Dr.keiの研究室2-Contemplation of the B.L.U.E-

2006年に僕が書いた「恋愛論」の原稿を発見!

 

2006年に僕が書いた「恋愛論」の原稿が、偶然出てきました。

今読むと、「青いなぁ」と思いますけど、、、

でも、13年前の僕が書いたものとして、、、。

31歳の時の僕の恋愛論か、、、(;'∀')

修正なしで、ここに掲載しておきます!!

13年前の文章なので、ノークレームでよろしくお願いいたします。

では、いってみましょう!


「恋愛」は、万国共通の言語の一つである。また、「恋愛」は、誰にでも語れて、誰にとっても重要な言語の一つである。海外の人と語る時、「恋愛」の話は、どんな国の人でも、近づきやすく、誰にでも語れてしまう不思議な現象である。

また、恋愛は、国を超えるだけでなく、世代をも超える。もちろん、小さい子どもには、「恋愛」は語れないが、小学生の中には、「好きな子はいるの?」と聞くと、ほんのり顔を赤らめる子もいるし、「○○クンが好き」と教えてくれる子もいる。

中高生の場合、「恋愛」は、大問題である。好きな異性を思い浮かべるだけで、ドキドキしてしまうのは、彼らの特権かもしれない。「恋をして眠れない夜」というのも、思春期の特権かもしれない。また、相手を完全に美化してしまう『結晶作用』(スタンダール)も、この時期から始まることが多い。「あの人はスポーツができるから、きっと素敵な人に違いない」、とか、「あの人はとても頭がいいから、きっとやさしいに違いない」、とか。

大学生たちにとっては、まさに「恋愛」は、死活問題。恋人がいてもいなくても、「恋愛」は、自分にとって、一大事なのである。また、この時期に、多くの若者が、「恋愛の失敗」を経験する。一生消えないかもしれない傷を受ける人もいる。けれど、神谷美恵子もいっているように、悲劇的な「恋愛」であったとしても、「恋愛」は、人の心を大きく成長させてくれる。人の厚みを作ってくれる。「自分の殻」を取り払ってくれる。

ヤングアダルトたちにとっては、さらに「恋愛」が重要になる。しかし、また同時に、彼らにとって、「恋愛」は、「結婚」と切り離せなくなる。ヤングアダルトにとって、「恋愛」は、自分の将来の選択(「誰と結婚するべきか」)にかかわっている。「恋愛」は、もはや甘酸っぱいものではなく、シビアな現実となる。「結婚」を終えたアダルトは、一見、「恋愛」を終えたかのように思われる。だが、結婚相手との「恋愛生活」は続く-結婚も「恋愛」と同義であると言えなくもない-。毎日が「恋愛の日々」なのだ。それは、もはや切なく甘い夢物語ではない。「恋愛」は、「生活」にとって代わる。これまで経験したことの無い「新しい恋愛」が、「結婚」という形式なのだ。ゆえに、例えば、「新婚生活」も、やはり「恋愛の生活」なのだ(こういう言い方に違和感はあるが・・・)。また、持続的で平坦な恋愛生活に飽き飽きして、別の異性に「恋愛」の矛先が向かう場合もある。多かれ少なかれ、既婚の人も、「別の異性」に興味を抱くことはある。遠藤周作の『結婚』を持ち出すまでも無く、既婚者も、「恋愛」をしてしまう。「不倫」は、まさに、「新たな恋愛」と言って過言ではない。一番、厳しいのが、この時代なのかもしれない。「同じ毎日の繰り返し」。かつての「恋心」は「現実」の影に潜んでしまい、相手に対して、「飽き飽き」してしまう。それが人間の悲しいサガなのかもしれない。だが、そういう倦怠期は、「恋愛」の試練の時期と考えられる。「恋愛」は、とても持続することが難しいことであり、ほんの些細なことで、砂上の楼閣のように、もろく崩れてしまう。クールに見れば、「離婚」は、「恋愛の失敗」と言えなくもない。恋愛は、自然科学の対象ではなく、実践学なのだ。実践学である以上、失敗は必ず生じる。「選択のミス」も生じる。「変化」もしてしまう。だから、夫婦の「恋愛生活」が円満にいく、というのは、実は、非常に奇跡的なことなのではないだろうか。むしろ、夫婦の「恋愛生活」は、常に、リスクの高いものであり、冷たく、厳しく、残酷なのだ。常に、グラグラしていて、少し油断するだけで、もろく崩れてしまう。「熟年離婚」なる現象も、やはり、「恋愛生活の難しさ」を教えてくれる教材なのだ。

さらに、老人の恋愛も、小説の主題となるくらいに、よく知られた事実であろう。お年寄りは恋愛をしない、などという俗説は、老人ホームや老人クラブに行けば、すぐに「大嘘」と分かるだろう。また、夫婦の「恋愛関係」も、ずっと続く。僕の祖父母は、90歳くらいになって、新たな人間関係が生まれた。祖母に対する祖父の対応が見事に変わったのだ。また、明治生まれのMさんは、キムタクが大好きである。だが、逆に、スザーネ・シュトローバッハが教えてくれているように、100歳になって、離婚を希望する夫婦もいる。

このように、「恋愛」は、人間の一生に、深くかかわっている。どのような「恋愛」をするかは、人それぞれだろう。どうしようもない人に恋してしまうこともある。また、人がいいと言った人に恋してしまう人もいる。なんとなく付き合ったのに、いつの間にか必要不可欠でかけがえのない存在になっていたりする人もいる。胸のときめきに忠実な人もいれば、理性的で合理的な恋愛を楽しむ人もいる。また、愛されることに必死になる人もいれば、愛することを静かに実践し続ける深い人もいる。

どんな恋愛をするかは、自分の意思では決められない。その他に、出会いや偶然性やタイミングなど、自分の力ではどうすることもできない力が、そこに働いているのだ。そういう自力を超えたものに影響を受けながら、そのつど、「決心」しなければならない。その人の「顔」、「学歴」、「収入」、「ファッション」、「趣味」など、いろんな条件があるが、どの条件を取るにせよ、「決心」しなければならない。これは、本当に難しいことで、「失敗の無い選択」などないだろう。

このように、恋愛は、国を超えるし、世代も超える。さらに、恋愛は、障害の有無さえも超える。傷害を持っている人との会話の中でも、「恋愛」は、中心のテーマである。僕の友人の女性は、「私は障害を持っているけど、恋をしてもいいのかな」と、僕に真剣に相談してきた。あるいは、「障害者は健常者と恋愛することはできるの?」と質問されたこともあった。また、双方が重度の障害を持っているにもかかわらず、深い愛を築きあげて、静かに仲良く暮らしている夫婦もたくさんいる。「恋愛」においては、「傷害の有無」も超えてしまうし、真のパートナーとして「恋愛」を議論することもできる。また、彼らから、多くのことを教えてもらった。

僕らは、もっともっと、「恋愛」を語ってもいいのではないだろうか? 「恋愛」は、きっと、永遠に答えのでない「謎」の一つである。また、どこからでも語れるとらえどころのない現象である。「恋愛」は、「アガペー」かもしれないし、「トキメキ」かもしれないし、「信頼」かもしれないし、「フィーリング」かもしれないし、「本能」かもしれないし、「耐えること」かもしれないし、「盲目」かもしれないし、「開放」かもしれないし、「自己疎外」かもしれないし、「結婚の練習」かもしれない。すべてが、「かもしれない」なのだ。

だが、いずれにしても、エーリッヒ・フロムが訴えるように、僕らは、「愛される技術」を学ぶのではなく、「愛する技術」、「愛の技術の前提条件」を学ぶべきだろう。エーリッヒ・フロムによると、愛の技術の前提条件は、①「それをやめると物足りなく感じられるような規律を持つこと」、②「何もせず、一人でじっとしていられるようになること、そして自分自身に対して敏感になること」(これは、「愛することができるようになるための必須条件」と彼は言う)、③「何度もあきらめないで、自分にとって大事なことを追求しつづけること」(忍耐力)、の三つである。このことから見えてくるのは、「素敵な恋愛をしようとするならば、まず自分自身を鍛えなければならない」、ということだ。これは、僕自身の実感とも合致する。

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「恋愛と性と結婚」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事