Dr.keiの研究室2-Contemplation of the B.L.U.E-

■ローマの教育■

 『学校の歴史』のある一節です。

ローマ

古代ローマ人の場合、われわれはすでに古代時代の学校が存在したという前提から出発することができる。たとえ-裕福の家庭において-例えば剣の使い方、泳ぎ方、乗馬術、農業、その他あらゆる戦争農民(kriegerischen Bauernvolk)の生活に必要なもの、さらにはローマ史、読み書き、計算など、成長中の男の子が知っておかなければならないことやできなければならないことを、理想的な形で、父親から伝授されていたにしても、だ。最後に挙げたローマ史、読み書き、計算の知識は、やはり基礎教師(文章家literator又は初等教師ludi magister;練習場の教師)の下で学ばれていた。自宅で授業を受けられない下層住民層の若い男児たちも、7回目の誕生日の後、彼らのところへと通った。ギリシャの子どもには重要であった音楽や踊りは、ローマ人にとっては常に疎遠なものであった。音楽も踊りも、ひ弱なものだと受け取られていた。こうした基礎教育では、良家の息子のために、家庭教師が修辞学や医学や建築学といった様々な諸原理を授けていた高度な授業のようなものが行われていた。その後の将来の軍人や法律家や政治家になるための職業教育は、もっぱら裁判所の傍聴の実習(Praxis)や、フォーラムでの演習や、軍司令官の下での実習という形で行われていた。

ローマが(三世紀の中頃)南イタリアにあったギリシャの植民都市を制圧した後、まだ不完全だったローマの教育制度は、ギリシャ文明との出会いによって解体する。(二世紀の中頃から)ヘレニズム帝国の所有する地中海の東側がローマ帝国(Imperium Romanum)の一部になり始めた頃に、こうした解体が完全に起こった。今や、ローマは心底ギリシャ文明に魅せられてしまい、ローマの教育制度はその影響で本質的な衝動を受ける。まず、古代ローマの属州に移住したローマ人たちがギリシャのギュムナシオンに通うようになった。ローマの中心国ラティウムの裕福な家庭の人々は、ギリシャ人の家庭教師を雇った。そのほとんどが奴隷だった。彼らこそ、あのenkyklios paideiaのカリキュラムをもたらしたのだ。こうした教科は、文法学校(Grammatikschule)―文法教師(grammaticus)が率いる民間施設―でも扱われた。この学校には、11歳から12歳以上の男の子と女の子が通うことができた。ギリシャと同様に、教撲が子どもや青年たちを豊かな家から文法学校に連れていったし、さらには彼らの教育に対する責任も負った。先述した基礎学校も、遂に男の子と女の子どちらに対しても開かれた。もちろんより良い家庭の女の子に対しては、個人授業が行われていたのだが・・・ 高等教育の授業では、さしあたってそのほとんどで、ギリシャ語が使われていた。つまり、ローマの若者にとっては外国語での授業だったのだ。無論、彼らは基礎授業の中ですでにギリシャ語を習得することはできていた。その後、徐々にではあるが、ローマの作家も、修辞学の授業や文学の授業で取り上げられるようになった。アウグストゥス(ローマ帝国初代皇帝/ユリウス・カエザルの後継者)の下でようやくラテン語の授業が重視されるようになった。


こうした発展の支えとなったことは、紀元前一世紀以降ギリシャから受け継がれた教育内容を学んだローマの作家たちが大規模で受け入れられたことと、彼らの考えに合わせてその内容が再編成されたことであった。こうして、ギリシャのenkyklios paideiaから、「自由七科」と言われるローマのseptem artes liberales(セプテム・アルテス・リベラーレース:リベラルアーツ)が生まれたのだ。このリベラルアーツに関して最も重要な理論家は、ヒスパニア出身の修辞学者のマルクス・ファビウス・クインティリアヌス(AD35-95)だった。ローマ時代後期では、アエリウス・ドナトゥス(Aelius Donatus;AD4世紀の文法家)の著作、二巻にわたる「ドナトゥス文法書(Grammatiklehrbuch)」と、マルティアヌス・カペラ(Martianus Capella;)の著作が挙げられる。後者のカペラは、5世紀の前半に、アルテス(artes:アーツ)について詳細に記述している。彼はその七つの学科をそれぞれ一巻ずつにまとめて論じている。このartes liberalesは、一方でその学科がギリシャと同様に自由に生まれし者(Frei Geborenen)の特権であったがため、他方で精神的な意味でartes liberalesの人間知が開かなければならかったために、その内容的な構造を増やし、トリヴィウム(三科:Trivium:「ごく日常的な/月並みの」、「三つの道に属する」、また「基本的な」という意)と呼ばれる言語的な基本課程に区分されたのであった。この三科は、文法(音韻論と音節論、形態論、正書法)、修辞学、弁証法の三つから成り立っていた。それに続いて、幾何学、算術、音楽(の理論)、天文学の数学的-自然科学的なクァドリヴィウム(四科:Quadrivium)が登場した。しかし、多くの場合、一般的に人がより重要だと思う三科しか教えられていなかった。雄弁家(Rhetor)の学校での高等教育(höheren Studien)は15歳~16歳くらいで終了した。というのも、ローマでも-単に共和制の国家形態の下のみならず-、語ることができること(Redenkönnen)が重要な能力の一つだったからである。「レトリックの教授」という専門教育を行う高等学校の基盤までもが、69年から79年まで統治したウェスパシアヌス皇帝の時代から伝承された。これらの高等学校は、後の大学の早期の前形(Vorformen)と考えてよいだろう。こうした高等教育を考慮して、この高等教育に多大な影響を与えたアテネの哲学アカデミーを思い出してみよう。すると、すでに似たような仕方でギリシャから学んだように、われわれは全体として学校制度や教育制度の創設(Aufbau:誕生)を目前にしていることが分かるだろう。

しかし、ギリシャとは異なり、ローマ帝国の教師は高い評判を得ていた。カエサルの下、教師たちは難なく市民権を獲得した。そして、彼らは国家と密接に結びついた。かのウェスパシアヌスも、国の予算から教師たちの給与を捻出した。かくしてわれわれは、実際に国の(初等)教育制度の設立、ウェスパシアヌスの後任の下でさらにそれを推し進めた教育制度の発展、テオドシウス(379年-395年)の統治時代の発展について語ることができるようになる。まさにこのテオドシウスの時代に、キリスト教が国教となるのだが、すべての私的な授業(395年)を禁止することでそれを成し遂げたのだ。6世紀になると、帝国の分裂が起こり、ローマ帝国が公的に終焉を迎え、それと同時に、ローマの学校制度や教育制度も次第に崩壊していった。すべての非キリスト教徒を教職から(それどころかすべての公的な職務から)追放した人物こそ、ユスティニアヌス皇帝(527年-565年;*ローマ法大全の編纂者)であった。では、キリスト教徒たちはどのようにして教育や授業を独占し、どのようにして-低迷する学校制度であってにせよ-そうした仕方で自分たちの手中におさめたのだろうか。

 試訳なので、とても読みずらいですがあしからず・・・

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