聖書の言葉を聴きながら

一緒に聖書を読んでみませんか

はじめてのカテキズム 問い6 その3

2020-05-24 17:57:22 | カテキズム
2020年5月24日(日)主日礼拝  
聖書:創世記 1:27〜28
   ローマの信徒への手紙 8:19〜23(新共同訳)


 現在、新型コロナウィルス感染拡大の状況を鑑み、礼拝堂に共に集うことを控えております。この間、アメリカ合衆国長老教会が子どもたちのために作成しました『はじめてのカテキズム』に沿って説教をしています。
 カテキズムといいますのは、聖書の要約である教理を伝えるためのものです。つまり、聖書はどんなことを言っているのかをまとめたものです。主に問いと答えによって進められていきます。『はじめてのカテキズム』は『みんなのカテキズム』(一麦出版社)に収められています。
 きょうは先週に続き問い6に記されている内容「どのように愛するのか」について聖書に聞きたいと思います。

 問い6「どのようにして神さまを愛するのですか。」「神さまを礼拝し、人を愛し、神さまがお造りになったものを大切にすることによってです。」
 カテキズムは、神の子とされるという恵みに対して、愛することがふさわしいと語ります。カテキズムでは、神を愛するのに三つのことを語ります。神を礼拝すること、人を愛すること、そして被造物を大切にすることです。きょうは三番目の神さまがお造りになったものを大切にすることに思いを向けていきましょう。

 この「神さまがお造りになったものを大切にする」ということを、教会では「被造物の保全」という言葉で言われます。一般の社会では「環境問題」という言葉で語られます。
 日本において環境問題の発端となったのは公害であろうかと思います。明治27年(1894年)の河川法には公害という言葉が出てくるそうです。広く意識されるようになったのは1950年代中頃に大きく問題となった水俣病からだろうと思います。これが1970年代に入りますと、オゾンホールによる皮膚癌の心配や温暖化による海面上昇など世界規模で環境問題が論じられるようになり、環境保護・環境保全活動が活発になされるようになりました。

 こうした中、キリスト教界でも1970年代になると被造物の保全という言葉で教会の課題として環境問題が取り上げられるようになりました。
 教会がその際意識したのは、神が人を創造された後で言われた創世記 1:28「神は彼らを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ』」という言葉です。
 「支配する」は強い印象を与える言葉です。ですがこれは神の御心に従って治める・管理するという意味です。聖書に「神の国」という言葉が出てきます。この国という言葉は、支配するという動詞から派生した言葉です。ですから神の国というのは、神が治め給うところという意味です。神は世界をご自身にかたどって造られた人間に神の御心に従って治める務めを託されたのです。

 ですが、それに気づいたのは環境問題が起こってきてからだと思います。それまでは、自然は自分たちが支配していいもの、無限の財産と思ってきたように思います。
 被造物の保全は大切なことに気づかせてくれました。先程引用した創世記 1:28が最初に語られたとき、そして最初に文字として記されたとき、おそらく今日のような被造物の保全などということは意識にありませんでした。中世のアウグスティヌスも宗教改革者カルヴァンも今日わたしたちが考えるような意味で被造物の保全を考えてはいませんでした。環境問題がなかったからです。長い間意識もされず、神の御心に気づくことがないまま通り過ぎてきても、神の言葉は必要なときにちゃんと語りかけてくださるのです。今、理解できないからと言って神の言葉を「意味はない」と捨ててしまってはいけないのです。必ずその御言葉を必要する後の世代がいることを覚えておかなくてはいけません。

 被造物の保全を考える上で心に留めておきたいのは、ローマ 8:19以下です。「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。」これを書いたパウロも2000年前の人ですから、現代のような環境問題はありません。一体何を思ってこの言葉を書いたのか不思議ですし、パウロを用いて語られる神の御心の深さを思わずにはいられません。いずれにしても人間の罪のために被造物も苦しんでいるのです。罪は周りを巻き込み、影響を与えます。罪は自分一人の問題ではありません。時に被造物の苦しみは、災害となって現れてきます。被造物に責任があることを気づかされます。
 神は世界をお造りになったとき「良しとされた」と何度も記されています(創世記 1:4, 10, 12, 18, 21, 25, 31)。世界は神の喜びと共に造られました。人はこの神の喜びですべてのものが満たされるために治めるのです。古くからの教会の言い回しに倣えば「御名の栄光が現れるように」世界を治めるのです。

 また被造物の保全は、神が教会の外から問いかけられることを教えます。20世紀は教会の外から二つの大きな問いかけがなされました。一つは共産主義です。
 教会の関心が魂の救い、天国のことが主であった時代に共産主義は大きな衝撃を与えました。このことから解放の神学も生まれるようになり、世界的な教会会議では経済の公平の問題が取り上げられるようになりました。
 もう一つが被造物の保全、環境問題です。
 聖書でも、神がアッシリアや新バビロニアを用いて裁きを行い、北イスラエルそして南ユダを滅ぼされたことが記されています。神は教会の外、神の民の外側からも問いかけ、悔い改めを求められるのです。

 被造物の保全については、自然科学との関わりで、教会は相反する二つの非難を受けてきました。一つは、キリスト教会のせいで、特に中世、自然科学の発達は大きく妨げられた。キリスト教会がなければ、今ある問題も100年前に解決していた問題かもしれない、といったような非難がされます。これと反対に自然保護に関わる人たちからは、キリスト教は近代自然科学の発達を後押しし、環境破壊に協力してきたと非難されます。
 ここでこれらの問題を深めることはできませんが、近代、特に20世紀以降、教会は魂の問題、精神の平安といった目に見えない心の問題だけでなく、肉体、経済的な生活、自然環境といった目に見える世界の問題に対しても責任ある態度が求められるようになってきました。そういった状況の中で、教会は神が教会の外の存在を用いて裁かれ、問いかけられたことに気づかされ、また福音が世界に宣べ伝えられていったときに、ローマの社会の中で、具体的な様々な課題を受け止めながら教会を形成し、福音宣教に仕えてきたことに改めて気づかされました。
 そして子どもたちに聖書の教えを伝えるためのカテキズムにも「神さまがお造りになったものを大切にすること」被造物の保全が今や書かれるようになったのです。

 神は創造のときの喜びが、世界に満ちていくように世を治めていってほしいと、人に務めを託されました。「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。」わたしたちは神が造られたすべてのものと主にある喜びを分かち合うのです。
 問い6「どのようにして神さまを愛するのですか。」「神さまを礼拝し、人を愛し、神さまがお造りになったものを大切にすることによってです。」


ハレルヤ


父なる神さま
 あなたは良かったと整えられた世界にアダムとエバを置いてくださいました。そしてわたしたちにその世界を治める務めを与えてくださいました。どうかこの世界があなたの喜びに満ちた世界へと進んでいけるようにわたしたちを導いてください。あなたがお造りになったすべてのものとあなたの祝福を分かち合うことができますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

はじめてのカテキズム 問い6 その2

2020-05-17 13:42:25 | カテキズム
2020年5月17日(日)主日礼拝  
聖書:マタイによる福音書 22:36〜40
   ヨハネの手紙一 4:19〜21(新共同訳)


 現在、新型コロナウィルス感染拡大の状況を鑑み、礼拝堂に共に集うことを控えております。この間、アメリカ合衆国長老教会が子どもたちのために作成しました『はじめてのカテキズム』に沿って説教をしています。
 カテキズムといいますのは、聖書の要約である教理を伝えるためのものです。主に問いと答えによって進められていきます。『はじめてのカテキズム』は『みんなのカテキズム』(一麦出版社)に収められています。
 きょうは先週に続き問い6に記されている内容「どのように愛するのか」について聖書に聞きたいと思います。

 問い6「どのようにして神さまを愛するのですか。」「神さまを礼拝し、人を愛し、神さまがお造りになったものを大切にすることによってです。」
 カテキズムは、神の子とされるという恵みに対して、愛することがふさわしいと語ります。カテキズムでは、神を愛するのに三つのことを語ります。神を礼拝すること、人を愛すること、そして被造物を大切にすることです。きょうは二番目の人を愛することに思いを向けていきましょう。

 おそらく教会のメッセージで一番印象に残るのが「愛」ではないかと思います。わたしが愛という言葉を意識したのは、中学生の時にテレビ局が「愛は地球を救う」をキャッチフレーズにチャリティー番組を始めたときだったと思います。まだ愛という言葉もよく分かっていませんでしたが、地球を包むような大きさを愛という言葉に感じました。
 愛という言葉にはいいイメージがあり、ラブソングの歌詞を見ると憧れを感じます。しかし聖書を読むと、愛に恐れを感じ、尻込みしてしまうことさえあります。
 きょう読みましたマタイ 22:39「隣人を自分のように愛しなさい」は有名ですが、聖書にはこういった言葉もあります。ルカ 6:35「あなたがたは敵を愛しなさい。」初めて読んだとき、わたしの頭は疑問符で一杯になりました。「敵を愛するって何?」

 聖書はこう語ります。1ヨハネ 4:10「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」だからわたしは神がわたしたちを愛されたというのはどういうことかを聖書から聞こうとしました。聖書は、イエス キリストを遣わしたところに愛があると言う訳です。神は罪によって失われたわたしたちを取り戻し、共に生きるためにキリストを遣わされたのです。ですから、神がイエス キリストを通して示されている愛は「共に生きようとする思い」「共に生きようとする意思」なのだと理解しました。

 わたしたち人間にとっては「意思」であることが大切です。「あなたがたは敵を愛しなさい」と言われたときにわたしたちは「敵を好きになりなさい」と言われていると解釈しがちです。しかし「好き・嫌い」は感情です。神が言われているのは「敵を好きになりなさい」ではなく、「敵を愛しなさい」なのです。
 例えば、世界には紛争や飢餓、疫病で死にされされている人たちが大勢います。顔も名前も知らないその人たちが好きかと問われれば、分かりませんとしか言いようがありません。けれど、その顔も名前も知らない人たちが自分とは関係がないから苦しんでも死んでもかまわないとは考えません。そこには今この時この地球で生きている人たちに対する人類愛があるのです。共に生きようという思いがあるのです。ですから執り成しの祈りでは「争いの中で命脅かされている人々、病や飢え、災害に苦しむ人々、差別や迫害に遭っている人々、そして生きる希望を持てずに苦しんでいる人々に、助けの御手を差し伸べてください」と祈ります。

 人を愛することの根柢にあるのは、神がその人を愛しておられるという事実です。1ヨハネ 4:9「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。」神の愛は、わたしたちが生きることを願います。罪によって死に至るのではなく、神と共に生きることを願います。そして1テモテ 2:4「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。」神の願い、救われて神と共に生きるということはすべての人に向けられているのです。
 だから神の愛に応えて、神を愛していくときにも、神と同じように愛することを共有するのです。わたしたちも神と「共に生きよう」と願い、神の御心、御業を「大切に」していくことが、神を愛することなのです。ですからカテキズムは「どのようにして神を愛するのか」という問いの答えに「人を愛する」ことを入れているのです。

 ただ気をつけなければいけないことがあります。愛という言葉はうるわしい言葉です。「神は愛です」(1ヨハネ 4:16)と聖書にあるように、愛は神ご自身を表す特別な言葉です。それだけにわたしたち罪人は愛さえも律法的に用いてしまうことがあります。特にまじめな信仰者ほど「愛せない」「愛することができない」と自分を裁いてしまいます。
 ここはよく確認しておかなくてはなりません。他の律法同様、わたしたち罪人は愛することができないのです。他の律法は守れなくても、信仰を持ったら御心にふさわしく愛せるようになるなどということはありません。愛することもまた神の赦しの中で、欠けだらけの愛であっても祈りつつ愛していくのです。神のご性質を表す愛だからこそ、祈り神に委ねて清め用いて頂かなければならないのです。

 イエスは「どの掟が最も重要か」(マタイ 22:36)と問われたとき、二つの戒めを挙げて、神を愛することと、人を愛することが神の戒めの求めていることであることを明らかにされました。その人を愛する戒めが「隣人を自分のように愛しなさい」(マタイ 22:39)です。ここでは自分と隣人が愛する対象として示されています。
 神は、愛せない罪を抱えている自分を受け入れ、つまり自らをも愛して生きることを示されます。神が愛せないわたしを赦し、受け入れ、愛してくださるからです。そして自分に必要な神の愛が、他者にも必要なものであり、その愛に与らせるためにキリストがその人のためにも十字架を負われ、復活されたことを信じて、不十分な愛であっても共に生きるのです。

 わたしたちキリスト者は、すべての人が神に赦され、受け入れられ、愛されることが必要であることを知っておかねばなりません。人は、神の愛に包まれ、支えられ、導かれてこそ生きていけるのです。ですから、人を愛する、隣人を愛するということも、自分がどれだけ愛せているのかに思いを向けるのではなく、自分の愛を評価し測ろうとするのではなく、神が御子イエスを与えてくださるほどにこのわたしを愛していてくださることにこそ第一に思いを向けていくのです。神の愛に包まれ、導かれるその先に、神に出会いを与えられた人を愛することが現れてくるのです。
 愛することにおいても、神が祝し用いてくださることを信じて愛していくのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 あなたはわたしたちを、愛であるあなたにかたどって愛される者、愛する者としてお造りくださいました。そこには、あなたの愛を受けて歩み続ける恵みがあります。しかし罪ゆえに、わたしたちは愛においても苦しんでいます。どうか信仰を整え、あなたが惜しみなく注いでくださる愛で満たしてください。あなたの愛に導かれて、愛する者として歩ませてください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

はじめてのカテキズム 問い6 その1

2020-05-10 15:25:10 | カテキズム
2020年5月10日(日)主日礼拝  
聖書:ヨハネによる福音書 4:23
   ヘブライ人への手紙 9:14
   ヨハネの黙示録 14:6〜7(新共同訳)


 現在、新型コロナウィルス感染拡大の状況を鑑み、礼拝堂に共に集うことを控えております。この間、アメリカ合衆国長老教会が子どもたちのために作成しました『はじめてのカテキズム』に沿って説教をしています。
 カテキズムといいますのは、聖書の要約である教理を伝えるためのものです。主に問いと答えによって進められていきます。『はじめてのカテキズム』は『みんなのカテキズム』(一麦出版社)に収められています。
 きょうは問い6に記されている内容「どのように愛するのか」について聖書に聞きたいと思います。

 問い6「どのようにして神さまを愛するのですか。」「神さまを礼拝し、人を愛し、神さまがお造りになったものを大切にすることによってです。」
 カテキズムは、神の子とされるという恵みに対して、愛することがふさわしいと語ります。では、どのようにして神を愛したらよいのでしょうか。それに答えるのが問い6です。
 カテキズムでは、神を愛するのに三つのことを語ります。神を礼拝すること、人を愛すること、被造物を大切にすることです。きょうは最初の神を礼拝することに思いを向けていきましょう。

 神を愛することは、神を礼拝することであると言われますが、礼拝とは何でしょうか。それは、神との交わりです。
 礼拝は教会によって多少の違いはありますが、基本二つの要素から成り立ちます。一つは、神の語りかけです。もう一つが、わたしたちの応答です。わたしたちの教会では、神の語りかけは大きく三つあります。招きの言葉と説教と祝福です。それに対してわたしたちの応答は、祈り、讃美、告白、献金によってなされます。
 この礼拝によって、わたしたちは神と出会い、神を知り、信じて生きるのです。神の語りかけの御声を聞き、それに応答することによって神との交わりに生きるのです。
 神はわたしたちと共に生きることを願っておられます。だから神はわたしたちを礼拝へと導かれます。イエスは言われます。ヨハネ 4:23「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。」

 礼拝は来れば誰でも参加することができます。簡単に参加することができます。しかし神が与えてくださった礼拝は、わたしたちを神の愛の深みへと導く限りないものです。
 「霊と真理をもって父を礼拝する」と言われます。
 霊の働きは、結びつける働きです。聖霊はわたしたちをイエス キリストと結び合わせ、キリストの救いに与らせてくださいます。神との絆を造り出してくださいます。
 真理とは、イエス キリストのことです。イエスは言われました。ヨハネ 14:6「わたしは道であり、真理であり、命である。」イエス キリストこそ神を正しく知る真理なのです。
 つまり「霊と真理」とは「聖霊とイエス キリスト」なのです。ですから聖霊とイエス キリストによって父なる神を礼拝する。この父・子・聖霊なる神の交わりのただ中で礼拝することこそ「まことの礼拝」なのです。神は父・子・聖霊のすべてをもってわたしたちを包み、共に生きてくださいます。ここに愛が、共に生きようという思いの根本があるのです。

 そして信仰生活の始めに与えられる礼拝こそ、救いの完成の時にも与えられるものです。黙示録 14:6~7「天使は、地上に住む人々、あらゆる国民、種族、言葉の違う民、民族に告げ知らせるために、永遠の福音を携えて来て、大声で言った。「神を畏れ、その栄光をたたえなさい。神の裁きの時が来たからである。天と地、海と水の源を創造した方を礼拝しなさい。」救いは礼拝から始まり、礼拝へと至ります。わたしたちは礼拝により神と共に生きるのです。

 ですから教会は、教会へと導かれた一人ひとりが礼拝をよく味わうことができるように、信仰へと導かれた一人ひとりが神と共に歩むことを喜べるように、訓練、トレーニングをするのです。日本キリスト教会信仰の告白も「教会は・・信徒を訓練し・・主が来られるのを待ち望みます」と告白しています。
 ですから教会は、神が語りかけられることを正しく理解できるように御言葉を聞く訓練をします。語りかけてくださった神に応答できるように祈りの訓練、告白の訓練をします。主を誉め讃えつつ救いの道を歩めるように讃美の訓練をします。共に主に従って歩めるように、主に向かって開かれた交わりを形成する訓練をします。

 スポーツでも習い事でも、できるようになるために指導を受けます。ところが信仰の場合、時に「わたしの好きなように、信じたいように信じたい」となることがあります。キリストを信じてなお「わたしの好きなように」という罪が入り込んできます。罪はわたしたちが思うよりもずっと根深いものです。
 だからこそ神は、イエスが罪に勝利して復活された日曜日ごとに礼拝へと招き続けてくださるのです。救いの始まりであり完成である礼拝がわたしたちには必要なのです。この恵みに与ってこそ、わたしたちは神を愛し、神と共に歩めるようにされていくのです。
 イエス キリストの御業もわたしたちを礼拝する者へと導くためのものでした。ヘブライ 9:14「永遠の“霊”によって、御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。」

 わたしたちは神が創造してくださったので存在します。神が創造したいと願わないところで頑張って努力して生まれてきたのではありません。救いも同じです。イエス キリストも、礼拝も、聖書も、祈りも、讃美も、教会も、神が備えてくださったものです。わたしたちが努力して手に入れたものではありません。わたしたちは神が与えてくださった礼拝という恵みの中で、恵みから恵みへ、信仰から信仰へと導かれ、神を愛する者へと変えられていくのです。

 だからカテキズムは語ります。問い6「どのようにして神さまを愛するのですか。」「神さまを礼拝し、人を愛し、神さまがお造りになったものを大切にすることによってです。」
 人を愛することと、被造物を大切にすることについては次回聞いていきましょう。

ハレルヤ


父なる神さま
 わたしたちに礼拝の恵みを与えてくださっていますことを感謝します。どうかこの恵みに立って、あなたと共に喜んで歩むことができますように。あなたにある喜びが多くの人の魂に届きますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

はじめてのカテキズム 問い5

2020-05-03 14:38:31 | カテキズム
2020年5月3日(日)主日礼拝  
聖書:申命記 6:4〜5
   詩編 22:5〜6(新共同訳)


 現在、新型コロナウィルス感染拡大の状況を鑑み、礼拝堂に共に集うことを控えております。この間、アメリカ合衆国長老教会が子どもたちのために作成しました『はじめてのカテキズム』に沿って説教をしています。
 カテキズムといいますのは、聖書の要約である教理を伝えるためのものです。主に問いと答えによって進められていきます。『はじめてのカテキズム』は『みんなのカテキズム』(一麦出版社)に収められています。
 きょうは問い5に記されている内容、感謝について聖書に聞きたいと思います。

 問い5「この愛の贈り物に対してどのように神さまに感謝するのですか。」「わたしが心から神さまを愛し、神さまに信頼することを約束することによってです。」
 カテキズムは「わたしたちは神の子である」と語り、「神の子とされたのは恵みつまり神の自由な愛の贈り物による」と述べました。それを受けて問い5では「この愛の贈り物に対してどのように神さまに感謝するのですか」と問うています。

 感謝が大事なのは、それが恵みに対する応答だからです。そして応答が大事なのは、応答は関係を作る働きをするからです。例えば、挨拶された時、話しかけられた時、応答することによって相手との関係が作られていきます。話しかけられる、返事をする。恵みを与えられる、感謝する。この応答が関係を作り始めます。そしてこの関係は繰り返されることにより深められていきます。
 さらに言うならば、関係が繰り返され、循環していくと、そこに命が生まれます。生物としてもこの循環は大切です。息を吸って吐く。血液が循環する。血液の循環で、酸素が運ばれ、二酸化炭素が排出される。食べて吸収され、排泄される。これらのどの循環が途絶えても命が失われてしまいます。
 そして、話しかけられなくなる、話しかけても無視されるようになっても、命は失われていきます。わたしたちの命は生物的な命だけでなく、関係の中にも命が存在し、わたしたちの命の根源は、神との関係の中にあるのです。

 そして神との関係を築いていくのが、感謝の応答なのです。それは恵みには感謝がふさわしいからです。
 わたしたちは恵みに対して恩返しをするのではありません。受けた恩を返して貸し借りなしの関係になるのではありません。例えば、子どもが親に育ててもらった恩を返し、貸し借りなしになることによって親子にふさわしい関係になるわけではありません。「恵みには感謝がふさわしい」のです。

 では神の恵み、愛の贈り物にどう感謝すればよいのでしょうか。カテキズムは「わたしが心から神さまを愛し、神さまに信頼することを約束することによってです」と教えています。

 まず始めに「約束する」ことについて考えましょう。「約束する」とはどういうことでしょうか。
 罪人であるわたしたちは完全に愛することも、完全に信頼することもできません。そんなわたしたちに対して、神は自ら約束するものとなってくださいました。
 本来神は何にも縛られない自由なお方です。けれど神はわたしたちの救いのために自らを約束の下に置いてくださるのです。「わたしは、あなたとの間に、また後に続く子孫との間に契約を立て、それを永遠の契約とする。そして、あなたとあなたの子孫の神となる」(創世記 17:7)と神はわたしたちに約束をしてくださいます。
 それは信仰によって神とつながり、関係を与えられたわたしたちのためなのです。約束はまさに、完全に愛せない、完全に信頼できない罪人のためのものです。できないからあきらめてしまう、できないから捨ててしまうのではなく、何度でもそこへと立ち戻るために約束の中に置いてくださるのです。神の真実な約束に支えられて、神の約束に応答する者として約束の中にいることへと招かれているのです。そのようにして罪を抱えながらも、赦しの恵みの中で、神と共に生きられるようにされているのです。
 その神の大きな救いの御業の中で、わたしたちは恵みに感謝して生きる者とされたのです。そして救いの神に応答するふさわしい感謝が「心から神さまを愛し、神さまに信頼することを約束すること」なのです。

 「愛する」とは「共に生きようとする」ことです。共に生きる関係のあるところ、必ず「愛」が必要になります。夫婦、親子、友人、隣人、郷土や国、そして人類。いずれにもそれにふさわしい愛が必要です。それは、愛である神が(1ヨハネ4:16)創造されたからです。そして、その神にかたどってわたしたちは造られました(創世記 1:27)。愛である神にかたどって、愛する者・愛される者として造られました。だから神はこう言われます。申命記 6:5「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」
 イエスも「どの戒めが最も重要か」(マタイ 22:34~40)と問われた時に二つの戒めを答えられましたが、「これが最も重要な第一の掟である」と言われたのがこの申命記の戒めです。
 わたしたちを愛して、救いの御業をなし、恵みを与えてくださる神への感謝は、愛することがふさわしいのです。

 次に「信頼する」とは「依り頼むこと」です。わたしたちを神の子としてくださるほどに愛してくださる神を知って、神にこそ依り頼むのです。幼子が親を信頼するように依り頼むのです。
 旧約の詩人は、神を誉め讃えてこう詠います。詩編 22:5~6「わたしたちの先祖はあなたに依り頼み/依り頼んで、救われて来た。/助けを求めてあなたに叫び、救い出され/あなたに依り頼んで、裏切られたことはない。」
 人は信頼するものが何もなければ生きていくことができません。家族も友達も自分も信頼できない。社会も国も信頼できない。信じられるものなど何もないとなったら、人は生きてはいけません。だから神は、ご自身が信じられるものとなって、わたしたちと共に歩んでくださるのです。だからわたしたちは、神の真実に応答して神を信じて生きるのです。

 ですから「愛する」ことも「信頼する」ことも、神の恵みから生じるものであり、恵みにふさわしい生き方なのです。
 カテキズムは、神を知った者が恵みの内に生きていけるようにこう語ります。
 問い5「この愛の贈り物に対してどのように神さまに感謝するのですか。」「わたしが心から神さまを愛し、神さまに信頼することを約束することによってです。」


ハレルヤ


父なる神さま
 弱く罪深いわたしたちをあなたの約束の中に置いてくださり、何度でもあなたへと立ち帰れるようにしてくださったことを感謝します。あなたの約束に支えられて、あなたを愛し、信じて生きるあなたの子としてください。神の子とされた恵みを心新たに味わいつつ歩み行く者としてください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

はじめてのカテキズム 問い3〜4

2020-04-26 13:02:10 | カテキズム
2020年4月26日(日)主日礼拝  
聖書:エフェソの信徒への手紙 2:4〜9
   ローマの信徒への手紙 5:6〜11(新共同訳)


 現在、新型コロナウィルス感染拡大の状況を鑑み、礼拝堂に共に集うことを控えております。この間、アメリカ合衆国長老教会が子どもたちのために作成しました『はじめてのカテキズム』に沿って説教をしています。
 カテキズムといいますのは、聖書の要約である教理を伝えるためのものです。主に問いと答えによって進められていきます。『はじめてのカテキズム』は『みんなのカテキズム』(一麦出版社)に収められています。
 きょうは問い3〜問い4に記されている内容を聖書に聞きたいと思います。

 きょう読みましたエフェソ 2:5に「あなたがたの救われたのは恵みによるのです」とあります。
 救いの基である恵みとは何でしょうか。『はじめてのカテキズム』は「神さまの自由な愛の贈り物」だと言っています(問い3)。
 ここでは三つのことが言われています。恵みは「神さまの贈り物」です。恵みは「自由な贈り物」です。そして恵みは「愛の贈り物」です。

 一般に恵みという言葉は、大地の恵み、海の恵みというように恵みは人の力の外から来るものを指して言います。聖書が語る「救い」は神から来るものです。だから救いは恵みだと言われるのです。神が与えてくださるものです。
 よく救いは恵みであり無償で与えられると言われます。日本キリスト教会信仰の告白も「功績なしに罪を赦され」と言います。確かに救いは、わたしたちがなした業と引き換えに与えられるものではありません。世の試験のように合格点を取って与えられるものではありません。しかし、この恵みはただではありません。神が御子の命を差し出してくださったことにより与えられたものです。わたしたちを愛するがゆえに、神ご自身が痛みを負い、犠牲を払ってなされたものが恵みなのです。

 第二に恵みは愛の贈り物です。カテキズムでは三番目に出てきますが、ここでは二番目に取り上げます。愛は共に生きようとする思いです。神は共に生きるためにわたしたちを神の子としてくださいます。そしてわたしたちを神の子とするために、神のひとり子イエス キリストが遣わされました。
 愛は共に生きようとする思いです。神は愛であると聖書は語ります(1ヨハネ 4:8, 16)。神は孤独な全能者ではなく、神ご自身が共に生きるお方です。ですから救いは、神と共に生きることなのです。神はわたしたちが神と共に生きられるように、罪を贖われます。そのためにイエス キリストを遣わされます。そしてわたしたちを神の子としてくださいます。イエス キリストにより、否定することのできない親と子の命の絆の中に招き入れてくださるのです。
 聖書は語ります。「イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになった」。(エフェソ 1:5)「神は真実な方です。この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです。」(1コリント 1:9)「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。」(ガラテヤ 3:26)恵みは愛の贈り物なのです。

 第三に、恵みは自由な贈り物です。何にも妨げられない自由な贈り物です。恵みは、神の愛による決断です。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」(ヨハネ 15:16)「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(1ヨハネ 4:10)旧約にも聞いてみましょう。「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出された」(申命記 7:7~8)わたしたちが神の子とされる恵みは、神の愛による決断、全く自由な贈り物です。

 だからそこに条件はありません。カテキズムはこう語ります。問い4「神さまに愛されるためには『良い子』にならないといけないのですか。」「いいえ。わたしがどんな子であっても、神さまは愛してくださっています。」
 神は「良い子になったら愛してあげるよ」と言っておられるのではありません。神は取引の関係を求めておられるのではないのです。神が望んでおられるのは、親と子の命の関係、愛と信頼で結ばれた関係なのです。ですから、信仰も条件ではないのです。「信じたら救ってあげるんだけど」と言っておられるのではないのです。神は、罪によって信じることが壊れてしまった罪の世に、信じることを造り出すために、ご自身が信じることのできる存在になってくださったのです。それを証しするのがイエス キリストです。そしてイエス キリストに出会い、神を知っていく中で、神の愛と真実へ導かれ、わたしたちは信じていくのです。

 カテキズムはこの出来事、神の御業をこのように語ります。問い3「あなたはどうやって神さまの子どもになりましたか。」「恵みという「神さまの自由な愛の贈り物」によってです。わたしはそれにふさわしくありませんし、自分の努力で勝ち取れません。」問い4「神さまに愛されるためには「良い子」にならないといけないのですか。」「いいえ。わたしがどんな子であっても、神さまは愛してくださっています。」

 カテキズムには、教会に導かれた若い人も恵みに与り、恵みを喜んで生きてほしいという願いがあるのです。そしてわたしも今、願います。多くの人が教会へと導かれ、キリストに出会い、この恵みの中に導かれますように。

ハレルヤ


父なる神さま
 ひとり子の命をかけてまでわたしたちに恵みを与えてくださることを感謝します。どうかわたしたちが、恵みを喜び、讃美しつつ歩み行くことができますように。どうか多くの人がこの恵みに与ることができますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン