「笑っていいとも!」が終焉を迎えた。
正直なところ、今の僕にとっては、それほどショックでも、悲しくもない。
なぜなら、長い間、ずっとこの番組を見ていなかったから。見ていない番組が終わることに、心は動くはずもない。職場の食堂で、いつもこの番組が流れているわけでもなく、また昼に僕は食堂に行かない。。。
けれど、僕ら世代の誰もが、この番組を通ってきた。
僕も小さい頃、この番組を何気なく見ていた。大好きなバンドのメンバーが登場する時は、ビデオ録画に命をかけた。X JAPANのYOSHIKIとか、BUCK-TICKのあっちゃんとか。
https://www.youtube.com/watch?v=tr0pZE5u3EE
笑っていいとも!は、僕ら世代から上の人たちが「みんな」見ていた番組だったと思う。
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今回のこの番組の終焉は、その「みんなの番組」の終焉を意味しているように思えてならない。
タモリ、ビートたけし、明石家さんま、テレビの黄金期のビッグネームが、今日のテレビを賑わせた。
この三人を超える「テレビスター」が今後、生まれるようには思えない。今のところは特に。
「お茶の間」という言葉も、もはや「死語」になっている。
「大衆」=「みんな」を虜にするような番組もタレントもスターも、もう出てこないように思えてならない。
というのも、もう「大衆」=「みんな」が、テレビに何かを期待しなくなったからだ。
テレビの時代は終わった。
それは、「視聴率云々」の話じゃない。今だって、どの家にもテレビはある。
だけど、みんなが、テレビに期待しなくなった。テレビの影響を受けなくなった。
テレビの「神話」が崩れてしまい、テレビに依存することもなくなった。
テレビの話題で盛り上がることも、今はほとんどない。
笑っていいとも!は、数ある番組の中でも、ある意味でみんなの話題になるような番組だった。
みんなの話題になる番組がなくなった。
そこに、大きな意味が潜んでいるように思う。
僕は、この「大衆」=「みんな」の終焉を、「近代化の(ある種の)完了」と見なしている。
個々の人が、各々の関心をもち、各々の好みが大切にされる時代になった。
それは、「みんな」という共同幻想が崩れ落ちて、「個人主義」的な生き方が可能になった、ということ。
自分が好きなものや興味のあることが、人と違っていていい。それが許されるようになった、ということ。
そして、「権威」となるものが、存立しなくなった、ということ。
僕としては、この変化を歓迎したい。
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ただ、その一方で、「スター」になる夢も、成り立たなくなった。
「タモリ」は、やはりかつての時代の「スター」だった。
誰もが知っていて、巨万の富を得た(と思われる)スターだった。
笑っていいとも!には、誰もが出演を夢見た。
僕も、大昔、笑っていいとも!に出演するのが夢だった。本当に夢に出てきた。
そんな「夢」も、今の時代では、叶わぬ夢となっている。
お笑いでも、バンドマンでも、タレントでも、全部同じ。
「テレビ幻想」が壊れた今、「お茶の間のスター」になることは絶望的に難しくなった。
視聴率が取れないのも、CDが売れないのも、同じ原理に基づいているように思う。
「大衆の支持が得られない」→ゆえに「メガヒットが出せない」、という論理。
一部のコアな層に支持されることはできても、「一般に浸透する」ことはできない。
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テレビという絶対的基盤を失った僕らは、どこに向けて、どう発信すればいいのかの指標を失った。
テレビの代わりにネットが普及した、と人は言う。
しかし、ネットの効力は、かつてのテレビには到底及ばない。チャンネル数が途方に暮れるほどに多すぎる。
しかも、安定性がないので、話題になっても、あっという間に風化する。
多分、僕ら「団塊Jr」が、最後の「みんな世代」なんだと思う。
しかし、その団塊Jrでさえ、もう個々にバラバラになっている。すっかり解体させられたように思う。
(とはいえ、僕ら世代なら、「光GENIJI」の話をすれば、大体盛り上がれる)
わけのわからない「大衆」という不気味な存在の息の根が完全に途絶えたものの、その結果として得られたのは、個々バラバラな関心であり、つながりようのない個々の話題だった。
もはや、「同じ世代」だ、ということで、すぐにつながれるような時代でもなくなった。
ネットの普及で、「つながり」自体は、とても簡単に持続できるようになった。
けれど、見知らぬ誰かと、すぐにつながれるような「接点」もなくなった。
いいか悪いかは別として。。。
つながるメディアがどんどん増える一方で、つながる話題はどんどんなくなっていっている。
僕ら人間は、これから、何を支えにして、人とつながっていけばいいのだろう?!
「みんな」という幻想が壊れた今、まさに、このことが問われているように思えてならない。