桑名の名店「らぁめん登里勝」で美味しいラーメン二杯を食べて、
四日市に行き、名店「鉢ノ葦葉」で人気のラーメン&ご飯を食べて、
そのまま、赤堀駅まで徒歩で向かいました。
赤堀駅は、なんとも風情のあるローカルな駅でした。
この赤堀駅を走るのは、
四日市あすなろう鉄道
です!
この電車は、僕の記憶の中にはまったくありません。
両親が撮ってくれた写真の中にも出てきません。
ただ、亡き父がこの当時、通勤で使っていた電車だ、と聞いていまして。
僕が赤ん坊の時、父は、この電車に乗って、通勤していたんだなぁって…。
これもまた、僕のルーツとなるかも、と思い、乗ってみたかったんです。
電車がやってきました。
「こ、これが、亡き父が乗っていたであろう、あすなろう鉄道か…」
なんとも言えない気持ちになりました。
…
っていうか、なんだ、この電車は?!?!
通常の電車よりかなり小さい電車ですぞ、、、💦
タテもヨコも、通常の電車のみならず、路面電車よりも小さくないか?!
狭軌である国内の在来線の線路幅が1067mmなのに対し、こちらは762mmの特殊狭軌線です。
別名ではナローゲージと呼ばれており、鉄道会社の『あすなろう(narrow)』はここから名づけられています。
narrowっていうのは、「狭い」っていう意味ですよね。
線路幅が狭い、という特徴をもつのが「あすなろう鉄道」なんですね。
うちの父もかつて、「すごく小さくて狭い電車だった」と言ってました。
そうか、こんなに狭くてかわいい電車だったのか、、、と。
ちなみに、同じく三重の【三岐鉄道北勢線】の線路幅も同じ「762mm」になっています。
このように、バスよりも横幅が狭いのが特徴ですね。
だって、座席、2列しかないんですよ、、、💦
バスでも、横に4人座れるじゃないですか?!
この電車は、2列しか座席がないんです。
この狭さ、薄さに、感動と衝撃を覚えました。
この電車に乗って、我が父は、通勤してたってことですよね。
でも、僕が生まれてしばらくして車を買ったので、その後は車通勤だったはず。
赤堀駅から、十数分で、最終駅に到着です。
見てください、このかわいい電車の姿を!!
タテもヨコもホントにちいちゃくてかわいいんです💓
かつては、このサイズの電車も全国津々浦々にあったのかな?!
今は、もうホント、こういうローカルな電車って消えるのみだからなぁ、、、
あ、そういえば、宇都宮駅に新たな路面電車ができたっけ?!?!
電車の姿かたちも、時代に応じて変化していくのかも、ですね。
こちらが、最終駅、
西日野駅
です。
今は、この西日野駅で終わってますが、かつては違いました。
僕が赤ちゃんの頃は、更に先の駅があったんです。
その証拠が、駅前にありました。
西日野駅の次の駅は、「室山駅」で、最後の駅が「伊勢八王子駅」でした。
当時の駅の写真も展示されていました。
これが、元室山駅ですね。
こんな風情のある駅だったんですね。
僕が生まれた1975年当時は、まだ元気にここを走っていたんでしょう。
我が父は、最終駅の伊勢八王子駅から乗っていたんだと思われます。
この伊勢八王子駅から歩いて15分くらいのところに、僕の人生初の「住み家」があります。
このバスに乗って、生まれ故郷の町に向かいます。
このバスのシルエット?デザイン?色のコントラスト?は朧げに覚えているんです。
その目的地は、「笹川団地」です。
この笹川団地が、僕の本当の故郷となります。
ほぼ記憶にはないですが、写真には残っています。
現在の笹川団地の最寄りの停留所は、『公団住宅前』です。
ここを降りて、少し歩いたところに、僕の人生初の住居があります。
これが、48年前の笹川団地です。
48年後の今、笹川団地はどうなっているんだろう、、、
実は、ず~~~っと気になっていたんです。
おそらく、これが、僕が住んでいた笹川団地21号棟からの景色だと思います。
この写真の中央上部に見えるのが、「郵便局」だったと思います。
あと、「百五銀行」もこの辺りにあったはず。
百五銀行の帰りに、父に抱きかかえられて道路を渡る僕。
この「ひゃくごぎんこう」という言葉に、僕は郷愁を感じるんです。
小さい僕も、きっと、「ひゃくごぎんこー」って言ってたはず。
あとは、「さんびーむ」という言葉。
この辺の言葉も、全部、僕に固有な「ルーツ」を示すワードなんですよね。
…
これが、今どうなっているのか…。
見えてきました…。
笹川団地が、、、😢😢
こんな風景だったよな、、って思いながら、、、
ありました。笹川団地21号棟!!
ここが、僕の人生初となる「住み家」です。
ここで、赤ちゃんだった僕は、生活して暮らしていたんですね。
もちろん、物心なんてつくはるか昔のことだから、覚えてませんが…
この21号棟が、僕が最初に暮らした場所。トポス。
おそらく、今も物質的には、僕が赤ちゃんだった部屋が残っているのでしょう。
残念ながら、どこの部屋かまでは分かりませんでしたが、、、💦
きっと、この写真のどこかの部屋が、、、
僕の人生初めての「おうち」「いえ」だったんでしょう。
わずか4年ほどしかいなかったので、全くほぼ何も覚えていませんが…💦
今の笹川団地は、「外国人」「日系人」の多く集まるエリアになっています。
ブラジルからやってきた人が多く、スペイン語やポルトガル語の表記もあります。
日系ブラジル人の話も昔から興味があって、、、
僕の故郷は今や、グローバルな団地になっていたんですね。
この動画で、この団地のグローバル性について確認することができます。
三重県内では、最も多くの日系人ファミリーが過ごしているのかな?!、と。
そして、驚くべきは、、、
上にもちらっと書きました、
サンビーム〈Sun Beam〉
がまだあったんです!!!
それから、思い出の「百五銀行」の文字も見えます!!
当時の百五銀行の建物は、なかったかな、、、💦
サンビームの裏手には、日系人向けの呑み屋や飲食店が並んでいました。
でも、郵便局は、まだありました!
この建物、間違いなく、かつての僕の写真に入っていました。
また、その後ろの団地も、同じ形のまま、残っていました。
うん、間違いなく、この写真のままだ、、、
48年過ぎても、この郵便局と後ろの団地は変わってなかった、、、
こちらも、うっすらと記憶があるようなないような、、、
僕が、そのまま四日市で暮らしていたら、通うことになっていた小学校。
この小学校、もう、廃校になっている様子でした。
誰もいなくて、草も生い茂っていました。
四日市市立笹川西小学校。
何かが違えば、ここが僕の母校になっていたのかな?!
廃校になっちゃったのかな??
平成31年3月31日 閉校しました。
平成31年4月 1日 笹川西小学校と笹川東小学校が統合し、四日市市立笹川小学校として開校しました。
とのことです。
西小と東小が統合したんですね。
通っていた学校じゃないので、感情的に何かが起こるわけではないですが、、、
「そっかー」って。。。
…
最後、サンビームあたりで、85歳のおばあちゃんとお話できました。
かつては、僕と同じ「笹川団地」に住んでいたみたいです。
でも、この笹川団地の家賃は(高齢者には)高くて、県営?市営?の団地に引っ越したんですって。
そのずっと昔から、サンビームはサンビームという名前だった、という証言も得ました。
かつては、多くの若いファミリー層がいっぱいいた、とも。
今から40年くらい前といえば、そのおばあちゃんが45歳だった頃、、、
もしかしたら、このおばあちゃんとも団地内で会っていたかもしれないんだなぁ、、、
…と思うと、すこし、じーんっときましたね。
***
出自とは何か。
何を知れば、出自を知ったと言えるのか。
産まれた病院と、そして、赤ちゃんの時に初めて暮らした家、住み家。
この二つは、原点やルーツを知る上で欠かせない情報だなって思いました。
その後、自分がどこへ行ったのか、それも知りたいところですが、、、
でも、まずは、この二つは絶対だろうなぁって思いました。
僕の場合、産まれた病院はもう「廃業」になっていて、当時の様子は聴けません。
でも、生まれて初めて過ごした場所(笹川団地)に行けば、何かしらの「手がかり」とか「情報」は得ることができます。出自(Herkunft=origin)は、親の名前とか親の情報とかだけではないのかもな、と改めて思いました。
親に関して言えば、結局のところ、どんな人間だったかって、分からないままなんですよね。たとえ、長年一緒に暮らしたとしても、、、。
知り得る情報の中に、「親の名前」とか「親の出生地」とかもあっていいけど、「自分」の問題として考えると、それ以上に、自分が生まれた場所、自分が赤ちゃんの時に暮らしていた場所の情報こそ、大事なんじゃないかなって。
そんなことを考えました。