Dr.keiの研究室2-Contemplation of the B.L.U.E-

「現象」のメカニズム

最近、ふと「現象」って何だろう、と考える。

ここでいう現象は、何らかの物事がムーブメントとなって、一つの文化・知となって、権威化されて、固定化され、排他的になり、衰退して、消滅していく(ないしは細々と生き残っていく)一連のことである。

日本の「近代化」も、一つの大きな現象だった。

欧米の文化が日本に入り、日本中で、欧米の文化が熱狂的に受け入れられ、それが定着して、そして批判され、衰退していったこともまた、一つの現象として考えられる。

この反動として、「日本的なもの」を賛美する声もまた、欧米化への一つのアンチテーゼなのだろう。

90年代のラーメンブームもまた、この現象の一つの現れと考えることができる。

戦後、爆発的に広まったラーメン文化は、90年代に大ブレイクを果たし、一大ブームになった。が、その後は、一部の成功した人たちがラーメン界を牛耳るようになり、権威化されるに至った。この頃に成功したラーメン店やラーメン店主や評論家の人たちは、今なお、ラーメン界において君臨していて、それを崩すのはとても難しい。ゆえに、00年(後半)以降に出てくるラーメン店主や評論家の人たちは、それ以前の成功者たちに「承認」を得ることでしか、表舞台に出られなくなった。結果として、かなり息苦しい状況で、ラーメンをつくったり、語ったりしなければならないことになってしまった。今や、現象としてのラーメンは、消えつつある。もちろん、「飲食店」としてのラーメン店は、残り続けるだろうけど、それが再び現象となって現れるためには、何十年かの「空白」が必要だろう。

ヴィジュアル系もまた、一つの「現象」として考えることができる。

これまた90年代の初頭に、日本国内で一気に広まった現象であった。DEAD END、BUCK-TICK、X JAPAN、COLOR、D'ERLANGER、LUNA SEAといったカリスマ的なバンドマンたちによって築かれた日本を代表する文化現象だった。しかし、この現象もまた、大きなムーブメントとなって、世の中に広まり、皆に知られるようになっていった。しかし、その一方で、ヴィジュアル系運動は固定化され、権威化されていく。90年代初頭にブレイクしたバンドマンやその関係者たちが「権威」となって、ヴィジュアル系業界をいわば「管理」「監視」「統治」していくことになった。その結果、ラーメンと同様、本来もっていた自由さや運動性が損なわれて、権威者の承認をもってのみ、その世界で活躍することが可能となる。が、その結果、かつてのような熱狂や衝動やオリジナリティーはなくなり、衰退の一途をたどる。ラーメン同様、ヴィジュアル系バンドもそこそこに残り続けるだろうが、再び現象となるためには、何十年の空白期間が必要だろう-権威者がいなくなるその日まで…。

世の中というのは、そういう現象で成り立っているように思えてならない。

今は、スマホ全盛期だが、これもきっと10年後にはもう存在していないのだろう。この数年で、一気にスマホが広まり、皆、期待と希望をもって日々スマホの画面を見つめている。(僕はもってない…(;'∀') だから、羨ましい…) まだ、批判的なものは起こっていないが、今後、このスマホが何年もってくれるのか。数年後には、ガラケー同様に、「ガラクタ」「ゴミ」「廃棄物」になってしまうのだろうか。その頃には、「えー、まだ、スマホもってんの?」って言われるのだろう。

政治だって、数年前には、この国でも「反自民現象」が起こって、管・鳩山民主党に熱狂していた。が、それもすぐに枯れ果て、今や、「安倍ソーリ」ブーム。安倍さんだって、この4年の間に、ある意味で(一部の人たちに)熱狂され、支持され、受け入れられてきて、どんどん僕らから乖離していった。いや、というより、4年もすれば、「飽きられる」。そこに、権威が重なってきて、どうにもこうにもいかなくなる。自民党が一番今考えなければいけないのは、憲法改正じゃなくて、安倍さん以後の自民党をどうするのかってことじゃないかな? どう考えても、ポスト安倍の人間像が見えてこない。

現象は衰退する。

現象は消滅する。


このように、現象を考えると、僕らの命そのものが、現象のような気もしてくる。

一番上で、僕は、現象について、「何らかの物事がムーブメントとなって、一つの文化・知となって、権威化されて、固定化され、排他的になり、衰退して、消滅していく(ないしは細々と生き残っていく)一連のことである」と述べた。

これって、僕らの人生そのものではないのか?、と。

僕らも若かりし頃、勢いに溢れ、躍動感に溢れ、大きなうねりを呼び起こし、10代~20代をみずみずしく生きていく。しかし、それ以降は、どんどん経験が固定化され、それが権威となっていき、それに逆らえなくなり、また、外の権威に跪き、老いと共に排他的になり、衰退し、消滅していく。

それと同じように、文化や知も、新たに生み出されては、権威化されて、萎縮し、衰退していくのだろう、と思う。

単純に考えても、僕が大学時代に学んできたことと、今大学で学ばれていることは、その本質は変わらないにしても、ずいぶんと変わってきた。あるいは、概念は変わらなくても、その意味内容はずいぶんと変わってきた。

70年代~80年代に議論されてきたことが、今、どれほど真面目に受け止められているのか。

もちろん「未解決」の問題はまだまだある。そういう未決の問題は、今なお、生き生きとした議論が展開されている。

でも、多くの場合、ある程度のところで「解決」と見なされ、「処理済み」とされ、風化していく。


そうした現象のメカニズムを解明することも、また大事なことかな、と思う。

現象学と決別して12年。現象学の外の世界から、「現象」を考えるとき、何か違うものとして現象が見えてくるような気もする。

心理や恐育や福祉や看護の世界で、現象学を語る時、どうしても「実践研究」「事例研究」という方向に向かってしまう。しかも、今やカルト的に細かい部分での議論しかできない権威的な学問に成り下がってしまった。

(sachlichな)現象学は衰退しても、現象そのものは、常に新たに起こり続けている。

現象はどのようにして生起し、発展し、衰退していくのか。

今後、考えたいなぁって思うテーマであります。

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