とんでもない映画を見てしまった気分になった。
中国・雲南省のとある精神病院(国営)の「日常」を切り取ったドキュメンタリー映画。
この映画には、作られた筋書きや卓越な俳優の演技はない。映されているのは、中国の国営の古い精神病院のごくありふれた日常のシーンのみ。会話もほとんどなければ、解説など一つもない。ただただ、精神病院の日常が流されているだけ。
タイトルからも分かるように、「収容病棟」=収容施設の内部をありのままに描いただけの作品。全編・後編合わせて4時間近い作品で、施設の外にカメラが向かうのは一度だけ。
僕もそうだけど、「施設」というとどうしても嫌な気持ちになる。どんな施設であれ、できるなら、一生涯お世話にはなりたくはない。たとえ自分が重度の障害や病をかかえる身になったとしても、「収容施設」に入れられるのだけは勘弁願いたい。施設というのは、不自由な場所であり、規則と管理に縛られており、時として暴力があり、個人ではどうすることもできない大きな権力がそこに働き、人間を疎外する、そう思っていたし、今もそう思っている。自由のない場所、それが「施設」という場所なんだ、と。
(*その背景に、「反施設主義」みたいのがある。「脱施設化」という思想も。イリイチの時代、70年代~80年代の運動とかも。「宇都宮病院事件」は有名。「施設は悪。施設の外へ!」という発想は根強く残っている。ノーマライゼーションやインテグレーションもその流れか)
けれど、この映画に出てくる人たちは、剥き出しの自由を楽しんでいるかのように見える(というか、徐々にそう見えてくる)。男子棟なので、男だらけだけど、そこに肉体的・感覚的な人間と人間の触れ合いや抱き合いや接触がある。にぎやかで、孤独感がない。入院歴が長いために言葉をなくしたのかもしれないと思うような人もいたけれど、言葉じゃない、なんともいえない「人間関係」がそこにはあって、きっと収容病棟の外に出てしまえば、孤立してしまうような人たちが、身を寄せ合っている。
何なんだ、この違和感。というか、ギャップは、、、
他の先進諸国は、精神病院での入院期間がどんどん短くなっていて、地域福祉・地域医療の恩恵を受けながら、地域での生活が奨励されている。それはそれで歓迎すべきことなのだろう。だけど、重い精神障害を患った人が、地域に出て、この収容病棟の人たちみたいに、誰かと身を寄せ合って生きていけるのだろうか。地域に出るまではいいけれど、出た後に、彼らみたいに、自由に、大らかに、たくましく、誰かと一緒に生きていくことはできるのだろうか。
自分の自明性が崩れていくのを感じる映画だった。
もちろん、撮影されている精神病院は、何もかもが清潔な日本人にとっては耐えがたい環境の施設だった。「廃墟」とも思える、汚くて、暗くて、どこにも助けのないような空間だった。タバコの煙と汚物の悪臭が、スクリーン越しに伝わってきそうなほどだった。とても、僕には耐えられそうにない。
なのに、みんな、あっけらかんとしている。好き勝手やってる。そして、それでいて、ベッドのシーツは意外にも綺麗にされており、肝心なところはそこそこに行き届いているようにも見えた。(この病院のスタッフも、できる限りで頑張ってケアをしている、とのことだった)
日本にも、およ320万の人が精神疾患と言われている。そして、35万人の人が精神病院に入院しているという。きっと、この映画を観る前の自分なら、「早く退院できるといいのに…」と迷わずに言えていただろう。でも、この映画を通じて、そう言えなくなってくる自分がいた。
この映画のフライヤーには、「鉄格子の中―愛を、愛を、愛を!」、と書かれている。僕の目からして、この鉄格子の中は、精神疾患に苦しんでいる人たちが互いに(精神的に)支え合い、なんとか人間としての均衡を保っているように映った。病院の外に出て、自由な個人として生きるよりも、病棟の中の方がはるかに(監視されているとはいえ)自由にのびのびと生きられるのではないか、と思うほどに。
でも、本当にそうなのかは分からない。
ただ、こうしたことは、他の領域においても言えることでもある。刑務所に入った人は、刑務所の居心地のよさゆえに、犯罪を繰り返し、再び戻ってくる、という。外の世界より、刑務所の方がよっぽど幸せを感じるから、という声もある。母子生活支援施設においても、母子が入所可能な期間を最大限に活用しながら各地を転々としている利用者は多々いる、と聞く。障害児たちも、今は、普通学級ではなく、特別支援学級・特別支援学校の方を選ぶようになってきている。
これらのことから、僕らは考えざるを得ない。僕らの住む社会って、いったい何なんだ?!、と。
住みにくさ、暮らしにくさ、生きにくさを感じるのは、何もこうした特殊な状況の人たちだけでない。多くの人が感じているところのものだ。これほどまでにも、鉄格子の外の世界というのは、生きにくい場所だったのだろうか。昔を知らないからなんともいえないけど、僕を含め、琢さんの人が、そう思っているのではないだろうか。-なんて生きにくい社会なんだ!、と。
僕らの社会に、この映画で描かれるような剥き出しの愛情はどれだけあるのか。物資はともかく、彼らのように自由気ままに振舞える場所はどこにあるのか。この映画の舞台を美化する気はさらさらないけれど、それでも思う。「人間のどろどろっとした、ねっとりとした触れあいって、いいなぁ」って。
きっと、こういう世界をあまり知らない人だと、びっくりすることだらけだと思う。でも、誰も、それを咎めない。ベッドの上で排尿しても、その周囲にいる人は誰も嫌がりもしないし、怒りもしない。スルーしている。外の世界なら、すぐに誰かがかけつけ、ぐちゃぐちゃ言ってくるだろう。警察を呼ぶかもしれない。あるいは、ブチ切れるかもしれない。
この映画は、久々に見る「問題作」だと思った。監督のワン・ビンさんは、この映画で、もっていきたい結論みたいなものを一つも出してはいない。これを見た人が、どう感じるのか。
僕も、この映画を見た人がどんなことを感じるのかを、たくさん聞いてみたいなって思った。
パンフレットも買ってしまった。。。
久々にいい映画に出会えた気がしたから。
出てくる人はみんな、リアルな当事者。なんだけど、どれほど著名な俳優をもってもして、彼らに及ばないだろうな、とも思う。不思議なことに、最初は、「誰でもない人間」ばかりが映っているように見えたんだけど、時間が経つにつれて、みんなの顔を覚えていく自分がいた。気づいたら、僕は、ウー・シェンソン君や、イン・ティエンシンさんに魅了されていた。
インさんなんて、そこらの俳優よりもはるかに存在感があるし、迫力もあるし、カッコいい。
リアルなドキュメンタリーなのに、徐々に、ドキュメンタリーが映画になっていくのを感じた。出演者が、ホンモノの俳優に見えてきた。なんで、そんな風になるのかは分からない。けど、事実、そうなった。
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渋谷のイメージ・フォーラムで現在公開中です。
この映画館、ホント、いい映画をやりますよ…汗
ちなみに、この映画、めちゃめちゃ気になりました。
匿名出産や赤ちゃんポストに通じそうな映画です。
これも見に行きたいなぁ。。。
なんか、また再び自分の中で映画ブームが来てる予感、、、