聖書の言葉を聴きながら

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ローマの信徒への手紙 11:6〜10

2020-06-28 19:09:04 | 聖書
2020年6月28日(日)主日礼拝  
聖書:ローマの信徒への手紙 11:6~10(新共同訳)


 人は意味を求める存在です。自分という存在に意味がないことに耐えられません。自分の行い、仕事、務めによい意味があること、そして自分の存在に意味があり価値があることを求めます。それを自分が属する集団に対しても求めます。パウロの場合はイスラエル、ユダヤ人であること、わたしたちの場合は日本人であることです。これが昂じていくとナショナリズムと呼ばれるようになります。現代社会の最大の問題であろうかと思います。

 パウロは同胞イスラエル、ユダヤ人の救いが心にかかります。10:1では「わたしは彼らが救われることを心から願い、彼らのために神に祈っています」と書いています。
 わたしも日本人の救いが心にかかります。出会いを与えられるすべての人にキリストを伝えたいと願っており、救われてほしいと願っています。

 パウロはイエス キリストが救い主だと知りました。知る以前は、キリストを迫害する者でした。自分がキリストを信じた今も、多くのユダヤ人はキリストを信じていません。拒絶しています。ユダヤ人たちはもう神から見放されてしまったのでしょうか。

 神はイスラエル・ユダヤ人を退けてはいない、見捨ててはいないとパウロは確信します。
 それは、イスラエルの一員であり迫害者であった自分が、キリストを信じる者へと変えられたからであり、キリストを信じるユダヤ人が起こされているからです。
 パウロにはそれが、預言者エリヤのために残された七千人の神の民と同じ出来事に思えました(ローマ 11:2~5)。

 これは恵みです。自分の、そしてイスラエルの行いに対する報いではありません。ただただ神の真実と愛によるものです。

 アブラハムの子孫、神の民の誇り、律法を守り行うことにより救いを求めたイスラエルは求めていた神の栄光を得られませんでした。
 神は、恵みによって救いに入ること、神が与えてくださるキリストの義によって救われることを明らかにするためにキリストを信じる者を選び出され、イスラエルを頑なにされました。

 神が頑なにされるのは、神に対して頑なな者が自分の頑なさに気づくためです。神が旧約の時代にもそのようにされてきたことを明らかにするため、パウロは旧約を引用します。
 「神は、彼らに鈍い心、見えない目、/聞こえない耳を与えられた、今日に至るまで」。これは申命記 29:3の引用です。イザヤ書でも2ヶ所(6:9~10, 29:10)同様の内容が語られています。
 何のために心が与えられ、目が与えられ、耳が与えられているのか、それは神を知るため、神の御心を知るために与えられているのだということに気づくため、頑なにされ、鈍くされたのです。

 さらにパウロは、ユダヤ人たちに気づかせようともう一ヶ所引用します。
 「彼らの食卓は、/自分たちの罠となり、網となるように。/つまずきとなり、罰となるように。/彼らの目はくらんで見えなくなるように。/彼らの背をいつも曲げておいてください。」これは詩編 69:22~23の引用です。ヘブライ語聖書のギリシャ語訳である七十人訳聖書からの引用のようです。
 何を言っているのかというと、律法を細かく解釈して「これで大丈夫」と自分勝手に安心しているけれども、それが罠となり網となるように、自分たちの解釈で律法を守り満足していることが、躓きとなり罰となるように、ということです。そして目はくらんで見えなくなり、背が常に曲がって救いの道を真っ直ぐに歩めなくなりますように、という神の裁きを求める祈りです。

 神の導きを受け入れない者、つまり罪人は皆裁かれなくては罪に気づかないのです。わたしたちは自分の思いが叶うことが幸せだと捕らわれていますから、神から「その道は違う」と裁かれなければ、神に立ち帰れないのです。
 神は頑なにされますけれども、少しでも早く気づくように、少しでも早く悔い改められるように願い、絶えず語り続けてくださいます。パウロもそれを願って、この手紙を書いています。

 わたしたちは罪を抱えていますから、どうしてもユダヤ人たちのように律法主義に傾きます。人間の論理で神の戒めを歪曲し、神ご自身を小さくしてしまいます。自分が理解できる小ささまで神を小さくしてしまいます。そしてユダヤ人たちと同様に自分の知恵に酔い、自分を誇るようになります。だからわたしたちは、常に新しく神の言葉に聞き続け、神へと立ち帰り続けなければならないのです。

 7節に「選ばれた者」という言葉が出てきます。この「選び」についても「自分たちは神に選ばれた。神に選ばれ信じている。福音を聞いても信じない連中は滅びに定められている」。なぜか罪人の論理はそんな風に展開してしまいます。けれど罪人の論理で神の恵みを小さくしてしまってはいけません。
 「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。」(1テモテ 2:4)「主は・・一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。」(2ペトロ 3:9)エデンの園で初めて罪が犯されたときも、神は創造をやり直すことはなさいませんでした。ノアの洪水の際にも滅ぼし尽くしませんでした。出エジプトの後、十戒を待つ間に偶像礼拝に走っても滅ぼされませんでした。アッシリア、新バビロニア、そしてローマによって国を滅ぼされても、神の救いの御業は終わりませんでした。神はいつの時代、誰にとっても、常に救いの神であり続けてくださいます。

 神は「あの人は滅びに定められている」と人を仕分けさせるために「選び」について語られたのではありません。6節にあるように「神の恵みによるとするなら、行いにはよらない」これを指し示すのが「選び」という言葉です。
 選びの理解は、教会の歩みの中で絶えず揺れ動いてきました。教理史を学ぶと何回も出てきます。そして現在もなお揺れています。どれにも共通するのが、救いには神の恵みに人間の側の共同・協力が必要である、という主張です。きょうの箇所の言葉を使えば「救いには恵みだけでなく、行いが必要です」ということを言う訳です。
 最初に言いましたように、人は意味を求める存在です。自分の価値を必要としています。それを行いという形で自分の中に持ちたいのです。だから自分の中に、信じている、律法を守っている、隣人を愛している・仕えているといった自分で確認できる価値を欲するのです。信じることも、律法に従うことも、隣人を愛すること・仕えることも必要です。けれど神は、それらを救いの条件とはされませんでした。救いの確かさを求めるとき、神はわたしたちの掌・自分のしたことを見つめるのではなく、イエス キリストを見よと言われるのです。

 わたしたちの確かさは、イエス キリストにあるのです。神がわたしたちの救いを願ってくださいました。神がキリストをわたしたちに与えてくださいました。キリストはわたしたちの救いのために人となってきてくださいました。わたしたちが願ったのではありません。キリストが自らを献げ、十字架を負ってくださいました。わたしたちが願ったのではありません。キリストが復活して命の道を開いてくださいました。わたしたちの救いは、わたしたちの行いに拠るのではなく、恵みによるのです。だからわたしたちは、恵みを喜び、感謝して受け取るのです。

 神はわたしたちの裁きを願っておられるのではありません。わたしたちの救いを願い、すべての御業をなし、わたしたちを救いへと招いておられるのです。今もわたしたちに語りかけくださる神の声を聞いて、神に立ち帰る者は幸いです。あなたは今、救いのただ中にいます。


ハレルヤ


父なる神さま
 あなたの御心を誤解してしまうわたしたちに対して、あなたの救いの恵みが変わらないことをお示しくださり感謝します。頑ななときにもわたしたちに語りかけ、救いへと招いていてくださることを心に覚えることができますように。あなたの選びがわたしたちを支え導いてくださっていることを知ることができますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

聖句による黙想 10

2020-06-24 14:29:41 | 黙想
ヘブライ人への手紙 9章 14節(新共同訳)

 永遠の“霊”によって、御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。
 

 キリストの十字架は、わたしたちが生けるまことの神を礼拝できる根拠である。

 
ハレルヤ

ヨハネによる福音書 5:18〜21

2020-06-21 22:04:24 | 聖書
2020年6月21日(日) 主日礼拝  
聖書:ヨハネによる福音書 5:18〜21(新共同訳)


 イエスは安息日に病気で苦しむ人を癒やされました。しかしそれは、当時のユダヤ教の律法解釈に反することでした。彼らは、自分たちの教えに反することをするイエスを迫害し始めました。このユダヤ人たちの迫害、嫌がらせに対してイエスは「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ」とお答えになりました。
 この答えを聞いて、ユダヤ人たちはイエスに対する敵対感情を激化させ、イエスを殺そうと狙うようになりました。それは、イエスがユダヤ人たちの律法解釈、安息日理解を否定して、彼らの権威を傷つけただけでなく、神を「わたしの父」と呼んで、自らを神と等しい者と語ったからでした。
 「わたしの父」という表現は、旧約にもあります。詩編 89:27には「あなたはわたしの父/わたしの神、救いの岩」という神への呼びかけが記されています。ただユダヤ人たちが許せなかったのは、イエスの物言いに、自分と神との関係が特別なものであるという意味合いを感じとったからです。それは間違いではありませんでした。イエスは19節以下でそのことを明らかにされます。

 イエスは言われます。「はっきり言っておく。」ここで「はっきり」と訳されたのは「アーメン、アーメン」という言葉です。アーメンはわたしたちが最もよく使うヘブライ語で、祈りの最後に言われます。このアーメンは「真実です」という意味です。祈りの最後に言うときには「この祈りは真実な願いです。お聞き上げください」という意味で言われます。この箇所のように話の最初に言うときには「これから真実を告げよう」という意味で使われます。
 イエスはここでご自身の真実、救いの御業の真実を告げようと言われたのです。

 19節「子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。」
 神は自分の父であり、自分は子であることを明らかにされます。「父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする」とは、父と子が一心同体であることを示しています。その前の「子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない」は、自分が神と共にいたことを示します。丁度子どもが父親の側で仕事を見て、仕事のやり方・手順を覚えていくように、イエスは自分が、神と共にあって、その御業を見てきたというのです。
 ここでイエスは「自分からは何事もできない」と言われますが、これは「自分では父の御心以外のこともしたいのだけれども、そうはできない」という意味ではありません。父と子が一体であり、父の御心をなすために子はこの世に来たのだから父の御心以外のことをなすことはない、という意味での「できない」なのです。

 そしてさらにこう言われます。20節「父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。」父の御心はすべて御子イエス キリストに示されているのです。
 そして父の御心の行き着くところは20~21節「また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたたちが驚くことになる。すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。」父の御心は罪人を死から解放し、復活させ、永遠の命を与えることであり、御子はその父の御心を行うために世に来られたのです。

 しかし、ユダヤ人たちが神を自分の父と呼んだことで、イエスを殺そうと狙うようになったのに、父と一つであることをここまで語ってしまって大丈夫なのでしょうか。
 ここで注意したいのは、19節で「そこで、イエスは彼らに言われた」とあることです。19節から5章の終わりまでイエスの長い話が記されています。この長い話を語った相手「彼ら」とは誰でしょうか。わたしたちは無意識のうちに「彼ら」とは「弟子たち」であろうと考えます。けれどこの「彼ら」はどこから登場するかというと、16節で「ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた」と言われて、17節で「イエスはお答えになった」とあります。日本語には訳されていませんが、17節には「彼らに」という言葉があって「イエスは彼らにお答えになった」と書かれています。そして18節「このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった」とあって、これに答えて19節「イエスは彼らに言われた」のです。
 つまり福音書は大きな驚きを覚えながら、イエスを殺そうと狙い始めたユダヤ人たちに対して、天の父と子イエス キリストは一つであるということを語られたとはっきり書いているのです。
 おそらくここには、弟子たちもいたことでしょう。弟子たちもイエスの言葉を聞いて驚いたことでしょう。「ユダヤ人たちに命を狙われているというのに、何と言うことを言うのか」と。しかし弟子たちはその後、イエスの十字架、復活、そして聖霊降臨を経て気づいていくのです。

 しかしなぜイエスは、ユダヤ人たちの敵意に油を注ぐようなことを語られたのでしょうか。それは自分を殺そうとしている人たちにも神の真実を伝え、救おうと願っておられるからです。その場の空気を読んで、ある人には語り、ある人には語らないのではなく、どのようなときにも神の御心に従って語り、業をなすのです。だからイエスは、自分を殺そうと狙っている人たちに対して「アーメン、アーメン」と神の真実を語られたのです。
 ユダヤ人たちが自分を殺そうとすることは承知の上です。イエスは十字架を負うために世に来られたのですから。そして自分を殺そうとしている人たちのためにも十字架を負われたのです。十字架の上でイエスは父に祈られます。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ 23:34)天の父は、イエスを「わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえ」(1ヨハネ 2:2)としてお与えくださいました。その父の御心を子であるキリストは、すべて知って、すべてを成し遂げるために人となって世に来られました。

 聖書は言います。「愛には恐れがない」(1ヨハネ 4:18)と。イエスはユダヤ人たちも愛しておられます。だからイエスはユダヤ人を恐れていません。イエスは彼らの救いを願って旧約の成就としてユダヤ人としてお生まれになりました。
 ユダヤ人たちが「救われることを心から願い、彼らのために神に祈って」(ローマ 10:2)いるパウロにとっては、イエスのこの言葉、ユダヤ人に対する姿勢は、慰めであり、希望だったことでしょう。
 このイエス キリストを前にするとき、わたしたちは「救われるのは無理」と諦めなければならない人は一人もいないのです。わたしたちの救いの希望、伝道の業も、このイエス キリストに支えられているのです。だからわたしたちは、自分自身も、愛する者も、わたしたちが覚えるすべての人も、イエス キリストに委ねて大丈夫なのです。イエス キリストこそ、アーメンである方、わたしたちの真実な救い主なのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 あなたの御業を拒絶し、敵対する者にさえ、救いの真実を語り伝えてくださることを感謝します。あなたの愛と真実の故に、わたしたちは救いを確信することができます。世の終わりまであなたの御言葉を聴き続けることができますように。あなたの言葉であるイエス キリストを仰ぎ、共に歩み続けることができますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

聖句による黙想 9

2020-06-18 17:33:31 | 黙想
ヨハネによる福音書  4章 23節(新共同訳)

しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。

 
 なぜわたしたちは礼拝するのか。それは神が礼拝する者を求めておられるからである。
 礼拝は、同好の士が集まって行う(サークル)活動ではない。教会は、救い主イエス キリストに出会い、わたしたちを愛しておられる神と共に生きる神の民である。礼拝は、わたしたちが神と共に生きられるように神が与えてくださった恵みである。


ハレルヤ

ローマの信徒への手紙 11:1〜5

2020-06-14 21:36:23 | 聖書
2020年6月14日(日)主日礼拝  
聖書:ローマの信徒への手紙 11:1~5(新共同訳)


 パウロは同胞イスラエルの救いが心にかかります。9〜11章でパウロはイスラエルについて語ります。10:1では「わたしは彼らが救われることを心から願い、彼らのために神に祈っています」と書いています。

 神のご計画は、罪なきひとり子イエス キリストを救い主として遣わし、その命をかけてわたしたちの罪を贖うというもの。そしてイエス キリストを信じる者に信仰を通して義を与え、神の子とする、というものです。

 旧約の御言葉は、イエス キリストを指し示してきました。
 しかし、旧約の御言葉によって歩んできたイスラエルは、多くの者がイエス キリストを信じませんでした。神が与えてくださる神の義・神の正しさではなく、自分の義・自分の正しさを優先させてしまいました。律法はこう守るべき、救い主はこうあるべき、神に仕えている自分たちこそ敬われるべきなど、自分の義・自分の正しさを優先させてしまいました。その結果、イエス キリストを拒絶してしまったのです。
 そしてキリストの福音は異邦人に宣べ伝えられ、新たにイエス キリストを信じる新しい民が起こされました。

 パウロも熱心なファリサイ派の信徒で、多くのユダヤ人と同じように考えていました。しかしそれが復活のキリストとの出会いによって覆されてしまいました。神がイエス キリストを救い主として遣わされたことははっきり分かりました。けれども「それでは」と問わずにはいられない疑問が浮かんできます。
 これまでもこの手紙にはパウロの問いが何度も出てきました。神の言葉は無効になったのだろうか(9:4)新たに異邦人を選ばれた神に不義がありはしないか(9:14)イスラエルには十分に知らされなかったのだろうか(10:19)。
 罪人は神の御心を知ることができません。神に知らせて頂かなくてはなりません。だから神に問いかけます。「御心をお示しください」と祈ります。
 きょうの箇所でもパウロは問います。神はご自分の民であるイスラエルを退けられたのだろうか。イスラエルの歩み・歴史は空しく意味のないものだったのだろうか。自分自身イスラエルの民であるパウロには、イスラエルの救い、救いの御業におけるイスラエルの意味を問わずにはおれません。
 人は意味を求める存在です。無意味であることに耐えられません。だから人は自分の意義や誇りを求めます。

 パウロは神の御業の中にイスラエルの意味を見出します。パウロがここで引用したのは、列王記上 19:10~19に記されている預言者エリヤのエピソードです。
 エリヤは紀元前9世紀に北イスラエル王国で活動した預言者です。当時北イスラエルの王はアハブという人でした。彼の妻イゼベルは隣国の王の娘です。彼女は自分が親しんできたバアルを礼拝することを北イスラエルに導入しようとしました。北イスラエルの首都サマリヤにバアルを礼拝する神殿を建てました(列王上 16:32)。エリヤは偶像礼拝に抵抗し、信仰を守るために働いたので、エリヤの命もねらわれるようになりました。
 アハブ、イゼベルの手を逃れて逃亡するエリヤは神に訴えます。「わたしは万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきました。ところが、イスラエルの人々はあなたとの契約を捨て、祭壇を破壊し、預言者たちを剣にかけて殺したのです。わたし一人だけが残り、彼らはこのわたしの命をも奪おうとねらっています。」(列王上 19:10, 14)それに対する神の答えがこれです。「わたしはイスラエルに七千人を残す。これは皆、バアルにひざまずかず、これに口づけしなかった者である。」(列王上 19:18)

 パウロはこの出来事を引用します。
 神の民は、神の救いの業、恵みの業を担う者たちです。しかし、一騎当千の信仰の精鋭たちの集団ではありません。イスラエルは何度も神を裏切り、神を捨てます。けれど神が見捨てないのです。神が見放さないのです。旧約の詩人は告白します。「まことに、主はその民を見放さず/ご自分の民を見捨てられない。」(詩編 94:14 聖書協会共同訳)
 イエスの弟子たちもイエスを裏切り、イエスを見捨てました。しかし、その弟子たちのところへ復活のキリストが来てくださり、聖霊を与えてくださるのです(ヨハネ 20:22)。

 なぜ神は、何度も裏切られ、何度も赦されるのか。なぜ神は、何度も捨てられ、何度も招かれるのか。おそらくそれは、罪のただ中で、赦され招かれた者だけが知ることではないかと思います。自分の前にまで来てくださり、語りかけ、救いを手渡してくださる神に出会った者だけが気づくのではないかと思います。

 パウロも復活のキリストとの出会いによって、まことに神と出会った一人です。キリストが自分の前にまで来てくださり、語りかけ、赦しを与え、招いてくださいました。自分の信念、確信を超えて、キリストが出会ってくださったのです。ファリサイ派の教義を超えて、神の御業が目覚めさせてくださいました。

 だからキリストと出会い、神を知ったパウロは、こう言うのです。「現に今も、恵みによって選ばれた者が残っています。」
 神の愛も約束も、救いの御業も何一つ変わってはいないのです。神はイスラエルを通してご自分を証ししてこられました。そして約束通り、救い主をイスラエルの子孫に与えてくださいました。神は救い主を信じる信仰を通して、お造りになったすべてのものに救いを注いでくださいます。現に今も、恵みによって選ばれた者が救い主を宣べ伝え、救いの御業に与っています。人間には理解し尽くすことのできない神ご自身の愛、恵み、真実によってわたしたちは救われているのです。

 わたしは古代教会の信条、改革派教会の信仰告白を重んじています。しかし、信条や信仰告白がわたしたちを救うのではありません。信条や信仰告白は、キリストの救いの御業、それをなされる神ご自身に出会って与えられ示されるものです。信条や信仰告白が大切なのは、救いの御業、それをなされる父・子・聖霊なる神ご自身を指し示しているからです。一番大切なのは、神ご自身です。神に出会い、神との交わりの内に生きることです。

 パウロの願いは、同胞イスラエルが自分と同じようにキリストに出会い、神を知ることです。ユダヤ教の教師たちの教えに精通することではなく、イスラエルを召し出し、救いの業をなしてこられた神ご自身に出会うことです。そのとき、自分がイスラエルであること、そしてイスラエルの歩みを神の恵みとして受け取ることができるからです。

 わたしたちもまた、神に出会い、今を恵みとして受け取り、神にあって希望を与えて頂くことが必要です。世界が混沌としています。人権を大切に思い、平和を求める人たちに絶望を押しつけてくるような時代です。「神なんかいないじゃないか」という叫びに対して言葉がつまります。
 だからこそ、信仰を持つ人々が神と出会う必要があるのです。聖書を通して語りかけておられる神に出会い、主は今も生きて働いておられるという信仰を与えられ、神に希望を抱かせて頂かねばならないのです。

 わたしたちの救いのためにイエス キリストをさえ与えてくださる神は、わたしたちに救いを与え、希望となってくださいます。いくらでも疑問を抱いて大丈夫です。神に訴えて大丈夫です。神は必ず答えてくださり、救いの御業がわたしたちすべてのためになされていることを知らせてくださいます。
 神の恵みは尽きず、今も恵みによって選ばれた者が残っています。


ハレルヤ


父なる神さま
 エリヤの望みが尽きるところで、あなたはあなたの民が選ばれ、残されていることを語られました。どうか今、わたしたちにもお語りください。今わたしたちの目の前に拡がる世界は、罪に溢れています。命が踏みにじられ、人権は押し潰され、ウイルスに苦しむ世界の中で、難民や貧しさにあえぐ者たちが不衛生な中で脅かされています。エリヤに七千人の民を残されたように、今あなたの民を召し出し、選び出してください。あなたの義をこの世界に打ち立ててください。今も救いの御業がなされていることを知ることができますように。どうか空しくなることのないあなたの希望をわたしたちにお与えください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン