われわれは愛することを学ぶことができるのか?
愛することは人間に限らず、サルやチンパンジーなどにおいても見てとることができる。動物園で母サルが子ザルを抱いて必死に外敵から子を守ろうとする姿を見ていると、愛することは人間だけに備わっているものではなのだ、と思い知らされる。また、ツバメの求愛活動を見ていると、パートナー選びが本能的に得られているような気分にさせられる。
しかし、人間社会を眺めていると、愛することはとても難しいことのように思えてくる。母が子を殺す事件や、恋愛をきっかけにして相手を殺したり、相手の自尊心を根こそぎ奪い取ってしまったりするケースを多々みかける。われわれ人間にとって、愛することは本能的に獲得されている自明のことではなく、学ばなければ得られないようなことだと思えてくる。
特に幼児期に親から愛されて育ってきたか、という自分の力ではどうすることもできない事実が、その人の後の愛する行為に強い影響を与えているように見える。親からたっぷりと愛情をもって育てられた子は、やはり正しく他人を愛せるようになるし、逆に、親から愛を受けずに育った子は、愛することを学ぶことができず、愛の不足を常に感じたり、偏った愛し方をしたり、過剰な愛を相手に求めたりする傾向が強くなる。親に愛された人と、親に愛されないで育った人との間には、(目には見えないが)相容れない深い溝があるように思えてならない。
ここで重要なのは、愛することに長けている人は、その人が愛情深い善人だから愛する能力をもっているのではなく、たまたま愛された家庭に生まれたから、根本的に愛するということがどういうことなのかを(偶然にも)体験的に知っている、ということである。このことを前提とするならば、あり余る愛を受けて育ってきた人間は、愛を受けずに育ってきた人間のことを見下すことは許されないだろう。愛を受けずに育ってきた人間は、その人自身に愛する能力が根本的に欠けていたからではなく、たまたま愛することを学ばなかった親の下に生まれてきただけなのだ。
このことを念頭において、次のように問うてみたい。愛することを学ばなかった人は、新たに愛することを学ぶことができるのか、と。つまり、幼児期に親に愛されずに育ってきてしまった人は、後に愛することの具体的な内容を知ること、体得することは可能なのか、と。
発達心理学では、「臨界期」や「レディネス」といった概念がある。これらは、どちらもある時期に何かを獲得することが可能な時期や状態を指している。逆に言えば、その時期や状態を逃すと、後に獲得することができないような事態を指している。われわれ人間にとって、愛することは、幼児期に愛されるという経験をしなければ獲得できないような能力なのだろうか。それとも、たとえ幼児期に愛された経験がなくとも、何らかの仕方で学ぶことが可能な能力なのだろうか。
愛することを学んでいない人は、(特定の時期に)深く愛された経験がないゆえに、愛されることを強く欲する傾向もある。彼らは、愛する心をもっていないのではなく、愛する心を知らないのである。そして、愛する心を知らないゆえに、そのことに深く苦しんでいるのである。お金がないこと、つまり物質的な貧困もとても苦しいことだが、愛がないこと、つまり精神的な貧困もとてもとても苦しいことなのだ。
凶悪な殺人や母子の悲劇などを見ていると、どれも「貧困」が原因となっている。物理的な貧困と精神的な貧困が、人を苦しめ、人を窮地に追い込むのである。当然、物理的な貧困と精神的な貧困が重なれば、二重の貧困が人を苦しめ、絶望へと向かわせしめるのである。とある事件では、離婚と失業という二重苦が母を襲い、愛するわが子を殺めてしまった。子を骨の髄から愛することが可能な母という存在者も、物質的な貧困と精神的な貧困に苦しめば、最も愛すべき子を殺めてしまうのである。
では、その母親はなぜ離婚と失業という二重苦を背負うことになってしまったのか。一概には言えないが、やはりパートナー選びに失敗していることがこの苦しみの基になっているように思える。パートナー選びは、恋愛、結婚という若年成人期の二大イベントである。つまり、中高生の頃から始まる恋愛経験が基となって、上の二重苦が引き起こされている。家族の悲劇、子の悲劇は、親の恋愛経験からもう既に幕を開けているのである。
その親の恋愛経験は、やはりその親の幼児期の<愛される経験>に基づいている。愛されて育ってこなかった人の恋愛経験と愛されて育ってきた人の恋愛経験とでは全く異なっているのではないか。つまり、愛することを学んでいる人と愛することを学んでいない人とでは、恋愛経験の質が全く異なっているのではないか。
とある母親Aさんの話(若干デフォルメします)。
Aさんは今子育てに苦しんでいる。Aさんは幼少期に実の両親にあまりかまってもらえず、寂しい幼少期を過ごした。愛情の痕跡である写真やフォトアルバムもない。そんなAさんは高校生の時期に男性にはまり、様々な男と交際を続ける。もちろんお年ごろとあって、性的な交際も積極的に行っていく。そして、十代の終わり頃に妊娠が発覚。しかし、多数の男性と交際をしていたために、父親が誰なのかが(Aさんには)特定できなかった。DNA鑑定などを行うほどの余裕もなく、Aさんはシングルマザーとなってしまう。そんなAさんは必死に我が子を育てようと努力する。根が真面目なのだろう、我が子だけは何が何でも守ろうと必死になって子育てをしている。けれど、Aさんには現在、Aさんを最も愛してくれるパートナーがおらず、Aさんの親の援助もない。そもそも父親(Aさんの相手)の経済的基盤が存在せず、(子育てをする以前から)若いAさんは孤独に一人で子育てをしなければならない状況にあったのだ。パートナーからの愛もなく、親からの愛もなく、当然経済的にも厳しい状況もあって、とうとうAさんは精神的に追いつめられ、精神的な病いを患ってしまった。精神的な貧困と物理的な貧困から、Aさんは病いに苦しみ、子育てに苦しんでいる。現在もなお・・・
この話からも分かるように、家庭の問題や子育ての問題には、親の恋愛経験や恋愛観が大きくかかわっているのだ。愛することを学んでいる人はきっとパートナー選びでも失敗しないであろうし、たとえ失敗したとしても、二度目の恋愛で愛を知っている人を見つけ出すだろう(欧州の離婚経験をもつ知人らは、二度目の結婚で穏やかで堅実なパートナー選びに成功している)。だが、愛することを学んでいない人は、そもそも愛することがどういうことかを知らないゆえに、数度にわたって失敗を重ねる(場合が多々ある)。
われわれはいかにして愛することを学ぶのか。いや、それ以前にわれわれは、愛することを学ぶことは可能なのか。もし愛することを学ぶことが可能ならば、どのようにして愛することを学べばよいのか。反対の立場からすれば、どのようにしたら人に愛することを教えることは可能なのか。これは、愛する能力をますます欠きつつある現代人全員にとって重要な問いのように思う。愛することを決して軽視してはならないと思う。
→「恋愛交差点」に続く
*某講義の講義メモです。今年の前半は「愛すること」を少しテーマにして考えてみようかな、と思っています。
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