を含む)の歌詞を読んでみると、「自分を認めて」「みんな認めてもらいたい」「君には価値がある」といった、自己肯定、自己承認をテーマとした歌詞が実に多い。結構ハードなサウンドを奏でるバンドでも、そうなのだから、どうしたものか、と思う。また、その多くが、「他者否定」を含んでいる。「仲間っていいよね。それ以外はクソ」、みたいな。うちうちの人間の間の狭い世界の中での「承認」が主題となっている。

乱暴に分ければ、今のバンドの歌詞はだいたいこの二つの傾向にある。

そこには、詩的言語の力は秘められていない。意地悪く言えば、「作文」「日記」のレベルのものが圧倒的に多い。昔のバンドでも、そういう「作文」「日記」レベルのものしか残せないバンドはいっぱいいた。けれど、今ほどは酷くはなかったと思う。もっと「怒り」や「悲しみ」があった気がする。今のバンドマンの歌詞は、詩性を帯びていない。今、ロックシーンで絶大な人気を誇る某バンドも、演奏は飛びぬけて巧いものの、歌詞は恐ろしいほどに貧困であった。

ロックバンドの技術化によって、失ったものがあるとすれば、それは「詩の芸術性」じゃないか、と思う。「文学性」と言ってもよいだろう。(芸術性や文学性は、「伝わりにくさ」にもつながる)

頭の良さではない。語彙を知っているかどうかでもない。そうではなく、深い感性の世界を生きているかどうか、だと思う。あるいは、「感じる力」「考える力」があるかどうか。もしかしたら、「技術化(テクニック重視)」が、そうした経験世界の貧困を呼んでいるのかもしれない。

演奏の難解さとひきかえに、歌詞の難解さがなくなったと言ってもいいかな。

最後に、難解な歌詞の曲を。この曲を作った時、彼らはまだ20代だったと思う。

Buck-Tick Taiyo ni korosareta (live)

http://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND7600/index.html

コメント一覧

kei
白菜ときのこでさん

コメントありがとうございます!

ほぼ同じ世代ですね。デラとジキルのファンの方であれば、もうそれだけで「深いつながり」です(苦笑) 青春の全てでしたもんね。

デラやジキルって、歌詞にこだわっていましたよね。デラはどちらかというと比喩的表現と世界観を重視していて、ジキルは哲学というか社会学というか心理学というか。小さな日常を歌いつつも、そこにどこか「距離」があった気がします。今のバンドは、歌詞と経験の間に距離がないんです。だから、「日記じゃん」って言いたくなるんだとも思います。

たしかにネットのおかげで、バンドマンが「営業マン」になっちゃった感があります。バンドマンのツイートとか、ブログとかって、いいと思えませんからね。だいたいバンドマンが下手に何かを語ると、だいたいはあれですからね、、、 語りベタだから、音で表現するわけで。。。

僕も20年前のCDをもちだしてよく聴きます。昔は意味不明だったけど、今となると、「ここ、英語まちがってるじゃん」とか「日本語の表現としておかしい」とか思ってしまう自分もいたりします。

けど、それでも、どこか大人っぽいですよね。

是非、これからも語りましょう!!
白菜ときのこで
同感です。
はじめまして。D'ERLANGER,Zi:killその他大勢(笑)で育った40手前です。コメントした事は無かったのですが、同じ思いに感激しきりでこうして投稿させて頂きました。

最近の日本語歌詞の歌全般にも言えることですが、全くもって歌詞が貧相。「歌詞じゃなく日記じゃん」いつも心の中でツッコミを入れています。職場でFMラジオがかかっているのですが流れる曲流れる曲そればかりでストレス溜まります(笑)。時々昔の曲がかかると気持ちが落ち着いたり。V系でも、最近のものを聴こうと探してみても、歌詞で嫌になってしまう日々…。比喩とか韻を踏むとか80年90年初頭アーティストが普通に行っていた事どこに行ったの、と。(そもそも今は「アーティスト」という呼称がそぐわない人が多いと思いますがw)

その頃と違ってネットで情報を容易く入手する今、バンドの独自性も失われていっている気もしますね。当時は音楽雑誌と通販と文通と工夫で創り上げるしかなかったですから各地で「とんがった」バンドが派生していたような…今はそれが無いのかもしれません。

そんなわけで今でも20年前のCDを引っ張り出して楽しんでいます。時を越えて聞き直すと、当時理解できなかった歌詞も理解できたりして「今更?」という感じですがw
すみません、語ってしまいました。
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