2020年12月30日(水) 祈り会
聖書:マルコ 1:9〜11(新共同訳)
マルコによる福音書は、イエスの公生涯、つまり救い主として活動を始めたところ、イエスの洗礼から書き始めます。
きょうの前段、2~8節は、イエスに洗礼をした洗礼者ヨハネの説明です。
洗礼は、罪の洗い清めを表し、神の子として新しく生き始めることを表します。洗礼を受けて、キリスト者となり、教会員となります。
プロテスタント、広く福音主義の教会は、洗礼と聖晩餐の二つを聖礼典としています。聖礼典、聖なる礼典とは、神の救いの恵みを目に見えるしるしとして表すものです。見える御言葉と言ったりもします。
聖礼典は、英語のサクラメントという言い方もよく使われますが、元々ラテン語でサクラメントゥム、ギリシャ語でミュステーリオンと言います。教派によって訳語が違い、ちなみにローマ カトリック教会では秘蹟と呼びます。
きょうの箇所ですが「イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられ」ました。
不思議なことが書かれています。「ヨハネから洗礼を受けられた」と言うのです。4節を見ますと「洗礼者ヨハネが・・罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。・・住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた」とあります。先ほども言いましたが、洗礼は、罪の洗い清めを表し、神の子として新しく生き始めることを表すものです。しかしイエスには、悔い改めるべき罪がないのです。
聖書はイエスについて何と言っているかと言うと、「罪と何のかかわりもない方」(2コリント 5:21)「御子には罪がありません」(1ヨハネ 3:5)「罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われた。」(ヘブライ 4:15)また「聖であり、罪なく、汚れなく、罪人から離され、もろもろの天よりも高くされている大祭司」(ヘブライ 7:26)「罪を犯したことがなく、/その口には偽りがなかった」(1ペトロ 2:22)と述べています。
では何故イエスは自ら進んで洗礼を受けられたのでしょうか。
ヨハネによる福音書には「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである」(ヨハネ 13:15)というイエスの言葉があります。イエスは、わたしたちを救いへと導くために、わたしたちが歩むべき道を先立って歩んでくださったのです。
イエスは、わたしたちのために、ご自身には必要のないことをなしてくださいました。それは洗礼だけではありません。人となってこの世に来られることも(受肉)、十字架を負われることも、ご自身の必要からと言うよりも、わたしたちの救いのためになしてくださいました。
だから「水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように」イエスの上に降りました。そして「『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」のです。聖霊なる神も父なる神も、救い主の道を歩むキリストと共にあることを現されました。
自分の必要のためではなく、わたしたち罪人の救いのために、人となってくださり、救い主として十字架へと歩み行かれました。聖書はそれを「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピ 2:6~8)と言っています。
神のひとり子であるイエスが、救い主の務めを担い、ご自身をわたしたち罪人に与えてくださったのは、まさしく神の御心でした。救い主として歩み出すイエスの洗礼に際して、父なる神も聖霊なる神も、賛同を示すべく御姿を現されました。父・子・聖霊なる三位一体の神が、救いの御業の成就が神の御心であることを示されたのです。
かつてジュニア青年部(高校生や大学生の年代)の集会で「洗礼を受けないと救われないのですか。洗礼を受けなければいけませんか」という質問が出たことがあったそうです。最初に言いましたように、洗礼という礼典、聖礼典は、神の救いの恵みを目に見えるしるしとして表すものです。それは救いを確認するために神が与えてくださった恵みです。マルティン ルターという人は、自分が救われていることへの不安が襲ってくるとき、「このわたしは、イエス キリストの洗礼を受けている者である」と何度も紙に書いたというエピソードが残っています。聖礼典、洗礼も聖晩餐も、わたしたちが救いを確認するために神が与えてくださった恵みです。
わたしたちは洗礼という儀式によって救われるのではなく、イエス キリストご自身によって救われます。洗礼は、わたしたちがイエス キリストによって罪贖われ、清められ、神の子とされていることを確認する恵みです。イエスは、わたしたちが恵みの中を希望を持って歩めるように、救い主として洗礼を受けてくださったのです。
ハレルヤ
父なる神さま
イエス キリストが、わたしたちの救いのために洗礼を受けてくださったことを感謝します。イエス キリストによって、わたしたちの前には神の国に至る救いの道が開かれています。イエスが先立って歩んでくださり、その道が復活、そして神の国に至る道であることを明らかにしてくださいました。どうか備えられたこの救いの道を、主にある兄弟姉妹と共にキリストの希望に支えられて歩み行くことができますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン
聖書:マルコ 1:9〜11(新共同訳)
マルコによる福音書は、イエスの公生涯、つまり救い主として活動を始めたところ、イエスの洗礼から書き始めます。
きょうの前段、2~8節は、イエスに洗礼をした洗礼者ヨハネの説明です。
洗礼は、罪の洗い清めを表し、神の子として新しく生き始めることを表します。洗礼を受けて、キリスト者となり、教会員となります。
プロテスタント、広く福音主義の教会は、洗礼と聖晩餐の二つを聖礼典としています。聖礼典、聖なる礼典とは、神の救いの恵みを目に見えるしるしとして表すものです。見える御言葉と言ったりもします。
聖礼典は、英語のサクラメントという言い方もよく使われますが、元々ラテン語でサクラメントゥム、ギリシャ語でミュステーリオンと言います。教派によって訳語が違い、ちなみにローマ カトリック教会では秘蹟と呼びます。
きょうの箇所ですが「イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられ」ました。
不思議なことが書かれています。「ヨハネから洗礼を受けられた」と言うのです。4節を見ますと「洗礼者ヨハネが・・罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。・・住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた」とあります。先ほども言いましたが、洗礼は、罪の洗い清めを表し、神の子として新しく生き始めることを表すものです。しかしイエスには、悔い改めるべき罪がないのです。
聖書はイエスについて何と言っているかと言うと、「罪と何のかかわりもない方」(2コリント 5:21)「御子には罪がありません」(1ヨハネ 3:5)「罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われた。」(ヘブライ 4:15)また「聖であり、罪なく、汚れなく、罪人から離され、もろもろの天よりも高くされている大祭司」(ヘブライ 7:26)「罪を犯したことがなく、/その口には偽りがなかった」(1ペトロ 2:22)と述べています。
では何故イエスは自ら進んで洗礼を受けられたのでしょうか。
ヨハネによる福音書には「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである」(ヨハネ 13:15)というイエスの言葉があります。イエスは、わたしたちを救いへと導くために、わたしたちが歩むべき道を先立って歩んでくださったのです。
イエスは、わたしたちのために、ご自身には必要のないことをなしてくださいました。それは洗礼だけではありません。人となってこの世に来られることも(受肉)、十字架を負われることも、ご自身の必要からと言うよりも、わたしたちの救いのためになしてくださいました。
だから「水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように」イエスの上に降りました。そして「『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」のです。聖霊なる神も父なる神も、救い主の道を歩むキリストと共にあることを現されました。
自分の必要のためではなく、わたしたち罪人の救いのために、人となってくださり、救い主として十字架へと歩み行かれました。聖書はそれを「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピ 2:6~8)と言っています。
神のひとり子であるイエスが、救い主の務めを担い、ご自身をわたしたち罪人に与えてくださったのは、まさしく神の御心でした。救い主として歩み出すイエスの洗礼に際して、父なる神も聖霊なる神も、賛同を示すべく御姿を現されました。父・子・聖霊なる三位一体の神が、救いの御業の成就が神の御心であることを示されたのです。
かつてジュニア青年部(高校生や大学生の年代)の集会で「洗礼を受けないと救われないのですか。洗礼を受けなければいけませんか」という質問が出たことがあったそうです。最初に言いましたように、洗礼という礼典、聖礼典は、神の救いの恵みを目に見えるしるしとして表すものです。それは救いを確認するために神が与えてくださった恵みです。マルティン ルターという人は、自分が救われていることへの不安が襲ってくるとき、「このわたしは、イエス キリストの洗礼を受けている者である」と何度も紙に書いたというエピソードが残っています。聖礼典、洗礼も聖晩餐も、わたしたちが救いを確認するために神が与えてくださった恵みです。
わたしたちは洗礼という儀式によって救われるのではなく、イエス キリストご自身によって救われます。洗礼は、わたしたちがイエス キリストによって罪贖われ、清められ、神の子とされていることを確認する恵みです。イエスは、わたしたちが恵みの中を希望を持って歩めるように、救い主として洗礼を受けてくださったのです。
ハレルヤ
父なる神さま
イエス キリストが、わたしたちの救いのために洗礼を受けてくださったことを感謝します。イエス キリストによって、わたしたちの前には神の国に至る救いの道が開かれています。イエスが先立って歩んでくださり、その道が復活、そして神の国に至る道であることを明らかにしてくださいました。どうか備えられたこの救いの道を、主にある兄弟姉妹と共にキリストの希望に支えられて歩み行くことができますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン