Dr.keiの研究室2-Contemplation of the B.L.U.E-

われわれは愛することを学ぶことはできるのか?

われわれは愛することを学ぶことができるのか?

愛することは人間に限らず、サルやチンパンジーなどにおいても見てとることができる。動物園で母サルが子ザルを抱いて必死に外敵から子を守ろうとする姿を見ていると、愛することは人間だけに備わっているものではなのだ、と思い知らされる。また、ツバメの求愛活動を見ていると、パートナー選びが本能的に得られているような気分にさせられる。

しかし、人間社会を眺めていると、愛することはとても難しいことのように思えてくる。母が子を殺す事件や、恋愛をきっかけにして相手を殺したり、相手の自尊心を根こそぎ奪い取ってしまったりするケースを多々みかける。われわれ人間にとって、愛することは本能的に獲得されている自明のことではなく、学ばなければ得られないようなことだと思えてくる。

特に幼児期に親から愛されて育ってきたか、という自分の力ではどうすることもできない事実が、その人の後の愛する行為に強い影響を与えているように見える。親からたっぷりと愛情をもって育てられた子は、やはり正しく他人を愛せるようになるし、逆に、親から愛を受けずに育った子は、愛することを学ぶことができず、愛の不足を常に感じたり、偏った愛し方をしたり、過剰な愛を相手に求めたりする傾向が強くなる。親に愛された人と、親に愛されないで育った人との間には、(目には見えないが)相容れない深い溝があるように思えてならない。

ここで重要なのは、愛することに長けている人は、その人が愛情深い善人だから愛する能力をもっているのではなく、たまたま愛された家庭に生まれたから、根本的に愛するということがどういうことなのかを(偶然にも)体験的に知っている、ということである。このことを前提とするならば、あり余る愛を受けて育ってきた人間は、愛を受けずに育ってきた人間のことを見下すことは許されないだろう。愛を受けずに育ってきた人間は、その人自身に愛する能力が根本的に欠けていたからではなく、たまたま愛することを学ばなかった親の下に生まれてきただけなのだ。

このことを念頭において、次のように問うてみたい。愛することを学ばなかった人は、新たに愛することを学ぶことができるのか、と。つまり、幼児期に親に愛されずに育ってきてしまった人は、後に愛することの具体的な内容を知ること、体得することは可能なのか、と。

発達心理学では、「臨界期」や「レディネス」といった概念がある。これらは、どちらもある時期に何かを獲得することが可能な時期や状態を指している。逆に言えば、その時期や状態を逃すと、後に獲得することができないような事態を指している。われわれ人間にとって、愛することは、幼児期に愛されるという経験をしなければ獲得できないような能力なのだろうか。それとも、たとえ幼児期に愛された経験がなくとも、何らかの仕方で学ぶことが可能な能力なのだろうか。

愛することを学んでいない人は、(特定の時期に)深く愛された経験がないゆえに、愛されることを強く欲する傾向もある。彼らは、愛する心をもっていないのではなく、愛する心を知らないのである。そして、愛する心を知らないゆえに、そのことに深く苦しんでいるのである。お金がないこと、つまり物質的な貧困もとても苦しいことだが、愛がないこと、つまり精神的な貧困もとてもとても苦しいことなのだ。

凶悪な殺人や母子の悲劇などを見ていると、どれも「貧困」が原因となっている。物理的な貧困と精神的な貧困が、人を苦しめ、人を窮地に追い込むのである。当然、物理的な貧困と精神的な貧困が重なれば、二重の貧困が人を苦しめ、絶望へと向かわせしめるのである。とある事件では、離婚と失業という二重苦が母を襲い、愛するわが子を殺めてしまった。子を骨の髄から愛することが可能な母という存在者も、物質的な貧困と精神的な貧困に苦しめば、最も愛すべき子を殺めてしまうのである。

では、その母親はなぜ離婚と失業という二重苦を背負うことになってしまったのか。一概には言えないが、やはりパートナー選びに失敗していることがこの苦しみの基になっているように思える。パートナー選びは、恋愛、結婚という若年成人期の二大イベントである。つまり、中高生の頃から始まる恋愛経験が基となって、上の二重苦が引き起こされている。家族の悲劇、子の悲劇は、親の恋愛経験からもう既に幕を開けているのである。

その親の恋愛経験は、やはりその親の幼児期の<愛される経験>に基づいている。愛されて育ってこなかった人の恋愛経験と愛されて育ってきた人の恋愛経験とでは全く異なっているのではないか。つまり、愛することを学んでいる人と愛することを学んでいない人とでは、恋愛経験の質が全く異なっているのではないか。

とある母親Aさんの話(若干デフォルメします)。

Aさんは今子育てに苦しんでいる。Aさんは幼少期に実の両親にあまりかまってもらえず、寂しい幼少期を過ごした。愛情の痕跡である写真やフォトアルバムもない。そんなAさんは高校生の時期に男性にはまり、様々な男と交際を続ける。もちろんお年ごろとあって、性的な交際も積極的に行っていく。そして、十代の終わり頃に妊娠が発覚。しかし、多数の男性と交際をしていたために、父親が誰なのかが(Aさんには)特定できなかった。DNA鑑定などを行うほどの余裕もなく、Aさんはシングルマザーとなってしまう。そんなAさんは必死に我が子を育てようと努力する。根が真面目なのだろう、我が子だけは何が何でも守ろうと必死になって子育てをしている。けれど、Aさんには現在、Aさんを最も愛してくれるパートナーがおらず、Aさんの親の援助もない。そもそも父親(Aさんの相手)の経済的基盤が存在せず、(子育てをする以前から)若いAさんは孤独に一人で子育てをしなければならない状況にあったのだ。パートナーからの愛もなく、親からの愛もなく、当然経済的にも厳しい状況もあって、とうとうAさんは精神的に追いつめられ、精神的な病いを患ってしまった。精神的な貧困と物理的な貧困から、Aさんは病いに苦しみ、子育てに苦しんでいる。現在もなお・・・

この話からも分かるように、家庭の問題や子育ての問題には、親の恋愛経験や恋愛観が大きくかかわっているのだ。愛することを学んでいる人はきっとパートナー選びでも失敗しないであろうし、たとえ失敗したとしても、二度目の恋愛で愛を知っている人を見つけ出すだろう(欧州の離婚経験をもつ知人らは、二度目の結婚で穏やかで堅実なパートナー選びに成功している)。だが、愛することを学んでいない人は、そもそも愛することがどういうことかを知らないゆえに、数度にわたって失敗を重ねる(場合が多々ある)。

われわれはいかにして愛することを学ぶのか。いや、それ以前にわれわれは、愛することを学ぶことは可能なのか。もし愛することを学ぶことが可能ならば、どのようにして愛することを学べばよいのか。反対の立場からすれば、どのようにしたら人に愛することを教えることは可能なのか。これは、愛する能力をますます欠きつつある現代人全員にとって重要な問いのように思う。愛することを決して軽視してはならないと思う。

→「恋愛交差点」に続く

*某講義の講義メモです。今年の前半は「愛すること」を少しテーマにして考えてみようかな、と思っています。

関連記事
嫉妬の解釈学
ルソーの恋
金と女には気をつけろ!
10代ママの声
困窮下の女性を助けることが最重要!
夫婦の仕事
友情論
フェチズム論
トランスセクシャル
異性装(トランスヴェスティズム)
キャバクラ論
老夫婦の関係
モモの不思議な力
保育者の条件

コメント一覧

kei
やまさん

だんだん深い話になってきましたね(汗)

自信と環境、たしかにそのとおりだなぁと思いました。自信=自尊心と置き換えてもいいですかね!? 事件を起こすような人って、たしかに自信がなさそうな人が多い気がします。というか、自分に自信がある人は世間を騒がせるような事件ってほとんどしない気がします。そういう意味では、事件を起こす人そのものが救われるべき人なのかもしれません。

あと「出会い」って、僕らが思っている以上に大きな意味をもっていると思います。(今度この点についてはじっくり語ってみたいですね)。

環境というと、どこか自分を越えた力を感じてしまいます。やまさんの師匠との出会いも、やっぱり偶然(=運命)であり、自分の意志を越えた力によって実現したものだと思います。

自分の力を超えたものへの信頼って、どうやったら身につくんでしょうね!?

やまさんの立場にたつと、愛を学ぶことは可能!ということになりそうですね。(残念ながら僕はまだこの問いの答えをもちあわせていません、、、)
やま
まいど!
「気持ちの解放」僕は恋愛交差点にもかさなりますが、自信と環境だと思います。今世間を騒がせている事件などは、素人考えですが「自信と環境」が整ってないと思うんですよ。あと人には必ず出会いがあります。(別れもあるけど)その出会いを大事にできるか?僕は今のオヤジ(師匠)に出会い仕事柄よく言われます。「待つのも仕事、休むのも仕事」きっと「内と外」ではないですが、仕事の時間も長いし、知らず知らずのうちに、自分をコントロールできるようになったと思います。keiさんが言う愛を教えることが出来るか?愛を教える前に大変だと思いますが、まず環境をもし整えてあげれば、その後に自信がくっついてくるとおもいますよ。これは不登校問題にもにてますよね。あと父親とは今は仲良しですよ。許すも許さないも今は、自信と環境があります。オノロケですけど愛する奥様がいます。前向きに生きてい
ます。自慢ですが、今そこに至るまではすごく頑張ってきたんですよ!しつこいですが「自信と環境」あと「出会い」!
kei
こんばんわ!

コメントしずらい記事へのコメントありがとうございます(この記事、何人かの人にとてもコメントしずらいと指摘されました・・・汗)

小さいころの「居場所」って、実はとても大切かもしれませんね。親から愛を受けなくとも、別の場所で自分を必要としてくれる人がいたら、生きるために必要な愛情は満たされるのかも。

居場所と同時に、「友人」の存在も愛を考える上で重要なのかも。でも、親や身近な人から愛を受けられなかった人は、友人を作るのもたいへんな労力を使うような気がします。(愛を受けていない人は、根本的な愛情の感覚を学んでいないので、なかなか他者を信じることがむずかしい・・・)

辛そうだなぁと思う人は、表向きの顔をすごく良く作っている人です。僕は第一印象なんてどーでもいいし、嫌われたってOK!と開き直っていますが、愛を求めつつ愛を学んでいない人は、一生懸命「顔」を作っている気がします。(簡単に言えば、「外面」ってことになるんでしょうか)

やまさんがおっしゃるように、「一人で気持ちを押し殺す」人が一番辛いんだと思います。孤独ですし、気持ちを抑えるのに必死ですし。どうしたら「気持ちの解放」をすることができるんでしょうかね?? 

あと少し聞きづらいですが、やまさんはお父様のことを許していますか? もし許しているとしたら、どういうきっかけで許すことができるようになりましたか? 
やま
文章にするのは難しいですね。
僕の親父は、実は酒乱で子供のころは散々でした。子供相手にここまでやるかというぐらいやられました。今では痩せていますが当時はちびデブ。学校でもからかわれ(今では信じられないでしょうが)でも僕には居場所がありました。近所には隣のにぃちゃん、僕をしたう弟たち。子供なりに多分成長したのかな?なんて、今はおもってます。今なんで昭和の映画がはやっているのか?昔はよかった!なんて思ってるんですね。僕たちも子供のころは、「今の若いもんは」ってよく言われたけど、今僕たちも
同じ現実にぶちあたってて、多分親父のころはそれでいいけど今は無理、まず事件を起こす人たちは、友達もしくは話せる人がいないんじゃないのかなとおもいます。一人で気持ちを押し殺すから弱い者に暴力てきになる(いじけの延長ですよ)これは僕たちにはどうしようもない個人の問題だから非常に難しいです。立ち直るきっかけを自分で探すしか。
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「哲学と思想と人間学」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事