聖書の言葉を聴きながら

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マルコによる福音書 1:9〜11

2020-12-31 11:59:37 | 聖書
2020年12月30日(水) 祈り会
聖書:マルコ 1:9〜11(新共同訳)


 マルコによる福音書は、イエスの公生涯、つまり救い主として活動を始めたところ、イエスの洗礼から書き始めます。
 きょうの前段、2~8節は、イエスに洗礼をした洗礼者ヨハネの説明です。

 洗礼は、罪の洗い清めを表し、神の子として新しく生き始めることを表します。洗礼を受けて、キリスト者となり、教会員となります。
 プロテスタント、広く福音主義の教会は、洗礼と聖晩餐の二つを聖礼典としています。聖礼典、聖なる礼典とは、神の救いの恵みを目に見えるしるしとして表すものです。見える御言葉と言ったりもします。
 聖礼典は、英語のサクラメントという言い方もよく使われますが、元々ラテン語でサクラメントゥム、ギリシャ語でミュステーリオンと言います。教派によって訳語が違い、ちなみにローマ カトリック教会では秘蹟と呼びます。

 きょうの箇所ですが「イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられ」ました。
 不思議なことが書かれています。「ヨハネから洗礼を受けられた」と言うのです。4節を見ますと「洗礼者ヨハネが・・罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。・・住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた」とあります。先ほども言いましたが、洗礼は、罪の洗い清めを表し、神の子として新しく生き始めることを表すものです。しかしイエスには、悔い改めるべき罪がないのです。

 聖書はイエスについて何と言っているかと言うと、「罪と何のかかわりもない方」(2コリント 5:21)「御子には罪がありません」(1ヨハネ 3:5)「罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われた。」(ヘブライ 4:15)また「聖であり、罪なく、汚れなく、罪人から離され、もろもろの天よりも高くされている大祭司」(ヘブライ 7:26)「罪を犯したことがなく、/その口には偽りがなかった」(1ペトロ 2:22)と述べています。

 では何故イエスは自ら進んで洗礼を受けられたのでしょうか。

 ヨハネによる福音書には「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである」(ヨハネ 13:15)というイエスの言葉があります。イエスは、わたしたちを救いへと導くために、わたしたちが歩むべき道を先立って歩んでくださったのです。

 イエスは、わたしたちのために、ご自身には必要のないことをなしてくださいました。それは洗礼だけではありません。人となってこの世に来られることも(受肉)、十字架を負われることも、ご自身の必要からと言うよりも、わたしたちの救いのためになしてくださいました。

 だから「水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように」イエスの上に降りました。そして「『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」のです。聖霊なる神も父なる神も、救い主の道を歩むキリストと共にあることを現されました。
 自分の必要のためではなく、わたしたち罪人の救いのために、人となってくださり、救い主として十字架へと歩み行かれました。聖書はそれを「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピ 2:6~8)と言っています。
 神のひとり子であるイエスが、救い主の務めを担い、ご自身をわたしたち罪人に与えてくださったのは、まさしく神の御心でした。救い主として歩み出すイエスの洗礼に際して、父なる神も聖霊なる神も、賛同を示すべく御姿を現されました。父・子・聖霊なる三位一体の神が、救いの御業の成就が神の御心であることを示されたのです。

 かつてジュニア青年部(高校生や大学生の年代)の集会で「洗礼を受けないと救われないのですか。洗礼を受けなければいけませんか」という質問が出たことがあったそうです。最初に言いましたように、洗礼という礼典、聖礼典は、神の救いの恵みを目に見えるしるしとして表すものです。それは救いを確認するために神が与えてくださった恵みです。マルティン ルターという人は、自分が救われていることへの不安が襲ってくるとき、「このわたしは、イエス キリストの洗礼を受けている者である」と何度も紙に書いたというエピソードが残っています。聖礼典、洗礼も聖晩餐も、わたしたちが救いを確認するために神が与えてくださった恵みです。
 わたしたちは洗礼という儀式によって救われるのではなく、イエス キリストご自身によって救われます。洗礼は、わたしたちがイエス キリストによって罪贖われ、清められ、神の子とされていることを確認する恵みです。イエスは、わたしたちが恵みの中を希望を持って歩めるように、救い主として洗礼を受けてくださったのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 イエス キリストが、わたしたちの救いのために洗礼を受けてくださったことを感謝します。イエス キリストによって、わたしたちの前には神の国に至る救いの道が開かれています。イエスが先立って歩んでくださり、その道が復活、そして神の国に至る道であることを明らかにしてくださいました。どうか備えられたこの救いの道を、主にある兄弟姉妹と共にキリストの希望に支えられて歩み行くことができますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

マルコによる福音書 1:1

2020-12-27 16:41:46 | 聖書
2020年12月27日(日) 主日礼拝  
聖書:マルコによる福音書 1:1(新共同訳)


 聖書は、キリスト以前の旧約とキリスト以後の新約からなっています。新約の冒頭には、四つの福音書が収められていて、マルコによる福音書は二番目に収められています。二番目ですが、今日、マルコによる福音書が一番最初に編纂された福音書だと考えられています。
 なぜマタイによる福音書が一番最初に置かれているのか。それは、マタイ福音書がユダヤ人に向けて書かれた福音書で、(旧約で)「言われていたことが実現するためであった」とか「言われていたことが実現した」という表現が何回も出てきます。それで旧約とのつながりで一番目に置かれたのではないかと思います。

 マルコによる福音書は冒頭「神の子イエス・キリストの福音の初め」という簡潔な表現で始まります。
 先程言いましたように、福音書という形式の最初の文書がマルコによる福音書です。イエス キリストの生涯を福音という視点で捉えた最初のものです。
 福音というのは「よい知らせ」という意味です。ですから「イエス・キリストの福音」というのは、「イエス キリストがもたらしてくださったよい知らせ」という意味です。

 この個人名として用いられる「イエス キリスト」という名前ですが、これは名字と名前ではありません。当時、多くの人は名字を持たず、住んでいた土地の名前と合わせて「ナザレのイエス」つまりナザレ村に住んでいるイエスであるとか、父の名前と合わせて「アブラハムの子 イサク」だとか「エッサイの子 ダビデ」というように呼ばれていました。

 キリストというのは、ヘブライ語のメシアをギリシャ語に訳したもので「油注がれた者」という意味です。
 油を注ぐというのは、神の務めに聖別し任命することを表します。王や祭司を任職するときに油が注がれました。それがイエスがお生まれになった時代には、神が最後に遣わされる「救い主」を表す言葉として使われていました。ですからイエス キリストというのは、「イエスは救い主です」という信仰告白の表現でした。

 新約で最初に書かれたのは(ローマの信徒への手紙など)手紙・書簡ですが、最初のものは紀元50年前後に書かれたものであろうと考えられています。イエスの十字架と復活は、紀元30年頃ですから、その20年後ぐらいに書かれ始めました。その最初期に書かれたと考えられる手紙には「イエス・キリスト」という表現が何度も出てきます。紀元50年頃には、キリスト者の間で「イエス・キリスト」という言い方が定着していたことが分かります。
 ちなみにマルコによる福音書が書かれたのは紀元70年前後と考えられています。福音書が編纂されるようになった主な理由としては、イエスを直接知っている、イエスの話を直に聞いた、イエスの業を見ていた弟子たちが、地上の生涯を終えて天に召されていったからです。救い主イエスの言葉と業が、うろ覚えになったり、いい加減になったりしないように、イエスを直接知っている者たちの証言をまとめておこうとなっていったと考えられています。

 今日、マルコによる福音書の編集者が誰かは分からない、とされていますが、伝統に従ってここではマルコと呼んでおきたいと思います。
 マルコが、イエスがキリスト=救い主であると信じる主にある兄弟姉妹たちのために、またまだイエスを知らない人たちに「イエス キリストがもたらしてくださったよい知らせは、これです」とまとめたものが、マルコによる福音書です。
 その中身は「救い主が来られた。救い主が救いの御業を成し遂げられた。救い主はナザレのイエス。イエスが語られた言葉、なされた業はこれ。イエスは十字架にお掛かりになり、復活された」というものです。つまり、イエス キリストの福音=よい知らせというのは、イエス キリストご自身なのです。そしてマルコによる福音書は、イエスが救い主として歩み出されたところ、洗礼者ヨハネから洗礼を受けられるところから始めます。

 そしてマルコは「イエス・キリストの福音の初め」と言って福音書を書き始めます。何が福音の初めなのか。それは、洗礼から十字架、そして復活に至る救い主の生涯こそが福音の初め、始まりなのです。ですから 1:1の言葉は、このマルコによる福音書全体の表題なのです。イエス キリストからよい知らせは始まったのです。そして、それは今に至るまで続いています。イエスが救い主=キリストであると信じて、救いに入れられ、永遠の命に与る神の子が起こされています。そしてこれからも続きます。救いの完成する日まで続いていきます。そしてその日まで、マルコによる福音書は読まれ、語られ続けるのです。

 マルコによる福音書が編纂されたことは、大きな神の恵みです。マルコによる福音書ができたことから、マタイによる福音書、ルカによる福音書が編纂されました。そしてヨハネによる福音書も。わたしたちは、福音書を通してイエス キリストに出会い、イエス キリストを知ります。会ったことがなくても、声を聞いたことがなくても、イエスがキリスト=救い主であると信じるほどに出会い、知ることができます。聖霊なる神が働いてくださり、「イエスは主である」と告白させてくださることを経験します(1コリント 12:3)。
 マルコによる福音書は、聖書の他の文書と共に神の言葉です。今も生きて働く神の言葉です。

 1:1には「神の子」という言葉が最初にあります。注の付いている聖書や、注解書を見ると、「神の子」という言葉は「最古の有力な写本の一つには欠けており・・後代に付加された可能性がある」といったことが記されています。これは、マルコが書き上げたマルコによる福音書の原本こそ本物のマルコによる福音書という錯覚があるのではないかと思います。
 マルコによる福音書は誰か一人の手によって書かれたのではなく、語り継がれてきたイエスが語られたこと、イエスがなされた業が福音書という文書に編纂されていきました。最初は繰り返し語られる口伝でした。先に言いましたように、マルコによる福音書が形を取ったのは紀元70年前後と思われます。イエスが十字架に掛かり、復活されたのが30年頃、では最初の福音書ができるまでの間、どのようにしてキリストの福音は伝えられたのでしょうか。それは弟子たちの証しであり、その証しを聞いた人たちの口伝なのです。そして文書になったものは、信じる者たち、つまり教会によって保存され、伝えられていきました。そしてそれを導かれたのは、イエス キリストをわたしたちに与えてくださった神ご自身です。誰よりも神ご自身がイエス キリストを伝えたいと願っておられるので、二千年の時を超えて、イエス キリストは伝えられてきました。

 聖書学の学問的研究は、大切なものだと思います。多くの益をもたらし、説教に影響を与えてきました。しかし、時を超えてイエス キリストを伝えてくださる神の御業の前に身を低くする謙遜さは必要です。
 「神の子」という表現は、後代の付加かもしれません。それも含めて神の導きであるとわたしは考えています。
 わたしは、古代のキリスト者たちが自分たちのシンボルとして魚のマークを秘かに用いていたその影響があるかもしれないと考えます。公にキリスト者であることを言えない迫害の時代に、地面に魚のマークを書いて自分がキリスト者であることを伝えていたと言われています。ギリシャ語で「イエス キリスト 神の 子 救い主」の頭文字をつなげると、イクテュス(ギリシャ語で魚)という単語になります。そこから魚のマークが使われたのですが、そこにある「イエス キリストは神の子」という信仰が影響を与えたのかもしれません。
 わたしは、この「神の子」という表現には、迫害という悪い状況の中でも信仰を持ち続けたキリスト者たちに対する、神の祝福が込められているのかもしれないと思うのです。

 今年は、新型コロナウィルスによる感染症 COVID-19に対する配慮から、主日礼拝への出席を控えて頂くようお願いし、教会の集会の多くを休みとするという教会にとって異常とも言える事態を経験しました。その影響は今も続いています。けれど、どんなに悪い状態が続いているように見えても、その事も含めて、ひとり子を遣わすほどにわたしたちの救いを願っておられる神が導いておられます。イエス キリストの到来により「神の子イエス・キリストの福音の初め」は始まり、今も続いています。教会が礼拝を中断しようと、集会を中断しようと、神の救いの御業は中断されません。誰も、何物も神の御業を妨げることはできません。そして神は、わたしたちを新しい年へと導いていってくださいます。
 神が始めてくださった「神の子イエス・キリストの福音の初め」は、今もわたしたちを包み、救いの完成へ、神の国へと導いていてくださるのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 御言葉を通して、時を貫いてなされるあなたの救いの御業を思うことができましたことを感謝します。様々な出来事があったこの年の終わりに、今もあなたの救いの御業がわたしたちを包み、導いていてくださることを覚えることができますように。あなたにある希望を持って、委ねて新しい年へと歩み出させてください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

ヘブライ人への手紙 3:1〜14

2020-12-24 19:50:23 | 聖書
2020年12月23日(水) 祈り会
聖書:ヘブライ 3:1〜14(新共同訳)


 きょうは日曜日の説教の続きの箇所です。
 1節の「だから」は直前の2章で語ったことを指しています。イエスは、わたしたちと同じ血と肉を備えて真(まこと)に人となられた。ご自分の命を献げてわたしたちの罪を償う大祭司の務めを果たし、わたしたちを死から救い出してくださった。イエスこそ試練を受けている人たちを助けることがおできになる救い主(メシア=キリスト)である。だから「(神が)遣わされた方(使者)であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい」と言っています。

 ヘブライ人への手紙は旧約の民イスラエル(ヘブライ人)に向けて書かれた手紙です。もう少し詳しく言うと、イエスを信じて、キリスト者となったけれど、今まで行ってきたユダヤ教の儀式に心惹かれ、信仰が揺らいでいるイスラエルとその周囲の人たちに対して書かれた手紙だと思われます。そういう人たちに、これまでの儀式が指し示していたのはイエスであり、イエスこそ待ち望んできた救い主(メシア=キリスト)であるということを伝えようとして書かれた手紙です。

 2節からはイスラエルなら誰もが尊敬するモーセの名前を挙げて、イエスはモーセよりも優れたお方であることを語ります。モーセも忠実に託された務めを果たしましたが、イエスは神の家全体を忠実に治めておられます。
 旧約の民の歴史を引き継ぐイスラエルだからこそ、旧約の約束を実現するため神が遣わされたメシア(キリスト)であるイエスを信じる。神の民が受けるべき神の祝福・恵みをイエスから受け取ってほしいという願いが込められています。

 2, 5, 6節と「神の家」という言葉が出てきます。神の家とは、神がおられる所を表します。聖書では、時に幕屋が神の家を表し、神殿が表してきました。新約の時代、教会がその務めを果たします。そして6節で「わたしたちこそ神の家なのです」と言われているように、わたしたち自身が神の家とされているのです。建物ではなく、わたしたち一人ひとりが神の住まい、神の家なのです。「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。」(1コリント 3:16)「御父が・・その霊により・・信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ・・愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(エフェソ 3:16~17)と言われているとおりです。だから、神の家を治めておられるイエスこそ、わたしたち一人ひとりを治める主なのです。
 この手紙は、イエスこそ神の家を治める大祭司、つまりイエスこそわたしたちの真(まこと)の主であり、イエスを信じイエスに従うとき、神と共に歩めることを示しているのです。

 そこで7節以下が語られます。ここは詩編95(:7b~11 ギリシャ語訳)からの引用です。「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、/荒れ野で試練を受けたころ、/神に反抗したときのように、/心をかたくなにしてはならない。/荒れ野であなたたちの先祖は/わたしを試み、験し、/四十年の間わたしの業を見た。/だから、わたしは、その時代の者たちに対して/憤ってこう言った。/『彼らはいつも心が迷っており、/わたしの道を認めなかった。』/そのため、わたしは怒って誓った。/『彼らを決してわたしの安息に/あずからせはしない』と。」

 旧約の引用に対してこの手紙の著者は「聖霊がこう言われるとおりです」と語ります。著者が詩編は神の言葉であると理解していたことが分かります。
 この件(くだり)は、出エジプトの際、神がカナンの土地の偵察を命じられた際の出来事です(民数記 13:2)。偵察に行った者のほとんどが、そこに住んでいる民を恐れ「あの民に向かって上って行くのは不可能だ。彼らは我々よりも強い」(民数記 13:31)と言ってエジプトへ帰ろうとしました。ただヨシュアとカレブだけが主を信じて従うことを主張しました。そのとき神は、神に不平を言った者は約束の地に入ることはできない(民数記 14:29~30)と言われたことを、この詩編の言葉は述べています。
 引用された詩編の言葉は、神を侮ることを戒める言葉です。著者はキリストを拒んだイスラエルが頑なであり続けることがないように、詩編の言葉を繰り返して語りかけます。

 12~13節「兄弟たち、あなたがたのうちに、信仰のない悪い心を抱いて、生ける神から離れてしまう者がないように注意しなさい。あなたがたのうちだれ一人、罪に惑わされてかたくなにならないように、「今日」という日のうちに、日々励まし合いなさい。」
 創造の時、神が「人が独りでいるのは良くない」(創世記 2:18)と言われたように、独りで神に従うことはできません。独り神に従えるのは、イエス キリストだけです。わたしたちには信仰を励まし合うことのできる主にある兄弟姉妹が必要です。だから神は、神の民を召し出し、教会を建て、わたしたちを神の家族、主にある兄弟姉妹としてくださいました。

 6節に「わたしたちこそ神の家」という言葉が出てきました。この家という言葉は家族とも訳されます。従って、神の家とは神の家族でもあります。
 罪はつながり、絆を破壊します。そして神の救いの御業は、わたしたちに新たなつながり、絆を与えてくださいます。
 神は、罪ゆえにバラバラになり、孤独と死に向かうわたしたちを神の家族として結び合わせ、共に生きる者としてくださいます。だからキリストの救いの御業は、キリストご自身がわたしたちの兄弟となってくださり、神を父とし、わたしたちを主にある兄弟姉妹としてくださったのです。
 教会の交わりもそのために働きます。わたしたちが一人ひとりがキリストとつながり、イエス キリストこそわたしの主ですという信仰を持ち続け、共に救いの恵みに立ち続けるために教会の交わりは用いられていくのです。

 この神が与えてくださる恵みを失わないように、著者は注意を促します。6節「もし確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならば」14節「最初の確信を最後までしっかりと持ち続けるならば」
 どちらにも「確信」という言葉が出てきますが、これはイエス キリストこそわたしたちの大祭司であり、救い主であるという確信です。そして神の民に約束された祝福が、イエスを信じるすべての者に与えられるという確信です。
 この確信を失わずに、神の恵みの中を歩み続けていけるように、神は御子イエスを遣わし、罪を贖い、わたしたちを救いの恵みへと招き続けてくださるのです。だからこそわたしたちは、大祭司イエスへと思いを向け、「今日」という日のうちに、互いに励まし合うのです。
 クリスマスは、その恵みを再確認する時なのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 あなたは今年も御子の誕生を祝う時を与えてくださいました。新型コロナウィルスによる感染症で右往左往しているときも、あなたの約束は変わることなく、イエス キリストこそがわたしたちの大祭司であり、救い主であることをお示しくださいました。
 そしてあなたは、わたしたちが恵みの中を歩み続けていけるように、主にある交わりを与えてくださいました。わたしたちが共に、神の国へと続くイエス キリストの御跡を指し示し、共に恵みに与り、御名を喜び讃えつつ歩んでいくことができますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

ヘブライ人への手紙 2:9〜18

2020-12-20 19:37:17 | 聖書
2020年12月20日(日)主日礼拝  降誕節主日
聖書:ヘブライ人への手紙 2:9〜18(新共同訳)


 きょうはイエス キリストの誕生を祝うクリスマスの礼拝です。
 ですが聖書にはイエス キリストが12月25日に生まれたとは書かれていません。教会がキリストの誕生を祝うのは、神の言葉が真実であることを覚えるためであり、救いの完成を仰ぎ見るためです。

 今年の待降節は、創世記のアブラハム、イサク、ヤコブの話を聞いてきました。キリスト誕生の千年以上前からキリストの到来が指し示されており、アブラハム、イサク、ヤコブに起こった出来事は、イエス キリストにおいて成就しました。
 きょうはヘブライ人への手紙を読みました。ヘブライ人というのは、旧約の民イスラエルのことです。聖書で最初にヘブライ人という言葉が出てくるのは、創世記 14:13で「一人の男がヘブライ人アブラムのもとに来て」と記されています。アブラムつまりアブラハムはヘブライ人であったと聖書は述べています。名前は、時代や相手によって変わります。他にもイスラエルを表す名前は出てきます。きょうは、イスラエルの名前を説明するのが目的ではないので、これ以上の説明は控えます。
 このヘブライ人への手紙は、十字架に掛けられて死んだイエスは一体誰なのかを伝えようとしている手紙です。旧約の民イスラエルの人たちつまりヘブライ人に対して、イエスこそキリストつまり救い主であることを伝えようとしている手紙です。そのためにこの手紙は、イスラエルにとって馴染みのある「大祭司」という言葉でイエスについて語ります。

 祭司というのは、人々が神の御前に進み出られるように、神と人々との間に立って献げ物を献げて、執り成しの務めを果たす存在です。そして大祭司というのは、祭司の長であり、年に一度、贖罪の日に至聖所に入り、全イスラエルのための贖罪の儀式を行いました。
 旧約には罪を贖う規定が細かく定められていましたが、罪を犯したことに気づかず贖われていない罪があるかもしれません。そうした贖われていない罪がイスラエルに滅びをもたらすことがないように、大祭司が贖罪の日に至聖所で贖いをするのです。
 ヘブライ人への手紙は、大祭司はイエス キリストを指し示す存在であり、イエス キリストこそ真の大祭司、すべての人の救いのために自らの命を十字架で献げ、すべての罪の贖いを成し遂げてくださった救い主であると述べているのです。

 きょうの箇所を見ていきましょう。
 9節には「イエスが、死の苦しみのゆえに、『栄光と栄誉の冠を授けられた』」とあります。イエスは十字架に掛けられて地上の生涯を終えられました。聖書はこの死によって罪人が贖われたと教えます。イエスの死は「神の恵みによって、すべての人のために死んでくださった」ものだと言っています。つまり、イエスはすべての人のために死んでくださった故に、救い主なのだと言うのです。そしてイエスはこの十字架の死によって復活の栄光と、救い主としての栄誉の冠を授けられたのです。
 イエスの十字架と復活こそ、教会が二千年語り続け、宣べ伝えてきたことです。

 10節では「多くの子らを栄光へと導くために、彼らの救いの創始者を数々の苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の目標であり源である方に、ふさわしいことであった」と言われています。
 イエスの数々の苦しみ、そして死は、イエスを完全な者にしたと言うのです。完全な者というのは、救い主として完全であるということです。つまり、イエスによって救われない人は一人もいない、ということです。イエスに救いを求めてもイエスの力及ばず、残念ながらイエスによっては救われないという人はいないのです。それは、イエスが数々の苦しみを受け、十字架で命を献げてくださったことによるものです。

 そのためにイエスは真(まこと)に人となって世に来てくださいました。そのことがきょうの箇所では、14節から書かれています。
 14~15節「子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。」
 イエスはわたしたちの所へ来てくださいました。「神は我々と共におられる、すなわちインマヌエル」(マタイ 1:23、イザヤ 7:14)という神の言葉がイエス キリストにおいて成就しました。それはわたしたちと全く同じ肉体を取り、真(まこと)に人となって来てくださいました。それは「死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるため」でした。罪の結果である死からわたしたちを救い出すために、罪を除くすべての点でわたしたちと同じくなってくださり、自らの命をかけて罪を償ってくださいました。それこそが真の大祭司の果たすべき役割だったのです。自ら「試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けること」がおできになったのです。

 10節に「ふさわしいこと」という言葉がありますが、数々の苦しみを通し、自らの命をも献げて、完全な救い主となり、すべての人の救い主となることは、まさしく真の大祭司の務めであり、神の御心だったのです。
 イエスは試練のただ中に来て、試練を受けて苦しまれました。死に至るまで苦しまれました。そして苦しまれたからこそ、苦難の中にある者を助けることがおできになります。イエスはわたしたちの苦しみを知っておられます。そして死でさえも受け入れられ、身をもって知っておられるからこそ、わたしたちを死から救い出すことがおできになるのです。イエスはわたしたちの所へ来てくださいました。本当にわたしたちと共にいてくださいます。苦しみも死もその身に負って、救い主となってくださいました。イエスは、罪に溺れるわたしたちに対して、安全な岸から手を差しのばして「この手につかまれ」と言われるのではありません。溺れているわたしたちの所へ来てくださり、救い出してくださるのです。

 神はイエス キリストによって、救いの約束を成就してくださいました。イエス キリストにおいて、神はご自身の真実を証ししてくださったのです。
 最初に言いましたように、教会がクリスマスを祝うのは、神の言葉が真実であることを覚えるためであり、救いの完成を仰ぎ見るためです。
 イエスは救いの創始者にして救いの源であるお方です。イエスの許に、そしてイエスと共に救いはあります。聖書が告げる救いは、イエスと共に、神と共に生きることです。十字架の死に至るまで神と共に歩まれたイエスは、救いに至る目標でもあります。イエス キリストの救いに与るわたしたちは「栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。」(2コリント 3:18)そして終わりの日には、イエス キリスト同様死から甦り、神の国へ招き入れられるのです。

 今年も待降節・降誕節を通して、神の真実を聞く時が与えられ、神の真実が示されました。
 聖書は語ります。「こうして、わたしたちには、預言の言葉はいっそう確かなものとなっています。夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していてください。」(2ペトロ 1:19)
 イエス キリストは、インマヌエルの主。わたしたちの所に来てくださり、世の終わりまでわたしたちと共にいてくださる真の救い主なのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 わたしたちの罪を贖い、わたしたちを死から救い出す真の大祭司イエス キリストをお遣わしくださったことを感謝します。あなたの御言葉は真実であり、決して虚しくなることはありません。信仰によりあなたがお遣わしくださった救い主と結び合わされ、救いに与ることができますように。罪がもたらした死から解放され、キリストの命に生きる者としてください。信仰により救いの完成を望み見て、キリストと共に生きる者としてください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

創世記 28:10〜22

2020-12-18 17:08:37 | 聖書
2020年12月16日(水) 祈り会  待降節第4主日分
聖書:創世記 28:10〜22(新共同訳)


 きょうは、アブラハムの孫、ヤコブの話です。

 待降節は、クリスマス(12/25)前4回の日曜日です。本来ですと、今度の日曜日(12/20)は待降節第4主日です。ですが日本では、12/25(クリスマス)は祝日ではないので、12/25日の直前の日曜日、つまり待降節第4主日を降誕節主日として守る教会が多いと思います。わたしたちの教会も12/20に降誕節礼拝を守ります。そこで降誕節を祝う日曜日の直前の祈り会で、待降節第4主日に聞く予定だった話をしたいと思います。

 本来、神の祝福はアブラハムからイサクへ、そしてイサクの長男エサウに受け継がれていくはずでした。しかし、神の祝福がどうしてもほしかったエサウの双子の弟ヤコブは、あるとき空腹で狩りから帰ってきたエサウが、ヤコブの作っていた煮物をほしがったので、エサウの長子の権利と交換することを誓わせました(25:27~34)。長子の権利というのは、はっきりと書かれてはいないのですが、神の民として歩むことのように思います。
 二人の母リベカは、エサウよりもヤコブを愛していました(25:28)。エサウのヘト人の妻 ユディトとバセマトと合わなかったこともあり(イサクとリベカの信仰・習慣と、ヘト人の嫁たちの信仰・習慣が合わなかったのでしょうか)、リベカはヤコブがイサクの祝福を受け継ぐように策を講じます(27:5~17)。
 こうしてヤコブは長子の権利を軽じていた兄エサウの隙をついて、神の祝福をだまし取ってしまいました(27:18~29)。長子の権利のみならず神の祝福までヤコブに取られてしまったエサウは、父イサクが死んだら弟ヤコブを殺してしまおうと考えました(27:41)。
 しかし母リベカは、自分の兄のいるハランにヤコブを逃がし、同じ信仰・習慣を共にできる妻をめとらせようとしました(27:42~28:5)。

 ヤコブは、ベエル・シェバを立って、ハランへと向かいます(28:10)。アブラハムとは違う仕方ですが、ヤコブもまた住み慣れた所を離れて旅立ちます。
 途中、ヤコブは一晩、石を枕にして野宿をしました。ハランに行くには何日もかかったはずですから、野宿はこの1回ではなかったはずです。ただ、この夜の野宿は特別でした。
 その夜、神は夢の中でヤコブに語りかけられました。
 天に達する階段を御使いたちが上り下りしていました。この階段は、天から地へと向かって延びている階段でした。つまり神が地へと降ってきてくださる階段です。15節で神は「わたしはあなたと共にいる」と言われましたが、神がヤコブと繋がっていてくださることを示す階段でした。

 神は言われます。「わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」(28:13~15)
 アブラハムに与えられたのと同じ約束がヤコブにも与えられます。「地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。」(参照 12:3)
 そして、イエス キリストによって出来事なった言葉が与えられます。「見よ、わたしはあなたと共にいる。」
 天使がヨセフにイエスの誕生を告げた出来事を、マタイによる福音書はこう記しています。「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。」(マタイ 1:22~23)

 このヤコブの経験した出来事には、他にもイエス キリストを指し示すことがあります。イエス キリストは、ヤコブの見たこの夢をご自分を示すものだと言われました。「よくよくあなたがたに言っておく。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上に上り下りするのを、あなたがたは見るであろう。」(ヨハネ 1:51)
 ヤコブは、眠りから覚めて「これは天の門だ」と告白しましたが、イエス・キリストはご自分が救いに至る門であると言われました。「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われ、また出入りし、牧草にありつくであろう。」(ヨハネ 10:9)
 ヤコブはイエス キリストよりも千数百年昔の人物です。もちろんイエス キリストを知りません。しかし、ヤコブに示されたことは、イエス キリストによって成就し、出来事となったのです。

 これまで、ヤコブに主体的な信仰はありませんでした。父や母が信じている信仰を慣習的に受け入れていたのだと思います。ここまでのところで、ヤコブが神と共に歩む、神に従うという信仰は記されていません。この夢は、ヤコブにとっての重要な神体験でした。
 人間は、自分の力で神を知ることはできません。神を知ることは、ただ神が働きかけてくださるとき、啓示されるときに起こります。
 ヤコブは眠りから覚めて、「まことに主がこのところにおられるのに、わたしは知らなかった」と告白しました。ヤコブは、自分を超える大きな神の働きのただ中に置かれていることを知って、恐れます。神と共に歩むヤコブの新しい歩みが始まりました。この出来事一つでヤコブが全く新しくなったわけではありません。この後にも、神の忍耐深い導きがあり、彼は少しずつ変えられていきます。しかし、確かに新しい歩みが始まりました。それは神の働きかけによるものです。

 イサクの祝福はヤコブにも与えられました。祝福を与えられたというと、何かバラ色の人生が始まるかのように思われるかもしれません。しかし、ヤコブのこれ後の歩みはバラ色ではありません。彼は、父母から離れてパダン・アラムに逃げて行きました。彼に与えられた祝福とは神との絆。いつも神と共にいるということです。そんなものはありがたくないと思う人もいるかもしれません。今の自分の苦しみを解消してくれと言う人もいることでしょう。しかし聖書は、神との絆こそが本当の祝福であると伝えています。

 ベテル、それは神の家という意味です。ベテルはヤコブの見た夢の話と共に、神が共におられることを示します。「見よ、わたしはあなたと共にいる。」それは後に、幕屋が示し、神殿が指し示すものです。そして今日では、教会が示すことでもあります。
 さらに聖書はこう語ります。「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。」(1コリント 3:16)「御父が・・その霊により・・信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ・・愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(エフェソ 3:16~17)「キリストがわたしの内に生きておられるのです。」(ガラテヤ 2:20)
 神は聖霊においてわたしたちと共にあり、共に生きてくださっているのです。

 キリストの降誕を待ち望む待降節の今、神の言葉は出来事となる真実な言葉であることを思います。神はわたしたちと共にいてくださるお方であることを思います。わたしたちが祝福され、神はわたちたちを通してすべての人を祝福してくださることを思います。神ご自身がわたしたちの喜びとなり、希望となってくださいました。
 「天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」(ルカ 2:10~11)


ハレルヤ


父なる神さま
 罪を抱えたわたしたちが、あなたの真実を知ることができるように、あなたはすべてを用意し整えて御業をなしてきてくださいました。あなたの救いの御業を聞いて、あなたを信じることができますように。代々の聖徒たちと共に、あなたの言葉が実現したイエス キリストの誕生を喜び祝うことができますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン