聖書の言葉を聴きながら

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聖句による黙想 15

2020-07-31 13:25:39 | 黙想
イザヤ書 40章 28節(聖書協会共同訳)
 
あなたは知らないのか
  聞いたことはないのか。
主は永遠の神
  地の果てまで創造された方。
疲れることなく、弱ることなく
  その英知は究め難い。
 

 この世のすべてのものは消えゆく。しかし、それを造られた神は、永遠なるお方。深き御心をもってすべてのものを造り、導く。
 

ハレルヤ

ローマの信徒への手紙 11:16〜22

2020-07-26 18:56:42 | 聖書
2020年7月26日(日)主日礼拝  
聖書:ローマの信徒への手紙 11:16~22(新共同訳)


 旧約には、神が与えてくださった恵みの最初のもの、初物・初穂を主に献げるという戒めがあります。「あなたは、土地の最上の初物をあなたの神、主の宮に携えて来なければならない。」(出エジプト 23:19)「わたしが与える土地に入って穀物を収穫したならば、あなたたちは初穂を祭司のもとに携えなさい。」(レビ 23:10)

 初穂という言葉は、パウロにとって馴染みの言葉です。パウロは言います。16節「麦の初穂が聖なるものであれば、練り粉全体もそうであり、根が聖なるものであれば、枝もそうです。」
 元となる初穂・根が聖なるものであれば、それから生まれる練り粉・枝も聖であると言うのです。ここで言う初穂、根というのは、信仰の父アブラハムを指します。アブラハムは、神によって世の民から聖別された初穂であり、根である聖なるものです。そしてアブラハムから生まれる練り粉、アブラハムから育った枝も聖なるもの、神のものです。しかし17節「ある枝が折り取られ、野生のオリーブであるあなたが、その代わりに接ぎ木され」たのです。異邦人にキリストが伝えられ、神の民とされたのは、旧約の民イスラエルに接ぎ木されたのだと言うわけです。

 それはキリスト教会が、イスラエルから旧約の御言葉を引き継いだことからも分かります。わたしたちが持っている聖書は、旧約(キリスト以前の古い契約)と新約(キリストによる新しい契約)からなっています。旧約は紀元90年のヤムニア会議で確定されます。紀元70年にローマによりユダヤが滅ぼされ、エルサレムの神殿が破壊されました。これにより祭儀による信仰を保つことができなくなりました。信仰は祭儀から御言葉へと移らざるを得なくなりました。
 聖書は初めから「これは聖書です」と存在するのではありません。神がご自分を証しするために与えてくださった文書だとその権威が認められて聖書として受け入れられます。そこでユダヤ教の教師ラビたちによってユダヤ教の聖書の確定がなされました。
 こういう聖書確定の経過を指して「結局聖書は人間が決めたものでしょう」と言う人がいます。しかし聖書は、ユダヤ人にとって都合のいい話を集めたものではありません。そこには神の前に罪を犯してきた恥ずべき歩みが記されています。そしてなお民を憐み、語りかけ導かれる神が記されています。神の御前へと導かれ、自らの罪を知り、神の憐みと救いを知る。それが神の言葉である聖書なのです。神が自分たちに語りかけてくださった言葉の前に身を低くする神への畏れが聖書にはあります。まさに恵みとして神が与えてくださったものが聖書なのです。
 こうして確定されたユダヤ教の聖書をタナハと呼びます。トーラー(モーセ五書)、ネビイーム(預言者)、ケスビーム(諸書)の頭文字を採ったものです。諸書というのは、モーセ五書・預言者に入らない詩編などの諸々の書のことを指します。
 キリスト教は、ユダヤ教で確定された39巻の文書を旧約として受け継ぎました。創世記からマラキ書に至る旧約の御言葉、信仰をキリスト教会は受け継ぎました。まさに新約の民は、旧約の民に接ぎ木されたのです。

 しかし異邦人キリスト者には当初から、ユダヤ人に対する驕りが見られたようです。17~18節「しかし、ある枝が折り取られ、野生のオリーブであるあなたが、その代わりに接ぎ木され、根から豊かな養分を受けるようになったからといって、折り取られた枝に対して誇ってはなりません。誇ったところで、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです。」
 ユダヤ人に対しては、キリストを殺した民というレッテルが貼られます。加えて、民族的な違い、律法を重んじることから来る生活習慣の違い、例えばブタは食べないなど、「彼らはユダヤ人だからね」と蔑視される理由はいくつもあります。そして19節「枝が折り取られたのは、わたしが接ぎ木されるためだった」つまり「ユダヤ人が捨てられたのは、異邦人が救われるためであり、異邦人が救われることこそが神の目的であった」というようなことが言われたようです。

 パウロは「枝が折り取られたのは、わたしが接ぎ木されるためだった」という言葉に対して「そのとおりです」と肯定します。「ユダヤ人は、不信仰のために折り取られましたが、あなたは信仰によって立っています。」しかしパウロは言います。20~21節「思い上がってはなりません。むしろ恐れなさい。神は、自然に生えた枝を容赦されなかったとすれば、恐らくあなたをも容赦されないでしょう。」
 旧約を受け継いだのであれば、神がノアの洪水を起こされたこと、北イスラエルそして南ユダを滅ぼされたことも知っています。神は、悔い改めのため・救いのために必要とあらば、滅ぼすことも捨てることもなさいます。神を侮ってはなりません。わたしたちには神に対する聖なる畏れが必要です。

 だからパウロは言います。22節「神の慈しみと厳しさを考えなさい。倒れた者たちに対しては厳しさがあり、神の慈しみにとどまるかぎり、あなたに対しては慈しみがあるのです。もしとどまらないなら、あなたも切り取られるでしょう。」
 パウロ、そして神は、わたしたちが神の慈しみに留まることを願っています。神の慈しみを受けるには、神に対する侮りは禁物です。わたしたちは、神の慈しみと厳しさを共に覚えることが必要なのです。

 救いは、神との生きた関係です。神と共に生きることを喜び、神の語りかけに聞き従います。神の御心を喜び、神の御心に希望を抱きます。神との関係は、愛と信頼の関係、生命の関係です。
 これを言葉で何か標本のように固定してしまうと生命を失われていきます。
 わたしたちの教会(日本キリスト教会)は、カルヴァンの宗教改革に連なる改革派の教会です。改革派教会の特徴として、神が与えてくださった知性・理性を大切にし、神の言葉・聖書から繰り返し聞くことを重んじています。これを「御言葉によって改革され続ける教会」と言い表しています。ただし罪人の個性は常に弱さも併せ持っています。神の御心を忘れ、人間の論理に陥ってしまうことがあります。
 改革派教会の遺産の中にドルト信条(ドルト信仰基準)と呼ばれるものがあります。1618年にドルトレヒト会議で定められたものです。この会議では、カルヴァン主義の五つの特質と呼ばれるものが確認されました。その中に「聖徒の堅忍(Perseverance of the saints)」と呼ばれるものがあります。「神に選ばれ、召された民の救いは永遠に失われない」というものです。その根拠としてあげられる聖書の箇所に、きょうの少し後ローマ 11:29「神の賜物と招きとは取り消されない」があります。きょうの箇所でパウロが言っていることと矛盾するように思えます。

 こういう矛盾するように思える箇所は他にもあります。わたしはそれを人間の論理であれかこれかにしてしまってはいけないのだと思っています。そもそも最初に問題となった最重要教理である三位一体も二性一人格もそうです。神に三つの位格があるとはどういうことか。神は唯一ではないのか。キリストは神なのか人なのかどちらなのだ。教会は、そのどちらかを選ぶのではなく、神が啓示してくださったままに受けとめました。神は、父・子・聖霊なる唯一の神。キリストは、まことに神であり、まことに人である。きょうの箇所も同様に、神がお示しになるままに受けとめることが肝要ではないかと思います。

 神はわたしたちと生きた関係を築こうとしておられます。かつて信じたのではなく、今も信じている。かつて愛したのではなく、今も愛している。そうした生きた関係を求めておられます。神はわたしたちに、神を侮り、おごり高ぶることを戒めておられます。神の救いの御業がついに異邦人にまで及んだことを喜び、神を誉め讃えるのです。神が救いの御業の初穂として選ばれたイスラエルを軽んじはしないのです。自分を愛していてくれるこの世の親が、悪いことに対して厳しいことを畏れるように、天のまことの父に対して愛し、信頼し、そして畏れるのです。聖書を通して神が教えてくださるように、愛し、信頼し、同時に畏れを持っていくとき、わたしたちはおごり高ぶることなく、神の民、神の子とされたこと、今神の子であることを喜び、神との生きた関係に生きることができるのです。

 「神の慈しみと厳しさを考えなさい。・・神の慈しみにとどまるかぎり、あなたに対しては慈しみがあるのです。」


ハレルヤ


父なる神さま
 わたしたちに対して生命が満ちる生きた関係を求め与えてくださることを感謝します。わたしたちは罪ゆえにあなたの御心からずれ、あなたから離れていってしまいます。そのわたしたちを主の日ごとに御前に立ち帰らせ、聖書を通して語りかけてくださることを感謝します。どうかあなたの慈しみの内に生きるあなたの子であらせてください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

聖句による黙想 14

2020-07-22 17:55:10 | 黙想
イザヤ書 44章 24節(聖書協会共同訳)

あなたの贖い主
あなたを母の胎にいる時から形づくられた方
主はこう言われる。
私は主、万物を造った者。
独りで天を広げ、自ら地を踏み広げた者。

 
 わたしの造り主は、万物を一人で造られたと告げられる。そして、わたしの造り主は、わたしを罪から贖い救い出してくださるお方。

 
ハレルヤ

ヨハネによる福音書 5:26〜30

2020-07-19 16:19:32 | 聖書
2020年7月19日(日) 主日礼拝  
聖書:ヨハネによる福音書 5:26〜30(新共同訳)


 イエスは安息日に病気を癒やし、それが神の御心にかなう正しいことだと証しされたために、ユダヤ人たちから命を狙われるようになりました。
 それにも関わらず、イエスはユダヤ人たちに、イエスを遣わされた神の御心について語られます。

 これは福音書を編纂したヨハネにとって大きな衝撃であったろうと思います。ヨハネはこの福音書の締めくくりにこう書いています。「イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。」(ヨハネ 21:25)ヨハネはイエスのすべてをまとめたのではありません。ヨハネは伝えなければならないイエスの言葉・業を選んでまとめました。そのとき、この5章のイエスの業、そしてイエスが語られたことは、福音書をまとめたヨハネの判断にとって大きかっただろうと思います。
 イエス様は自分を拒絶し殺そうと狙っている者たちが滅んでもいいとは思わず、救おうと語りかけられる。それがヨハネによる福音書が記す裁きの特徴として表れているように思います。きょうの説教題は「命と裁き」としましたが、ヨハネがきょうのイエスの言葉を福音書に記した思いを感じて頂けたらと思います。

 イエスは言われます。26節「父は、御自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。」
 命は神の内にあり、神のものです。神が命の創造主です。わたしたちの命は自分の命であっても、自分の所有物ではありません。誰もがこの世の生涯の終わりに、命を神にお返ししなければなりません。その命を父なる神は、御子イエス キリストの内にも持つようにしてくださいました。それはイエスに「裁きを行う権能をお与えになった」からです。裁きと命が深く関わるからです。
 裁きが目指すのは悔い改め、神へと立ち帰ることです。神はかつて預言者エゼキエルにこう語られました。「わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は言われる。彼がその道から立ち帰ることによって、生きることを喜ばないだろうか。」(エゼキエル 18:23)裁きは、悔い改めて神と共に生きることを願ってなされます。ですからイエスには、救い主として裁きの権能と命が与えられたのです。「裁きは一切子に任せておられる」(5:22)のです。

 イエスはまた裁きの権能が与えられた理由を27節「子は人の子だから」と言っておられます。
 これについては、ヘブライ人への手紙はこう言っています。「イエスは・・忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。」(ヘブライ 2:17)「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。」(ヘブライ 4:15)つまり、裁きを行う者は、人となって、人と同じ試練を受け、その苦しみ・痛みを経なければならず、しかし罪を犯さない者でなければなりませんでした。神は、罪人を救う救い主が裁きを行うようにされたのです。

 イエスは「驚いてはならない」と言って語られます。28~29節「時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。」
 墓の中にいる者、死んだ者がイエスの声を聞くときが来ます。イエスの声は人を死から目覚めさせます。ただし、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ、と言われます。
 24節にあるように、イエスの言葉を聞いて、イエスを遣わされた方を信じる者は、永遠の命を得、また裁かれることなく死から命へと移っています。けれど、キリストの命に復活するために、この世の生を終え、死を迎えます。神がよしとされる神の救いを信じ受け入れた者、つまりキリストを信じた者は、命を受けるために復活します。
 驚くべきは、悪を行った者が復活してなお裁きを受けることです。この復活は永遠の刑罰への復活ではなく、裁かれるための復活です。裁きは、悔い改め、神へと立ち帰るためになされます。神の御心を退け、悪を行った者に対しても裁きを受けるための復活が用意されている、とイエスは言われるのです。
 イエスはこの言葉に続いて「わたしは自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。わたしの裁きは正しい。わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである」と語られます。
 裁きはイエスに委ねられました。けれど、父の思いと違うことをイエスが勝手に行われるのではありません。イエスを遣わされた父の御心を行うから「わたしの裁きは正しい」と言われます。罪人を救うために独り子を世に遣わされる父の御心、罪人を救うために独り子を十字架に献げる父の御心、その父の御心を自らなし、裁きも救いも成し遂げられるイエスの御業は正しいのです。まさしくイエス キリストこそ神の言葉であり、これがわたしたちの思いを超えた神の正しさなのです。

 死んで終わりではありません。死んだら神から自由になれるのではありません。この神の御心を前に、わたしたちは聖なる畏れを抱かねばなりません。「今日、あなたたちが神の声を聞くなら・・心をかたくなにしてはならない。・・あなたがたのうちだれ一人、罪に惑わされてかたくなにならないように、「今日」という日のうちに、日々励まし合いなさい」(ヘブライ 3:7, 8, 13)と聖書は語ります。

 神は招いておられます。イエスを信じる者も拒絶する者も。神の御心に従い善をなす者も悪に留まり続ける者も。命は神にあり、イエス キリストにあります。救いも未来もイエス キリストにあります。神の声を聞く者、命への招きの声を聞く者は、今あなたのために差し出されている救いの恵みを受けなさい。神はあなたを招いておられます。


ハレルヤ



父なる神さま
 計り知ることのできないあなたの愛と憐みをわたしたちに注いでいてくださることを示してくださり、感謝します。命も裁きも、救いも未来もイエス キリストにあります。どうか今、頑なになることなくあなたが差し出してくださる救いを受け取り、キリスト共に救いの道を歩む者としてください。どうか救いの御業を推し進めてくださり、あなたの民を多く起こし、栄光を豊かに現してくださいますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

聖句による黙想 13

2020-07-15 18:41:02 | 黙想
創世記 1章 27, 28節(聖書協会共同訳)

神は人を自分のかたちに創造された。
  神のかたちにこれを創造し
    男と女に創造された。
神は彼らを祝福して言われた。
「産めよ、増えよ、地に満ちて、これを従わせよ。
 海の魚、空の鳥、地を這うあらゆる生き物を治めよ。」

 
 「従わせよ」という言葉には悪い印象が付きまとう。人間の傲慢をキリスト教は後押ししている、と批判もされる。
 しかし、神にかたどって創造された人間に与えられた務めは、神の御心に従って世界を治める務めである。神が世界を創造されたとき、「よかった」と喜ばれ、祝福された。その神の喜びと祝福が世界を満たすように、人は世界を愛し、世界を治めるのである。

 
ハレルヤ