聖書の言葉を聴きながら

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詩編 148:7〜14

2021-02-11 12:17:04 | 聖書
2021年2月10日(水) 祈り会
聖書:詩編 148:7〜14(新共同訳)


 きょうは148篇の後半です。
 この詩篇も最初と最後にハレルヤ(主を讃美せよ)があります。

 1節の2行目に「天において」とあります。そして7節に「地において」とあります。後半は、地にあるものたちに讃美を呼びかけています。この詩篇は、神が造られた世界の天においても、地においても、讃美で満たされ、世界がすべて神を喜ぶことへと導こうとしています。

 7節「地において  主を賛美せよ。/海に住む竜よ、深淵よ」
 地にあるものの最初になぜ「海に住む竜」が言われているのか。それは「海に住む竜」が地にあるもので最初に創造されたものとして記されているからです。
 創世記 1:20~23に五日目の創造が記されていますが、そこでは水の中の生き物、空の鳥が創造されます。1:21を見ますと「神は水に群がるもの、すなわち大きな怪物、うごめく生き物をそれぞれに・・」とあります。7節の「海に住む竜」は創世記 1:21の「大きな怪物」を表しています。
 この「海に住む竜」を注解書を見ますと、「原始の混沌を象徴する海の怪物」(月本昭男)と記されています。そして詩編やイザヤ書を引用して、神が竜、ラハブ、レビヤタンといった創世神話に出てくる怪物を打ち破られたことを記している箇所を示しています。(例えば、詩編 74:13「あなたは、御力をもって海を分け/大水の上で竜の頭を砕かれました。」、イザヤ 27:1「その日、主は/厳しく、大きく、強い剣をもって/逃げる蛇レビヤタン/曲がりくねる蛇レビヤタンを罰し/また海にいる竜を殺される。」、イザヤ 51:9「奮い立て、奮い立て/力をまとえ、主の御腕よ。/奮い立て、代々とこしえに/遠い昔の日々のように。/ラハブを切り裂き、竜を貫いたのは/あなたではなかったか。」)
 深海調査船がある現代と違い、古代の人たちにとって、海は混沌の象徴でした。これらの表現は、混沌も神の御手の内にあるという信仰の告白です。創世記 1:2には「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」と言われています。創世記1章は、混沌の世界に神は語りかけ、神が見て「よかった」と言われる世界を造られていったことを表しています。ですから7節は、創造の始め、五日目に造られた竜も、混沌の象徴である深淵も、神を讃えよという呼びかけです。

 8節「火よ、雹よ、雪よ、霧よ/御言葉を成し遂げる嵐よ」
 後半は、前半と違い、一つひとつに「主を賛美せよ」を付けていません。
 神が造られた自然、そのあらゆる姿が神を讃えるようにと語ります。
 「御言葉を成し遂げる嵐」という表現があります。嵐はできることなら出会いたくないものです。海を航海している最中に嵐と出会ったら、死を覚悟しなければなりません。しかしその嵐に対しても、詩人は「御言葉を成し遂げる」と語ります。人間にとって喜ばしくないものも、人間の思いを超える神の御心があり、それを成し遂げるという信仰です。
 最近の福音時報(日本キリスト教会の月刊誌)などで、新型コロナウィルスがもたらした良い面を指摘する文を見かけるようになりました。詩人は、神が造られたすべてのものに神の御心があり、神が造られたすべてのものは神を誉め讃え、神の栄光を現すようにという信仰を持っています。
 『こどもさんびか 改訂版』113番2節に「おおじしんも あらしも いなびかりも/つくられた方に 助けもとめる」という歌詞があります。わたしはこの歌詞にあまりピンときてなかったのですが、今回148篇を読んで、自分の信仰がまだまだ小さいことを思わされました。
 すべての造られたものは、神の御手にあり、神を誉め讃える喜びに与れるのです。(ローマ 8:19~21「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。・・被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。」)

 9節「山々よ、すべての丘よ/実を結ぶ木よ、杉の林よ」山も丘も植物も。
 10節「野の獣よ、すべての家畜よ/地を這うものよ、翼ある鳥よ」動物も鳥も。
 11節「地上の王よ、諸国の民よ/君主よ、地上の支配者よ」地にあるすべての民も、世を治める務めに立てられている者たちも。
 12節「若者よ、おとめよ/老人よ、幼子よ。」幼き者も、若き者も、年老いた者も、男も、女も。
 13節「主の御名を賛美せよ。/主の御名はひとり高く/威光は天地に満ちている。」
 「主の御名はひとり高く」は、主の祈りの「御名が崇められますように」(御名が聖とされますように 聖書協会共同訳)(マタイ 6:9)と同じ内容を示しています。主の御名は他の名前と同列に並べることができないのです。すべてを造り、治め導いておられる主の御名は、特別なのです。そして、信仰の目が開かれ、神の御業に気づかされた詩人の目には、神の「威光は天地に満ちている」のです。

 14節「主は御自分の民の角を高く上げてくださる。/それは主の慈しみに生きるすべての人の栄誉。/主に近くある民、イスラエルの子らよ。/ハレルヤ。」
 「角」は力の象徴です。ある聖書の註では、この角を「民の繁栄」と理解する者もいるし、「メシア的意味」に理解する者もいる、と言っています(フランシスコ会訳)。
 詩人がこの詩篇を詠ったときは、バビロン捕囚からの国の復興、角は「民の繁栄」を表していただろうと思います。しかし今、この詩篇が詠われてから二千数百年の時を経て、イエス キリストの十字架と復活を知るわたしたちにとって、「角」は単に神の民の繁栄ではなく、メシア的意味を持っているだろうと思います。

 イエスは、ヨハネによる福音書で「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである」(ヨハネ 3:14~15)と言われました。ここで「上げられる」というのは、十字架を指しています。
 「モーセが荒れ野で蛇を上げた」というのは、出エジプトの最中、民が神とモーセに向かって「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのですか。荒れ野で死なせるためですか」と文句を言ったとき、神は「炎の蛇を民に向かって送られた。蛇は民をかみ、イスラエルの民の中から多くの死者が出」ました。民が悔い改めたので、モーセが神に執り成し祈ると、神は「あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る」と言われました。そこで「モーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た」(民数記 21:5~9)という出来事のことです。
 イエスはこの出来事を示して、「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである」と言われました。罪を抱え、死に囚われているわたしたちが、わたしたちの救いのために祈りを献げてくださったイエス キリストの十字架を仰ぐとき、罪と死から救われることを言っておられます。
 それはまさに詩人が語った「主は御自分の民の角を高く上げてくださる。それは主の慈しみに生きるすべての人の栄誉」という言葉が指し示している事柄です。

 詩人は自分の讃美がイエス キリストの十字架を指し示しているとは知りません。しかし、この詩人の讃美をご自身の言葉として聖書に収めてくださった神は、ご自身の救いの御業を指し示す言葉としてくださいました。

 神の御業は天地に満ちています。神の栄光も天地に満ちています。神はご自分を示されるのに、創世神話も、そこに登場する想像上の生き物もお用いになります。当時の世界観の中で生きる古代の人たちに分かるように、語りかけてくださいました。
 そして、ご自分への讃美を、詩人が思うより遥かに広く豊かに用いてくださり、今この詩篇を読むわたしたちには、イエス キリストの救いを指し示す言葉として語りかけてくださるのです。
 詩人の言葉は、時を超え、すべての聖徒たちに向けて語られます。「主に近くある民、イスラエルの子らよ。/ハレルヤ(主を讃美せよ)。」


ハレルヤ


父なる神さま
 あなたの造られた世界が讃美で満たされますように。あなたの栄光が満ちあふれますように。代々の民と共にわたしたちもあなたを指し示し、讃美へと招くことができますように。あなたと出会う一人ひとりが救いの喜びで満たされますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

「星の王子さま」を哲学する

2021-02-08 22:57:42 | 読書
甲田純生『「星の王子さま」を哲学する』(ミネルヴァ書房)読了。
今まで『星の王子さま』を読んだことがなかった。手にして、読もうとしたことは何度かあるが、毎回2~3ページで挫折した。けれど今回、この本を読んで、もう一度チャレンジしようと思った。
『星の王子さま』はよく分からない、ピンとこなかったという感想を持っている人たちにオススメの本。

ヨハネによる福音書 6:52〜59

2021-02-07 15:52:35 | 聖書
2021年2月7日(日) 主日礼拝  
聖書:ヨハネによる福音書 6:52〜59(新共同訳)


 イエスは言われました。「わたしが命のパンである。」(6:35, 48)そして「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」(6:51)と言われます。

 そこでユダヤ人たちは「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始め」ました。

 教会員の皆さんは「これは聖晩餐のことだな」と思われたのではないかと思います。
 イエスは言われました。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。」(6:53~56)

 わたしたちが食事をし、食べた物が消化され、血肉となり、自分と一つになって命を支えるように、イエス キリストの血肉に与り、命に与り、キリストと一体になるとき、キリストの命、永遠の命を頂くのです。そして、わたしたちはキリストの命の内にあり、キリストもわたしの内にいてくださり、キリストと共に生きるようになるのです。パウロも、ガラテヤの信徒への手紙で「キリストがわたしの内に生きておられる」(ガラテヤ 2:20)と言っています。

 これは奇跡です。罪人であり、この世では必ず死を迎えるわたしが、キリストと一つに結び合わされ、罪を赦され、罪から清められて、キリスト共に生き始めるのです。神の御心よりも、自分がこうしたいという思いに引きずられるのに、キリストを信じ、キリストの救いを求め続けるのです。終わりの日にキリストが復活させてくださる未来を見つめ信じる、新しい命を生き始めるのです。

 ヨハネによる福音書は、イエスと弟子たちとの最後の晩餐を記していません。21:25では「イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある」と書いています。福音書の編集者ヨハネは、書き切れないエピソードの中から、その目的に適うエピソード、構成を考えて福音書を編集したのです。その目的を「あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」(ヨハネ 20:31)と述べています。
 編集者ヨハネは、聖晩餐へと続いていく事柄を、最後の晩餐ではなく、五千人の給食(6:5~13)と呼ばれる出来事から続くこの箇所で、聖晩餐が指し示す救いの恵みを明らかにしようとしているのです。

 実は、ヨハネによる福音書が示す聖晩餐の内容は、危険なものでした。迫害の時代、カタコンベと呼ばれる地下墓地などでひっそりと集まっていた頃、聖晩餐から噂が拡がっていきました。キリスト教徒は、人の肉を食べ、血を飲む秘密の儀式をしているらしい。どうやらキリスト教徒は、人を食べるらしい、という噂です。人々はキリスト教徒を警戒し、偏見が増していきました。
 聖晩餐は、日本キリスト教会の式文でも「洗礼を受けていない者、まだ信仰告白をしていない者は与ることができません」と記されているとおり、未信者は与れないので、かつては日本でも、礼拝が終わって未信者が帰った後、信者だけで守っていたこともあります。

 ハイデルベルク教理問答では、問75から聖晩餐について語りますが、「どのようにしてキリストの十字架を思い起こし、確信させられますか」という問いにこう答えます。「イエスご自身が、十字架につけられた体と流された血をもって、永遠の命へとわたしの魂を養い、潤してくださる。主のパンと杯を奉仕者の手から受け、実際に味わうのと同様に確実である。」この答えは、キリストの体と血が、わたしたちを永遠の命へと養うことと、それが確実であることを聖晩餐は証ししていると言っています。

 聖書の中心のメッセージは、神と共に生きる命です。それが、罪のために神から離れて、死に囚われてしまいました。この罪と死から解放されるには、キリストに罪を贖って頂き、いつも神と共にあるキリストと一つに結び合わされて、キリストと共に生きるのです。

 だからイエスは言われます。「生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。」
 イエスこそ「天から降って来たパン」なのです。イスラエルの「先祖が(出エジプトの荒れ野で)食べた」ものとは違います。食べたのに「死んでしまった」ものとは違います。荒れ野で食べたマナは、イエス キリストを指し示すものでした。イエスこそ「命のパン」です。「このパンを食べる者は永遠に生きる」のです。

 教会は、この命のパン、イエス キリストを差し出すのです。教会が与えることのできるもの、神から託されているものはイエス キリストなのです。イエスご自身が「さぁ、取って食べなさい。これはわたしの体である。」「皆、この杯から飲みなさい。罪が赦されるようにと流されるわたしの血、契約の血である。」とご自身の命を差し出されるので、教会は、イエスを信じる者にイエス キリストを差し出すのです(マタイ 26:26~28)。

 聖晩餐は、信仰はなくても、与れば御利益があるというようなものではなく、パンはパン、ぶどう液はぶどう液ですが、イエスを救い主と信じる者に、聖霊が働いてくださり、イエス キリストの体と血、キリストの命で清め満たしてくださるのです。聖霊なる神が、イエス キリストの命によって、わたしたちを永遠の命へと育んでくださるのです。

 聖晩餐は、罪ゆえに神を信じきれないわたしたちにキリストの救いの確かさを確認させてくださる恵みです。今、感染症のため、配餐ができないのはとても残念なことです。しかし今言ったように、聖晩餐は聖霊なる神の働きを指し示すものなので、パンとぶどう液に与れないとキリストの救いに与れないということではありません。
 ユダヤ人は、紀元70年にローマによって神殿が破壊されて、儀式による信仰から御言葉による信仰へと移行しました。以来およそ二千年、流浪の民になってもユダヤ人は信仰に生きてきました。
 いずれパンと杯を分かち合う日がくることと思います。しかし今は、神の言葉に導かれて、永遠の命を仰ぎ見る時なのだと思います。
 きょうこの御言葉を聴いた皆さんの中で、イエス キリストの言葉が活きて働きますように。キリストと結び合わされ、神へと立ち帰り、永遠の命に生きることができますように。


ハレルヤ


父なる神さま
 わたしたちに命のパン、イエス キリストを与えてくださったことを感謝します。キリストは、他の何かではなく、ご自身を、その命をわたしたちに与えてくださいました。命はあなたから、そしてイエス キリストから来ます。わたしたち一人ひとりの前に差し出されているキリストの命、永遠の命を感謝して、喜んで受けることができますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

詩編 148:1〜6

2021-02-04 00:50:45 | 聖書
2021年2月3日(水) 祈り会
聖書:詩編 148:1〜6(新共同訳)


 きょうは148篇の前半です。
 この詩篇も最初と最後にハレルヤ(主を讃美せよ)とあります。
 ハレルヤが「主を讃美せよ」という意味だと分かると、「主を賛美せよ」という言葉が何度も言われていることに気づかれると思います。日本語に訳されている「賛美せよ」も、最初にカタカナで書かれている「ハレルヤ」と同じ「ハーラル」(讃美する)という動詞が使われています。

 1節の2行目に「天において」とあります。そして7節に「地において」とあります。
 1~6節は天における讃美が語られ、7節以下は地における讃美が語られます。そして11~12節は人の讃美、13~14節は主の民の讃美が語られます。
 この詩篇は、神が造られた世界の天においても、地においても、讃美で満たされ、世界がすべて神を喜ぶことへと導こうとしています。
 讃美は、神を讃えて、神の栄光を証しする行為です。詩編102:19には「主を賛美するために民は創造された」(新共同訳)という言葉があります。讃美は神の民の務めであり、神にふさわしいものです。
 わたしが神学校で習った時(30年前)には、出エジプトを喜び讃える出エジプト15章のミリアムの讃歌(20~21節)が一番古い聖書の記事だと言われていました。ただ聖書学も日進月歩で今もそう考えられているか定かではありません。けれど讃美は、神の民の歩みの初期からあったものであろうと思います。

 1節「天において」「高い天で」
 天は、神がおられる世界を表します。人が住む地に対する天です。人の手が届かない高みを指し示します。
 2節「御使いらよ、こぞって」「主の万軍よ、こぞって」
 天使とその軍勢も皆、讃美へと誘われます。
 3節「日よ、月よ」「輝く星よ」
 天体、天を飾るものたちも、讃美に招かれます。
 4節「天の天よ」「天の上にある水よ」
 天の中の天、最も高い天、そして雨として降る天の上にある水も、神が造られた世界のすべてのものが神を讃えることを詩人は願っています。すべてのものは神によって造られたのですから。5節「主は命じられ、すべてのものは創造された。」
 6節「主はそれらを世々限りなく立て/越ええない掟を与えられた。」この節は「主は掟を与え、天の被造物は掟を逸脱することはない」という意味です。つまり、神は自然の理を造り、与えられたということです。

 この詩篇は、神の創造の御業を思いめぐらしながら、讃美しています。
 神の創造の御業は、創世記1:1~2:3で語られます。この箇所はバビロン捕囚で、バビロニアの創世神話に触れて、触発されて語られたと言われています。それは、バビロニアの神々が世界が造ったのではなく、唯一の真の神が祝福をもって造られたことを表す信仰告白であると言われます。科学的なことを伝えようとしているのではなく、信仰をもって神の創造の御業を語っています。
 1:1~2:3は、混沌から神の言葉によって命の秩序が造られていく様が表現されています。創造は7日間でなされます。七日目は安息の日ですから、創造自体は6日間でなされます。この箇所が書かれた紀元前一千年頃は、7も6も完全数だと考えられていました。7は、1と7以外割る数字を持たない特別な数という意味で完全数と考えられていました。逆に6は、1でも2でも3でも6でも割ることのできる特別な数という意味で完全数と考えられていました。創造の記事は、完全数を用いることにより、創造の御業が完全であることを表そうとしています。
 6日間で世界が造られてきますが、これは、3日と3日に分かれます。一日目と四日目、二日目と五日目、三日目と六日目が対になっています。
 一日目、光が造られます。四日目、太陽と月の創造が語られます。光と太陽が別々に語られます。一日目の光は、光そのものです。古代のイスラエル人がそのような感覚を持っていたことに、驚きを感じます。
 二日目、水が分けられます。天の水と地の水です。五日目、空の鳥と海の生き物が造られます。
 三日目、地が造られ、植物が造られます。六日目、地に生きる生き物、そして神にかたどられた人間が造られます。
 このように、一日目と四日目、二日目と五日目、三日目と六日目が対になっています。これらは、神が語られる前は、地は混沌であったのに(創世記 1:1)、神の言葉によって命の秩序が造られ、神の「よかった」(良しとされた)が繰り返され、造られた世界には神の祝福が満ちていたことが表されています。

 そして今、聖書は「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいる」(ローマ 8:19)と語ります。被造物も神の救いに与り、神の祝福に満たされること、創造のときの喜びが回復することを待ち望んでいます。
 マルコによる福音書は復活の主イエスの宣教命令をこう書いています。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ 16:15)
 神の救いの御業は、全被造物に及びます。そして148篇は、天と地にあるすべてのものを讃美へと招きます。

 148篇はその形から見て、会衆を讃美へと招くのに用いられた詩編のように思います。「主を賛美せよ」という呼びかけは、神を証しする神の民の務めです。教会に集うお一人おひとりが、その信仰生活・教会生活において、神を讃美せずにはいられない神との出会いをされますようにと祈ります。


ハレルヤ


父なる神さま
 あなたの造られた世界が讃美で満たされますように。代々の民と共にわたしたちもあなたを指し示し、讃美へと導くことができますように。あなたと出会う一人ひとりが救いの喜びで満たされますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

ローマの信徒への手紙 13:1〜7

2021-01-31 17:21:03 | 聖書
2021年1月31日(日)主日礼拝  
聖 書  ローマの信徒への手紙 13:1〜7(新共同訳)


 ローマの信徒への手紙は、教会の歴史にその名を留める人たちに大きな影響を与えてきました。アウグスティヌス、ルター、カルヴァン、ジョン ウェスレー、カール バルト。それぞれの回心であったり、救いの理解について影響を与えてきました。

 そんなローマの信徒への手紙ですが、きょう読みました箇所は、疑問が投げかけられるところです。紀元392年、ローマ帝国においてキリスト教が国教化されると、教会は政治権力と結びつくようになっていきます。そしてきょうの箇所、特に13:1は、教会が国家権力と結びつき、時に教会自体が政治権力となることの正当化のために用いられてきました(田川建三『新約聖書 訳と註 4』p.305)。
 そのこともあって、きょうの箇所では抵抗権が語られ、政教分離について語られることも多く、解釈の歴史について書かれた本も出版されています(宮田光雄『国家と宗教 ローマ書十三章解釈史=影響史の研究』『権威と服従 近代日本におけるローマ書十三章』)。

 では1節から読んでいきましょう。「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。」
 元々聖書には章や節はありませんでした。きょうの箇所は前からの続きで書かれています。直前で語られたのは「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」(12:21)です。きょうの箇所でも3節「それなら、善を行いなさい」と言われます。ここは善を行うことの勧めの流れで語られています。ですから、この流れを無視して、この箇所だけを抜き出して論じるのは適当ではありません。ですから、善を行うことを勧めようとして「上に立つ権威に従うべきです」と語っているのです。だから4節「権威者は、あなたに善を行わせるために、神に仕える者なのです」と言われています。
 この「善を行う」は、ここの流れにおいては「権威に従うべき」よりも上位にある勧めです。「善を行う」は「権威に従う」の前提です。善を行わないで権威に従うのではないのです。

 その上でもう一度見ていきたいと思います。「上に立つ権威」とあります。そしてわたしたちが知っているとおり、最も上に立つ権威は神ご自身です。「神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたもの」です。
 神によって立てられたものには、託された務めがあります。ここでは「善を行わせる」と言われています。権威には、神から委託された務めがあります。
 日本キリスト教会信仰の告白でも「教会はキリストのからだ・・主の委託により正しく御言(みことば)を宣べ伝え・・」と、委託ということが言われています。
 権威を託されているもの自体、神の御心の下にあります。「権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くでしょう。」権威は神の定めを果たすことが前提とされています。神の定めが最優先事項であり、神の定め・神の御心を無視して権威ある者が好き勝手やることは許されません。

 1節に「従う」という言葉が出てきます。この「従う」という言葉、元の言葉は「ヒュポタッソー」(ギリシャ語)という言葉です。このヒュポタッソーという言葉はヒュポとタッソーからなっていまして、ヒュポが「下に」という意味で、タッソーが「定める」という意味です。ですからここでは特に「神の下に定める」という意味でヒュポタッソーという言葉が用いられています。その意を汲んで、ある人はこの1節をこう訳します。「あらゆる人は、上に立つ権威に従いなさい。もし、神の下になければ、それは権威ではなく、存在しているそれらのものは神の下に定められているからです。」(宮平 望『ローマ人への手紙 私訳と解説』)

 聖書の語る善は、神の善、神の御心です。「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。・・善を行いなさい。そうすれば、権威者からほめられるでしょう。権威者は、あなたに善を行わせるために、神に仕える者なのです。」世の権威に対する神の御心ははっきりしています。世の始めに神が人に地を治める務めを託されたのは、神の御心に従い、神と共に世を治めるためです。神の御心により、創造の時に繰り返し言われた神の「よかった」が世界を満たしていくように仕えるのです。(参照:創世記 1章)

 世の権威は、喜び生きる命の秩序を保つために、剣も託されています。そして神の民は、世の権威の怒りを逃れるという消極的な理由ではなく、神の御心に従い委託に応えるという良心のために従います。

 そして世の権威を維持するために税も納めます。新共同訳では「貢」と「税」と訳していますが、新しい翻訳(聖書協会共同訳)では「税金」と「関税」というように訳しています。その細かい違いは、当時のローマの在り方に詳しくないわたしにはよく分かりません。
 「義務を果たしなさい」は、「負っているもの(負債)を納めなさい」というのが元の文の意味です。負っているものには税金、関税、畏れ敬うことが挙げられます。その一番の元にあるのは、神が世を治める務めを託されたことです。世を治める務めを維持していく責任がわたしたちに与えられています。

 イエス キリストの福音は、今も古びることなくわたしたちの意識を変え、世を新しくしていきます。けれど変わるには、時があります。「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」(コヘレト 3:1)
 けれどその時を待ちきれなくなることもあります。もっと社会が変わるべきだという強い意見を抱く人もいたことでしょう。実際、教会では奴隷をどのようにするかという問題、女性の地位の問題などが議論されていました。しかしパウロは、自分の経験を踏まえて勧めます。彼はローマ帝国が整備した道を歩き、ローマが整備した港を利用して伝道しました。ローマの法律に守られて伝道しました。ローマは異邦人の国であり、神の言葉を受け容れてはいません。それでもパウロは、ローマが神によって建てられ、神の務めを果たしていると受け止めていました。

 そして時とともにこの箇所も何度も読まれ、解釈され、聞かれてきました。そして始めに言いましたように、抵抗権と共に語られ、政教分離と共に語られるようになりました。そしてこれからも、社会が変化する中で新しく聞かれることでしょう。
 しかしどのような時代になっても「(神の)善を行いなさい」「(最も)上に立つ(神の)権威に従いなさい」というメッセージは語られ、聞かれ続けていくだろうと思います。
 わたしたちは礼拝に連なり、神の言葉に聞く中で、神が世を造られ、導かれるその御心を聞き続け、神の御心がなるように、神の栄光が現されるように、信仰をもって、また良心をもって仕え歩んでいくのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 あなたの義が行われ、御心がなされていくようにと、あなたは務めを託され、権威をお与えになります。あなたが変わらずに義が行われることを願っておられることを覚えていくことができますように。わたしたち一人ひとりも、教会も、あなたの権威に従い、御国の栄光のために仕えていくことができますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン