2020年7月19日(日) 主日礼拝
聖書:ヨハネによる福音書 5:26〜30(新共同訳)
イエスは安息日に病気を癒やし、それが神の御心にかなう正しいことだと証しされたために、ユダヤ人たちから命を狙われるようになりました。
それにも関わらず、イエスはユダヤ人たちに、イエスを遣わされた神の御心について語られます。
これは福音書を編纂したヨハネにとって大きな衝撃であったろうと思います。ヨハネはこの福音書の締めくくりにこう書いています。「イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。」(ヨハネ 21:25)ヨハネはイエスのすべてをまとめたのではありません。ヨハネは伝えなければならないイエスの言葉・業を選んでまとめました。そのとき、この5章のイエスの業、そしてイエスが語られたことは、福音書をまとめたヨハネの判断にとって大きかっただろうと思います。
イエス様は自分を拒絶し殺そうと狙っている者たちが滅んでもいいとは思わず、救おうと語りかけられる。それがヨハネによる福音書が記す裁きの特徴として表れているように思います。きょうの説教題は「命と裁き」としましたが、ヨハネがきょうのイエスの言葉を福音書に記した思いを感じて頂けたらと思います。
イエスは言われます。26節「父は、御自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。」
命は神の内にあり、神のものです。神が命の創造主です。わたしたちの命は自分の命であっても、自分の所有物ではありません。誰もがこの世の生涯の終わりに、命を神にお返ししなければなりません。その命を父なる神は、御子イエス キリストの内にも持つようにしてくださいました。それはイエスに「裁きを行う権能をお与えになった」からです。裁きと命が深く関わるからです。
裁きが目指すのは悔い改め、神へと立ち帰ることです。神はかつて預言者エゼキエルにこう語られました。「わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は言われる。彼がその道から立ち帰ることによって、生きることを喜ばないだろうか。」(エゼキエル 18:23)裁きは、悔い改めて神と共に生きることを願ってなされます。ですからイエスには、救い主として裁きの権能と命が与えられたのです。「裁きは一切子に任せておられる」(5:22)のです。
イエスはまた裁きの権能が与えられた理由を27節「子は人の子だから」と言っておられます。
これについては、ヘブライ人への手紙はこう言っています。「イエスは・・忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。」(ヘブライ 2:17)「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。」(ヘブライ 4:15)つまり、裁きを行う者は、人となって、人と同じ試練を受け、その苦しみ・痛みを経なければならず、しかし罪を犯さない者でなければなりませんでした。神は、罪人を救う救い主が裁きを行うようにされたのです。
イエスは「驚いてはならない」と言って語られます。28~29節「時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。」
墓の中にいる者、死んだ者がイエスの声を聞くときが来ます。イエスの声は人を死から目覚めさせます。ただし、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ、と言われます。
24節にあるように、イエスの言葉を聞いて、イエスを遣わされた方を信じる者は、永遠の命を得、また裁かれることなく死から命へと移っています。けれど、キリストの命に復活するために、この世の生を終え、死を迎えます。神がよしとされる神の救いを信じ受け入れた者、つまりキリストを信じた者は、命を受けるために復活します。
驚くべきは、悪を行った者が復活してなお裁きを受けることです。この復活は永遠の刑罰への復活ではなく、裁かれるための復活です。裁きは、悔い改め、神へと立ち帰るためになされます。神の御心を退け、悪を行った者に対しても裁きを受けるための復活が用意されている、とイエスは言われるのです。
イエスはこの言葉に続いて「わたしは自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。わたしの裁きは正しい。わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである」と語られます。
裁きはイエスに委ねられました。けれど、父の思いと違うことをイエスが勝手に行われるのではありません。イエスを遣わされた父の御心を行うから「わたしの裁きは正しい」と言われます。罪人を救うために独り子を世に遣わされる父の御心、罪人を救うために独り子を十字架に献げる父の御心、その父の御心を自らなし、裁きも救いも成し遂げられるイエスの御業は正しいのです。まさしくイエス キリストこそ神の言葉であり、これがわたしたちの思いを超えた神の正しさなのです。
死んで終わりではありません。死んだら神から自由になれるのではありません。この神の御心を前に、わたしたちは聖なる畏れを抱かねばなりません。「今日、あなたたちが神の声を聞くなら・・心をかたくなにしてはならない。・・あなたがたのうちだれ一人、罪に惑わされてかたくなにならないように、「今日」という日のうちに、日々励まし合いなさい」(ヘブライ 3:7, 8, 13)と聖書は語ります。
神は招いておられます。イエスを信じる者も拒絶する者も。神の御心に従い善をなす者も悪に留まり続ける者も。命は神にあり、イエス キリストにあります。救いも未来もイエス キリストにあります。神の声を聞く者、命への招きの声を聞く者は、今あなたのために差し出されている救いの恵みを受けなさい。神はあなたを招いておられます。
ハレルヤ
父なる神さま
計り知ることのできないあなたの愛と憐みをわたしたちに注いでいてくださることを示してくださり、感謝します。命も裁きも、救いも未来もイエス キリストにあります。どうか今、頑なになることなくあなたが差し出してくださる救いを受け取り、キリスト共に救いの道を歩む者としてください。どうか救いの御業を推し進めてくださり、あなたの民を多く起こし、栄光を豊かに現してくださいますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン