2006年に、僕が訳したカフカの「オドラデク」の文章が出てきました。
タイトルは、
カフカ著「父の気がかり」
です。
2006年というと、まだ269gブログをやっていた頃だ、、、
当時のブログに、この記事をupしたのかは不明ですが、、、
せっかく見つかったので、ここに上げておきます。
懐かしいなぁ、、、
父の気がかり
カフカ
ある人々は、オドラデクという言葉はスラブ語に由来している、という。彼らは、この事実に基づいて、この語の造りを検証しようとしている。だが、別の人々は、このオドラデクという語は、ドイツ語に由来していて、ただスラブ語に影響を受けているだけだ、と考えている。しかし、どちらの解釈もはっきりしておらず、当然ながら、どちらも正しく言い当てていないという印象さえうかがわせる。それというのも、とりわけ人は、この言葉の意味をこの二つの解釈から見出すことができないからである。
もし実際にオドラデクという名のコイツが存在しないなら、当然、誰もこんな研究に取り組んだりはしないだろう。コイツは、さしあたって、平べったくて、星のような形をしている糸巻きのように見えるのだが、実際のところ、糸でぐるぐる巻きにされているようにも見える。それどころか、単に古くてボロボロの糸くずが結び合ったもののようでもあるし、様々な種類や色の糸が相互に絡み合った糸くずのようでもある。ところが、ただの糸くずなのではなく、その星の中心から、小さな横向きの棒が突き出ているのだ。そして、この小さな棒には、もう一つの小さな棒が直角に組み合わされている。一方で、この二つ目の棒の助けを借り、他方で、放射状に広がった星の角の一つを使って、まるで二つの足のようにして、全体としてよくまとまっているオドラデクは、まっすぐに立つことができるのだ。
人々は、このヘンテコリンなものがかつては使える形をしていて、今は単に壊れてしまっているのだ、と信じたい気持ちになるかもしれない。しかし、それは事実ではないようである。少なくとも、それを示す手がかりがないのである。つまり、何か使えるようなものであることを示す糸口やその破損部分が見られないのである。全体としては、確かに無意味に見える。だが、それなりの仕方でまとまっている。ついでに、オドラデクの細かい所については、詳しく述べることができない。というのも、このオドラデクは、異常なほどよく動き、捕まえることができないからである。
コイツは、かわるがわる、屋根裏にいたり、階段にいたり、廊下にいたり、玄関にいたりする。ときどき、何ヶ月にもわたって、ヤツがみられないこともある。ヤツは完全に誰かの家に移住してしまっているからだ。だがヤツは必ず再びわれわれの家に戻ってくる。時折、人が扉を開き、ヤツが兆度階段の手すりにもたれかかっているとき、人はこいつに話しかけようとする気になる。もちろん、彼に難しい質問を出してはダメで、彼を子供のように扱うのである‐とても小さいのですぐにそのような気になるものであるが‐。「君の名前は何ていうの?」と、人はヤツに問う。ヤツは「オドラデク」と答える。「で、どこに住んでいるの?」と、人はヤツに問う。「とくに決まった家はないよ」と言って笑う。しかしその笑い声は、胃のない人間が出すような笑い声にすぎない。この笑い声は、落ち葉がカサカサと音を立てているように聞こえる。この笑い声と共に、たいていこの会話は終わる。ただし、こうした応答さえ、常にあるわけではない。しばしばヤツは、木のように長い間黙ってしまうのだ。ヤツは木のようにも見える。
無駄だと分かっているが、私は、ヤツに何が起こるのだろうと考えこんでしまう。そもそもコイツは死ぬのだろうか? 死ぬ者すべては、死ぬ前に、或る種の目標を持ってしまっているし、或る種の活動もしてしまっている。そして、そういう目標や活動に、身をすりへらしている。オドラデクの場合はそうではないのである。いつの日か、コイツは、私の子どもや私の子どもの子どもの足元で、糸くずを引きずりながら、階段を転げ落ちて、喚くのだろうか? オドラデクは絶対に誰かを害したりはしない。だが、ヤツが私よりもずっと長く生きるに違いないと思うと、私はいっそう辛く胸苦しいのである。