今の若い学生たちに、「酒鬼薔薇聖斗」の名を挙げても、誰も知らない。
1997年に起こった事件だから、無理もない。もう17年も前の話。
すっかり風化してしまった。
けど、僕は忘れない。
酒鬼薔薇聖斗も、今は30歳になっているのかな…
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井垣康弘さんは、弁護士の方で、少年犯罪を担当してきた方。
酒鬼薔薇聖斗も、彼が担当した。
事件当時は、その事件性から、彼の「猟奇性」ばかりが注目された。
が、この10月の朝日新聞で、彼が、親からかなり厳しい「スパルタ教育」を受けていたことを明らかにしている。
http://www.asahi.com/articles/DA3S11382563.html
その中身については、もっと知る必要はあるけど、だいたいは察しがつく。
酒鬼薔薇聖斗は、親に愛されることなく、厳しい「しつけ」が日常的に繰り返されていた。
おそらくは、「せっかん」もあったんだろう。
日本人のしつけは、「体罰」がつきもので、子どもに手をあげる親は決して少なくない。
体罰はいかなるときも僕は認めないけど、愛情があれば、また、いいことをしたときにきちんと褒められる親の体罰なら、まだ、救われる。
けど、酒鬼薔薇聖斗の場合は、そうではなかったのだろう。
いいことをしても褒められず、悪いことをしたら厳しくしつけられる。
井垣さんはこう言っている。
「年月を経たので話しますが、親がスパルタ教育をしないで普通に育てていれば切羽詰った彼が相談していた可能性がありました。」
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ときおり、僕は、酒鬼薔薇聖斗を思い出す。
思い出すようにしている。
「彼はちゃんと立ち直ったのだろうか」
「二度と、ああいうことを起こさない大人になったのだろうか」
と。
失った命は帰ってこない。だから、彼の罪は、一生にわたって消えることはない。
それでも、彼は生きなければならない。法的な手続きを経て、社会に復帰したのだから。
過ちは消えずとも、彼もまた、一人の人間として、社会の中で生きていく権利をもつ。
(大小を問わず、過ちを犯さない人間はいない。過ちを犯さないのは絶対者のみ)
井垣さんの「スパルタ教育」という言葉を見て、「そうか、、、」と思った。
酒鬼薔薇もまた、親の愛情に欠けた子どもだったんだ、と。そして、日常に「暴力」があったんだ、と。
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先日、佐世保で15歳の少女が友だちを殺して、バラバラにする、という事件があった。
報道としては、酒鬼薔薇の時と、あまり変わらないパターンだった。
しばらくして、その女の子のお父さんは自殺した。
http://bylines.news.yahoo.co.jp/shinodahiroyuki/20141007-00039772/
親に愛されずに育ち、そして事件を起こし、そして父親が自殺する。
この少女に、「未来」はあるのだろうか。「希望」は見出せるのだろうか。
彼女はまだ15歳だ。「子ども」である。
だが、世間は、そんな15歳の子どもを憎悪した。
誰も彼女をかばう声を上げなかった。井垣はそれを指摘する。
「今回の佐世保事件では、15歳の少女が自分の人生を捨てる決心をせざるを得ないような状況に追い込まれていたことに心から同情します。しかし、社会では彼女に対して、『かわいそう』という声が全く出ません。凶悪事件を起こしても子どもは保護されて生きる機会を与えられることを知っている世間は、被害者と同じ視点で彼女を加害者としてだけ見ます。」
少し井垣は言いすぎ、という面はなくはないが、少なくともメディアで、彼女を擁護する動きはなかった。(ただし、一般の人でも、「かわいそう」と思う人は想像以上に多かったと思う)
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それでも、子どもは、人生をやり直すことができる。
それが、井垣のメッセージだった。
僕もそう思う。ただ、可能ならば、事件を起こす前に、救われてほしかった。
日本人は、子育て=しつけと思う人が実に多い。
だけど、こういう事件が教えてくれるのは、厳しいしつけ=スパルタ教育をしていると、子どもは壊れてしまう、ということだ。
しつけで、子どもは育たない。
極論だけれど、子どもにしつけはいらない。何もしなくていい。
ただ、そばにいて、一緒にテレビでも見て、けらけら笑うだけでいい。
変なことをするくらいなら、何もしないで、一緒にゲームでもすればいい。
そして、やってはいけないことをしたときだけ、怒ればいい。
「ダメだよ」、と言えばいい。
あとは、子どもが勝手に、親の振る舞いや態度から、学んでいく。
親が、ちゃんと「ありがとう」と言えれば、子どもは黙っていても、「ありがとう」という。
親が、ちゃんと「ごめんなさい」と言えれば、子どもは勝手に「ごめんなさい」という。
ちゃんと生きている大人が親なら、黙っていても、子は育つ。
親が読書家なら、「本を読め」と一言も言わなくても、本を読むようになる。
親が社会に参加する大人なら、子どもは知らず知らずのうちに社会に参加する。
いつの時代であっても、子どもは親の背中を見て育つ。
できるなら、いい背中を見せてあげてほしい。
…結局は、いらぬしつけなど、なくてよい。
親が一人の人間として、手本を見せられるかどうか。
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斎藤喜博は、授業の責任はすべて教師にある、と言った。
これをパラフレーズするとすれば、「子育ての責任はすべて親にある」。
親の責任とは、しつけを厳しくすることではない。
子どもに途方もない量の愛情を与え続けることである。
時に叱ることはあっていい。だけど、それは日々、愛情を与えていることが前提だ。
それは、もう、とにかく根気のいる仕事だ。
だから、すべての親が、よゆうをもって、寛大なこころをもっていなければいけない。
社会は、親から、そういうよゆうや寛大さを奪ってはならない。
どんな人間も、よゆうがなくなれば、心が狭くなる。
小さいことで、いちいち殺気立つようになる。
もう、この国は、ありとあらゆる人が殺気立ってる。
まずは、COOL DOWNかな、とも。
それを、戦争やテロではなく、地道な努力と活動によってやれることを願う。
子どもに名前を付ける時に、不幸を願う親はいない。
みんな、最初は、子どもの幸せを願っていた。
けれど、子育てという長征の中で、そのことを忘れていく。
メメント。。。