Dr.keiの研究室2-Contemplation of the B.L.U.E-

42年ぶりに原発稼働ゼロになる日

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120503-00000083-mai-pol

明日はそれなりに第一歩の日になりそうだ。

42年ぶりに原発稼働ゼロになる日。

原発の是非については、色んな情報がありすぎて、何が正しいのかが完全に分からなくなった。煙に巻かれた気分だ。全部が「嘘」に聞こえてきて、何が正しいのかが完全に分からなくなった。なんとなく、「これだけの被害があったのだから、もう脱原発でいいじゃん」という意見も、「原発関連の仕事をしている人が多く、現時点で原発稼働ゼロは難しい」という意見も、どちらも分かる。原発ゼロにしたら、現状の「過剰電気依存社会」は維持できない(というのもまた信じられないんだけど)。だけど、日本は二度、三度と放射能の犠牲にもなっており、「もうそろそろ、卒業しようぜ」という意見も痛く分かる。

あれかこれかの議論だと結論がでない。

けど、素人ながらにふと思うのは、電力使用量がmaxに近づいた時だけ、一時的に原発を稼働させることは不可能なのかな。基本的に、原理的に、電気は貯蓄できないと言われている。つまり、電気は発電したら、それを使わないと、使われないで消えてなくなってしまう、というわけ。つまり、無駄な電力も起こしてきた、と考えていいかな、と。だから、無駄な電力をなくし、そして、非常事態になった時、電力が足りなくなるのは年間に数日だという見解もあるし、そういう時だけ、「限定的」に原発稼働して、やれないのかな、と思うのは、単なる素人見解なのかな。

でも、限定的となると、日々雇用されている人にとってみれば、かなり厳しい。臨時にしか稼働しないとなると、正規雇用の従事者が不要になる…

…ってことは、原発は何のためにあるのか?という話になる。一連の議論(国外を含め)を見聞きしていると、「原発雇用者を守る」という意見が多々ある。けれど、労働雇用を守るために、原発を稼働させるっていうのは、やはり本末転倒のような気がする。

一番大切なのは、電力がどれくらいあって、どれくらい電力が生産されて、どれくらい、いつ電力が消費されているか、ということの基本的データだろう。もちろん予測の範囲でしか、語れないと思うけど、でも、どの道、予測でしかない。現実は、それ以上のことが起こる。

この原発稼働をめぐる議論は、深まれば深まるほど、訳が分からなくなる。そういう時は、原点に立ち返る必要があるし、できるだけ「使用目的」と「実際」に目を向ける必要がある。

少なくとも、明日は、原発が一台も稼働しなくなる。それで、やれたとしたら、それは、原発がなくても日本はまわる、ということだ。電気が極度に必要になる夏場や冬場でなければ、原発がなくても、僕らは生きていける。それが証明される日になる。

誰もが、「電気が足りなくなること」への懸念をもっている。昨年、一時的に、時間帯で地域が停電になった。あれは、本当に大変だった。電気のない生活は不便だし、生活、あるいは経済活動はかなり打撃を食らう。けれど、それ以後は、原発が稼働していなくても、なんとかなっている。

明日は、そういう意味でも象徴的な一日となるだろう。ゆくゆくは、リスクの高い原発から離れ、安全なエネルギー社会ができるといいな、と。でも、現実的に無理だとなれば、原発をまるごと全部認めるのではなく、暫定的に、一時的に、補完的に使用することはできないのか。それができれば、かなり僕らの不安は解消されるのではないか。

もっと素人的に言えば、原発稼働のON/OFFは、スムーズにできないのか。多分、それが難しいんだろうと思うけど、それこそ、莫大な研究費をもらっているんだろうから、官民の研究者たちが、ON/OFFの機能と安全性を高めて、必要なときだけ稼働させるという道は拓けないのか。(本当に、素人的だと思いますが、、、)

しかし、この数世紀しか使用されていない「電気」にここまで僕らは振り回されるとは。。。 考えてみれば、わずか150年前くらいまでは、ほとんど電気なんて使わないで生活していたのにね。。。

電気の歴史
http://www.geocities.jp/hiroyuki0620785/timeline.htm
http://www.ijinten.com/category/nenpyo.htm
http://www.fepc.or.jp/learn/kyouiku/rekishi/index.html

1882年に、銀座で日本初の電灯が灯された。今からそれこそ、130年前か。たったそれだけの歴史しかないのに、僕らはその130年の間に、電気にぶらさがって生きるようになってしまった。世界的にも、現存する電気の原型ができたのは300年前の話だ。

原発の是非を問うのも大事だけど、僕らはもっと根本的に問わなければいけないと思う。だいたい、電気って何だ?と問われて答えられる人がどれだけいるのか。磁石と電気の違いをきちんと分りやすく的確に明確に説明できる人がどれだけいるのか。電気を「見る」経験だって、ほとんどの人がしていない。誰も電気を見ていないのだから。電線はいつも見ているだろうけど、電気そのものを知る人はほとんどいない。どうやったら、電気を作れるのか。電気はどのようにして生まれ、どのようにして消えるのか。放電とは何か。漏電とは何か。

それから、哲学的にも問えるだろう。なぜ僕らは電気にここまで依存しなければならないのか、と。電気からの自由は存在するのか、と。あるいは、人間の生存よりも発電が優位に立つ根拠はどこにあるのか、と。または、国家と電気の関係はどのようになっているのか、と。いくらでも問いは生まれてきそうだ。僕的には、「なぜ人間は電気を求めるのか」、という問いが一番面白そうに感じる。

例えば、インターネット。インターネットの魅力は、人とつながれることだ(一般的にね)。でも、人とつながりたいなら、別にインターネットじゃなくてもいい。もちろんインターネットでのつながりは素晴らしいものがある。けれど、人間の生命や生活を脅かす原発に依存しなければ成立しえないような状況下において、なおインターネットが必要だという根拠はどこにある? 

あるいは、極端な話、冷蔵庫。どこかで聞いた話だけど、こんな話がある。冷蔵庫をつかう近代人が、冷蔵庫を使わない未開の人(未開ってすごい失礼な言い方だけど・・・)と話している。未開人は言う。「お前たちは、その白い四角い箱に食べ物を入れて、何日も保存しているようだな」。近代人は答える。「そうだ。この白い箱は食べ物を安全に長時間保存してくれる魔法の箱なのだ」。すると、未開人は笑ってこう答える。「お前たちは貧しいんだな。俺たちには、そんな白い四角い箱など必要ない。なぜならば、採ってきた食物は新鮮なうちにすべて平らげるからな。お前たちは、古くなった食べ物しか食べていないんだろ?」。現代人、「…」。…といった話だ。

僕らが必要だとする電気は、本当のところ、どこまで必要なのだろう。人間にとって、いや生き物として、最も大切なことは生存することだ。生存する上で、絶対的に必要な電力量とはどれくらいなのだろう。上の未開人の発言の半分は正しいけど、半分は同意できない。やはり、現代においては、冷蔵庫は必要不可欠だし、分業化が進み、都市社会を生きている以上、新鮮な食べ物を毎日食べるというのはできない。非現実的だ。が、現実と非現実の間には、いろんな落とし穴があると思う。

発電の是非を問う前に、僕らはもっと電気について問い、学び、考える必要があるように思う。

電気って何だ?」、と。

明日がその出発の日になればいいな、と願いつつ。


追記

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120504-00000003-maiall-bus_all より

3月27日に東京都内の日仏会館ホールで開かれた講演会。日産自動車のカルロス・ゴーン社長は約130人の聴衆を前に「原発を再稼働させなければ経済は立ちゆかなくなる。その点を日本政府はよく考えるべきだ」と訴えかけた。

経済界で「原発ゼロ」に伴う電力不足への危機感が高まっている。世界的な建機メーカー、コマツの坂根正弘会長は4月、日本原子力産業協会の年次大会で「いつまでもこんなエネルギー問題を抱えている日本で製品を作っていてはリスクが大きすぎる」と発言。4月23日に開かれた政府の電力の需給検証委員会では、金属大手、住友電気工業の松友俊雄・省エネルギー推進室長が「昨年は国難ということで協力したが、今年は震災から1年以上経過している。具体的な(節電要請などの)計画がないのはどういうことか」と政府への不満をぶつけた。

自動車業界では、従業員の生活にしわ寄せがいく「(昨年のような)輪番はとても無理」(大手自動車幹部)との見方が増えている。昨年は、平日のピーク電力使用量を下げるため休日に出勤する体制をとったが、「3カ月間、家族との時間が削られた。震災直後だから我慢したが、今年は勘弁してほしい」(トヨタ自動車社員)との声も多い。日本自動車工業会の志賀俊之会長(日産自動車最高執行責任者)は4月の記者会見で「従業員や家族の生活にも多大な負担をかけた。(政府は休日シフトを)期待せずに安定供給できるよう対応をとってほしい」と求めた。

大飯原発の再稼働が不透明で「猛暑なら計画停電」とも伝えられる関西電力管内ではさらに事態は深刻だ。各企業は「自衛策」で乗り切ろうと知恵を絞るが限界も見えている。

三菱自動車の益子修社長は4月26日の決算発表の記者会見で、京都工場で休止中の自家発電装置を稼働させる方針を明らかにした。改修などに2億6000万円の費用がかかるが「電力供給不安を深刻にとらえている。生産維持のためにはやむを得ない」とため息をついた。

***

原発ゼロに対して、警鐘を鳴らしているのが、もっぱら自動車産業だ。自動車。それは、日本の産業のまさにど真ん中にある「近代の産物」だ。産業を守ること。車社会を守ること。そして、それに従事する人たちを守ること。それが、おそらく「原発再稼働」の大義名分になっていると思う。車は、それ自体が総合商社みたいなもので、あらゆる部品から成りなっていて、関連会社・工場を含めると、とんでもない数の人が、車関連の仕事をしている。さらに、レンタカーや保険会社、レッカー車、さらには、ナビ等の車機器などを含めれば、本当にたくさんの人が、「車産業」の当事者であることが分かるだろう。

これも、電力と同様に、もうそろそろ本気で問わなければならない問題だろう。「いつまで僕らは車に依存して生きていくのか」、と。現実問題としては、車産業なしでは、この国はあり得ない。車にかかわる人はあまりにも多すぎるから。だが、それとて、この100年の出来事に過ぎない。現実的に今すぐにというわけにはいかないだろうが、車のない社会を目指すことはできる。

それこそが、本気で政治家たちが取り組まなければならない問題だろう。僕らはいつの時代でも「仕事」を求めている。職場がなくなるということは、個人の生活が不安定になるのみならず、社会そのものの不安定に直結する。

大きな視点から見れば、この「電気依存」「車依存」の僕らの社会を、どう変えていくのか、ということが問われているんだと思う。これには、特効薬はない。地道に、しぶとく、議論していくしかない。僕らの仕事のあり方そのものが、ようやく問われてきているのかもしれない。

僕らはいかなる仕事をもって、持続可能な社会を実現するのか?、と。

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