2019年4月14日(日) 主日礼拝
聖書箇所:ヨハネ 19:16b〜22(新共同訳)
イエス キリストが十字架を負われた週を受難週と呼びます。今週がその受難週です。
イエスはユダの裏切りにより、ローマの歩兵隊と最高法院に仕える役人たちによって逮捕されました。
エルサレムの指導者たちは、イエスを死刑にしようとしていました(11:53)。当時、ユダヤはローマ帝国の支配下にあり、ローマから派遣された総督の許可なくして、死刑を執行することができませんでした。そこでイエスは、大祭司の尋問を受けた後、総督官邸に連れて行かれ、総督ピラトの尋問を受けます。エルサレムの指導者たちは、ローマに対する反逆罪でイエスを訴えました。
しかしピラトは「わたしはあの男に何の罪も見いだせない」(18:38)と言ってイエスを赦そうとします。それで、ユダヤ人たちは必死でイエスを死刑にさせようとします。
ついには「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています」(19:12)と言ってピラトを脅し、ピラトにイエスを十字架につける許可を出させます。
こうして彼らはイエスを引き取り、十字架につけるためにヘブライ語でゴルゴタ「されこうべの場所、髑髏の場所」と呼ばれる処刑場へとイエスを向かわせました。
しかし聖書はここで「イエスは、自ら十字架を背負い」と記します。ヨハネによる福音書は、一つの表現に複数の意味を重ねて表現するという特徴があります。
ここでも、イエスは自分がつけられる十字架を自分で背負ったという意味だけでなく、イエスは十字架を負わされたのではなく、自ら負われ、自ら十字架の道を進まれたことを表しています。
福音書は、逮捕の場面でも「イエスはご自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て」(18:4)と記しています。福音書の編集者は、イエスが、逮捕された、十字架を負わされたという受け身ではなく、ご自分の身に起こることを何もかも知っていて、逮捕しに来た者たちの前に自ら進み出て、尋問でも語るべきことを語り、自ら十字架を負われたのだと確信しています。イエスは、運悪く逮捕されたのでも、残念なことに十字架につけられたのでもありません。罪人を救いたいという父なる神の御心を共にして、自ら十字架を負うために進み行かれたのです。
イエスを亡き者にしようとしたユダヤ人たちは、ゴルゴタでイエスを十字架につけます。また一緒にほかの二人をも、イエスを真ん中にして、その両側に十字架につけました。この一緒に十字架につけられた二人については、ルカによる福音書が記述しています(ルカ 23:39~43)。
十字架は、ローマに対する反逆者になされる刑罰で、ローマの市民権を持つ者にはなされませんでした。十字架はできるだけ苦しみを長引かせ、人々に見せしめとする残酷な刑罰でした。
しかし、神を拒絶するエルサレムの指導者たちの不信仰、自分の立場を守るために無実と知りながら十字架を許す異邦人の不信仰さえも用いられる神の御心が、この十字架には現れていました。聖書は告げます。「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。『木にかけられた者は皆呪われている』と書いてあるからです」(ガラテヤ 3:13, 参照:申命記 21:22,23)。キリストはわたしたちを呪いから贖い出すために、神の民の不信仰、異邦人の不信仰さえも身に負って、十字架にお掛かりになったのです。
神の御心は、罪人の悪意も敵意もすべてを包み込んでくださいます。イエス キリストこそ「わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえ」(1ヨハネ 2:2)なのです。だからわたしたちは「自分は救われないかもしれない」という疑いが拭えなかったとしても、キリストの十字架はその疑いを打ち砕いてくださいます。わたしたちは信仰深く装うことなく、今の自分自身そのままの姿でキリストの十字架の前に進み出ることができるのです。
ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上に掛けさせました。それには「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いてありました。イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がその罪状書きを読みました。それは、ユダヤ人の言語であるヘブライ語、ローマ帝国の公用語であるラテン語、そして当時の地中海世界の共通語となっていたギリシア語で書かれていました。つまり、世界の人々にイエスの十字架が告げ知らされたのです。
すべての人がこのキリストの十字架を知り、このキリストの十字架がこの自分を罪から救い出すものであることを知って、神へと立ち帰ることができるように、初めからキリストの十字架は世界の人々に向けて語られ、証しされていたのです。そして今や、わたしたちが日本語で聞くにまで至っています。
ここでも神の不思議が起こります。
ユダヤ人の祭司長たちがピラトに「『ユダヤ人の王』と書かず、『この男は「ユダヤ人の王」と自称した』と書いてください」と願い出ますが、しかしピラトは、「わたしが書いたものは、書いたままにしておけ」と答えました。
ピラトは、祭司長たちが「もしこの男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではありません。王と自称する者は皆、皇帝に背いています」(19:12)と言って、自分を脅し圧力を掛けてきたことに腹を立てていました。
キリストの十字架の出来事は、全く信仰に囲まれていません。敵意、悪意、不信仰が取り囲みます。それでも神のご計画は実現されるのです。ひとり子を遣わしてまで、その命をかけてまで、わたしたちを救おうとされる神の愛の前に立ちはだかることのできるものは何一つありません。
どれほど世界が混沌としているように見えても、罪の世の現実を前にして希望など持てないように思えたとしても、どんなものも神の御心を妨げることはできません。イエス キリストは、敵意、悪意、不信仰のただ中を揺らぐことなく進み行かれ、十字架で罪に勝利されたのです。
ですから「わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めて」(ローマ 8:37)いるのです。キリストの十字架と復活によって、罪と死に勝利しているのです。わたしたちは、キリストの十字架によって、キリストのものとされています。キリストがご自身の命を代価として支払われ、わたしたちを罪の支配下から贖い出し、ご自身のものとしてくださったのです。キリストの命によって、わたしたちは贖われ、今キリストのものとされているのです。ですから、イエス キリストがわたしたちのただ一人の主なのです。生きているときも、死に臨むときも、わたしたちは既にわたしたちの真実な救い主、イエス キリストのものとされているのです(ハイデルベルク教理問答 問1)。ですからもはや、罪もこの世の力もどんなものも、わたしたちをイエス キリストから引き離すことはできないのです(ローマ 8:38,39)。
だからわたしたちは「主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝」(1コリント 15:57)するのです。その感謝を献げる場が、祈りであり、礼拝なのです。わたしたちが、神の救いの御業、そして父・子・聖霊なる神ご自身を喜ぶことができるようにと、礼拝を通して、御言葉と聖礼典を通して、神の救いの御業を語り続けてくださっているのです。
実は、わたしたちがイエス キリストを知っている、信じているというのは、ものすごいことです。信仰は、わたしたちがキリストの救いに与り、キリストと共に生きていくために、神が与えてくださった恵みの賜物です。
どうかキリストを知っていること、信じていることを、決して小さなことだと思わないでください。信仰は、神がわたしたちを捉え導いていてくださる証しです。信じているわたしたちがすごいのではありません。わたしたちに信仰を与えてくださった神の恵みがすごいのです。ある信仰の先輩は語ります。「一人のキリスト者が生まれるということは、天地創造に匹敵する奇跡である」と。
この神の恵みにより、わたしたちは、信仰を通して、キリストの十字架がわたしたちのためのものであることを知り、救いのただ中に今入れられているのです。
ハレルヤ
父なる神さま
わたしたちの救いのために、イエス キリスト自ら進み行き、十字架を負ってくださったことを感謝します。あなたは十字架によって、敵意も悪意も不信仰も、あなたの御業を妨げることができないことを証ししてくださいました。どうかキリストの十字架によってわたしたちのすべての罪が贖われ、赦され、救いに入れられていることを確信させてください。どうかこの時、主がわたしたちのために成し遂げてくださった十字架を仰ぎ、あなたの愛の深さを知ることができますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン