デリケートな問題なので、オブラードにくるみつつ。。。
僕は「家族・家庭」の研究者という側面をもっています。「離婚家庭」のみならず、「家庭とは何なのか?」というのは、自分の根源的テーマの一つです。その家庭という視点から、教育の問題や学びの問題や世代間問題にコミットしようとしています。
そんな自分も、プライベートでは、家庭内を生きる人間であり、家族の当事者です。
今回、ちょっとあることがあって、「家族の当事者」として、考えさせられることがありました。
***
「家族」よりも少し広い概念に、「親族」という概念があります。親族間というのはとてもデリケートな関係であり、よいときはよいですが、悪化すれば、裁判沙汰にも、犯罪にも直結してしまいます。家族・親族の問題は、どこまでもこじれることが可能なものであり、一歩間違えば、とんでもないことになります。
けれど、他者が、その家族・親族問題にコミットすることは極めて難しい。法でさえ、家族や親族の問題については入り込めていない、というのが現状だと思います。DVにしても、財産問題にしても、ルールとしての法はあっても、解決することが極めて困難な問題となっています。
家族は、いわゆる「親密圏」に属しますが、その親密圏は極めて政治的であり、公共的な問題なんだ、という主張が最近行なわれています。DVの例がよく挙げられますが、男女という(権力)関係の政治性から、家族は親密圏ではない、という考えがあります。親密圏の根本には、「守られていて、安心できる空間」という考えがありますが、DVに象徴されるように、最も親密関係にある夫婦や恋人の間に、親密さが崩壊し、恐怖や暴力で支配されてしまう、という現象があります。
家族・親族関係は、このDVの例からも分かるように、親密さ(愛情)がなくなれば、ただの闘争の関係になってしまいます。関係性が根深いだけに、闘争もねじれてきます。誰かと誰かがこじれると、それに付随して、他の関係性にまで影響がでてきます。嫁姑問題も、同じ理屈が通用すると思います。こじれるのは、その当事者だけでなく、あらゆる当事者に影響が及びます。
がゆえに、「寛容さ」と「他者への配慮」が必要不可欠になります。ただ、それは理想論であり、「寛容さ」や「他者への配慮」があれば、争いなど起こりません。それに、家族・親族問題がゆえに、「譲れない部分」があったり、「妥協できないもの」があったりします。その利害が一致すればよいですが、なかなかそうもいきません。
(それが男女間・異性間であれば、もっと事態は深刻で、さしで勝負しようとする男性と、根回し根回しで動こうとする女性との間では、対話における一致がなかなかできません。男女間の相違は、対話を阻害するし、共通理解に発展することも困難です)
何か問題が起きたときに、どちらかが妥協すればそれで終わります。が、妥協できない問題にぶち当たった時、どうするか。それが、家族・親族問題の根源にあるかと思います。たとえば、「親の葬式をするか/しないか」、「仏教式でやるか/キリスト教式でやるか/無宗教でやるか」、「子どもの小学校を私立にするか公立にするか」…といった問題は、考えの相違により、とんでもない事態に発展しかねません。
そもそも、家族・親族は、そういった悩ましい政治的・公共的問題性をもっているのです。親密な関係でありつつも、その親密さゆえに、解決困難なあらゆる火種を抱えているのです。
親密であり、対等であるからこそ、対立が生まれた時に、なかなかひっこみがつかなくなる。もちろんこれまでのいろんな軋轢やら葛藤があってのことだと思いますが、とにかく「我」が捨てられなくなる。自分が正しいと思うようになるし、自分の考えを、同じ家族・親族である他者に曲げられたくない、とも思う。そこに、むき出しの我と我の対立の萌芽があるわけです。
そこで、重要になるのが「対話」ですが、しかし、これがうまくいかない。我と我のぶつかり合いになったら、殴り合いをするか、絶縁するか、裁判所に決定をゆだねるしかない。どの道を選んでも、誰も喜ばないし、納得もしないでしょう。そもそも、家族・親族問題は、解決不可能な問題をたくさん抱えているのです。
では、どうしたらよいのか。
そんなことが分かれば、苦労はしません。解決不可能だらこそ、悩ましいし、今まで多くの葛藤や闘争が続いてきたんだと思います。家族・親族問題は、そもそも解決困難な性質をもっているんです。そう考えるしかないかな、と思います。冒頭でも書きましたが、家族・親族問題はデリケートです。
けれど、まるくおさめることもできないんです。まるく収まらないからこそ、「問題」になるのではないでしょうか。
対立する両者が対話をする、というところまでいけばよいですが、なかなかそこまでいかない。だから、みんな苦しくなるし、あの手この手を打とうとする。でも、どんな手を使っても、多くの場合、よけいにこじれていく、となります。かといって、のんきに「待つ」ということもなかなかできない。
それが、政治空間としての家族、なんだと思います。
この上の話は、すべて政治にもいえることです。利害や思想がバッティングするとき、そこには亀裂が生まれ、摩擦が生じ、葛藤状態になります。その中で、なんらかの結論を出さなければならないけど、すべての当事者が納得できるような結論はない。かといって、少数派の意見を切り捨てることもできず、かといって、多数派の意見をうのみにすることもできない。かつてのファシズムは少数派をつぶしてきたし、多数派の暴走によってマイノリティーの意見はかき消されることになる。かといって、少数派の意見を、多数派が容認するほどの「民度」はどの国も持ち合わせいない。
家族の問題は、政治空間とは別の空間として語られる傾向が強くありますが、ある見方に立てば、おもいきり政治空間として見ることができます。
がゆえに、きちんとした対話能力、寛容さ、忍耐、他者への配慮などが欠かせないんです。それをなくせば、ただの政治闘争となってしまいます。あるいは、権力闘争になってしまいます。だから、つまり、「ケア」なくして、解決は困難なんですね。ケアとは、そうした対話能力や寛容さや忍耐という構成要素から成り立っているものです。
ケアの研究をしているのに、今になって、ようやくその意味が飲みこめた気がします。
ただ、それを実践するのは極めて難しい。お互いにケアの精神がなければ、成り立ちようがない。
今の時代、ますます不寛容が強くなってきています。タバコへの不寛容は尋常じゃないです。健康や環境への不寛容も半端ないです。とある国は自国の正義を謳い、他国に攻撃をしかけます。他者への寛容は、常に挫折の道を歩みます。それでも、寛容さは訴え続けなければなりません。寛容さは、他者への服従ではないはずです。寛容さの精神をもちつつも、きちんとこちらの主張はしっかりと伝えなければなりません。けれど、相手の意見をもきちんと聞かなければなりません。
その先です。その先に、どんな答えがあるのかは、当事者であっても分かりません。分からないけど、対話をする、それしか道はないんです。
***
なんか、歯切れの悪い文章になりましたが、書いていて、色々と分かることがありました。
なんかの答えも、手がかりもありませんが、家族・親族問題は、やるしかないんです。うまくいかないことを前提としながら。。。