2021年2月3日(水) 祈り会
聖書:詩編 148:1〜6(新共同訳)
きょうは148篇の前半です。
この詩篇も最初と最後にハレルヤ(主を讃美せよ)とあります。
ハレルヤが「主を讃美せよ」という意味だと分かると、「主を賛美せよ」という言葉が何度も言われていることに気づかれると思います。日本語に訳されている「賛美せよ」も、最初にカタカナで書かれている「ハレルヤ」と同じ「ハーラル」(讃美する)という動詞が使われています。
1節の2行目に「天において」とあります。そして7節に「地において」とあります。
1~6節は天における讃美が語られ、7節以下は地における讃美が語られます。そして11~12節は人の讃美、13~14節は主の民の讃美が語られます。
この詩篇は、神が造られた世界の天においても、地においても、讃美で満たされ、世界がすべて神を喜ぶことへと導こうとしています。
讃美は、神を讃えて、神の栄光を証しする行為です。詩編102:19には「主を賛美するために民は創造された」(新共同訳)という言葉があります。讃美は神の民の務めであり、神にふさわしいものです。
わたしが神学校で習った時(30年前)には、出エジプトを喜び讃える出エジプト15章のミリアムの讃歌(20~21節)が一番古い聖書の記事だと言われていました。ただ聖書学も日進月歩で今もそう考えられているか定かではありません。けれど讃美は、神の民の歩みの初期からあったものであろうと思います。
1節「天において」「高い天で」
天は、神がおられる世界を表します。人が住む地に対する天です。人の手が届かない高みを指し示します。
2節「御使いらよ、こぞって」「主の万軍よ、こぞって」
天使とその軍勢も皆、讃美へと誘われます。
3節「日よ、月よ」「輝く星よ」
天体、天を飾るものたちも、讃美に招かれます。
4節「天の天よ」「天の上にある水よ」
天の中の天、最も高い天、そして雨として降る天の上にある水も、神が造られた世界のすべてのものが神を讃えることを詩人は願っています。すべてのものは神によって造られたのですから。5節「主は命じられ、すべてのものは創造された。」
6節「主はそれらを世々限りなく立て/越ええない掟を与えられた。」この節は「主は掟を与え、天の被造物は掟を逸脱することはない」という意味です。つまり、神は自然の理を造り、与えられたということです。
この詩篇は、神の創造の御業を思いめぐらしながら、讃美しています。
神の創造の御業は、創世記1:1~2:3で語られます。この箇所はバビロン捕囚で、バビロニアの創世神話に触れて、触発されて語られたと言われています。それは、バビロニアの神々が世界が造ったのではなく、唯一の真の神が祝福をもって造られたことを表す信仰告白であると言われます。科学的なことを伝えようとしているのではなく、信仰をもって神の創造の御業を語っています。
1:1~2:3は、混沌から神の言葉によって命の秩序が造られていく様が表現されています。創造は7日間でなされます。七日目は安息の日ですから、創造自体は6日間でなされます。この箇所が書かれた紀元前一千年頃は、7も6も完全数だと考えられていました。7は、1と7以外割る数字を持たない特別な数という意味で完全数と考えられていました。逆に6は、1でも2でも3でも6でも割ることのできる特別な数という意味で完全数と考えられていました。創造の記事は、完全数を用いることにより、創造の御業が完全であることを表そうとしています。
6日間で世界が造られてきますが、これは、3日と3日に分かれます。一日目と四日目、二日目と五日目、三日目と六日目が対になっています。
一日目、光が造られます。四日目、太陽と月の創造が語られます。光と太陽が別々に語られます。一日目の光は、光そのものです。古代のイスラエル人がそのような感覚を持っていたことに、驚きを感じます。
二日目、水が分けられます。天の水と地の水です。五日目、空の鳥と海の生き物が造られます。
三日目、地が造られ、植物が造られます。六日目、地に生きる生き物、そして神にかたどられた人間が造られます。
このように、一日目と四日目、二日目と五日目、三日目と六日目が対になっています。これらは、神が語られる前は、地は混沌であったのに(創世記 1:1)、神の言葉によって命の秩序が造られ、神の「よかった」(良しとされた)が繰り返され、造られた世界には神の祝福が満ちていたことが表されています。
そして今、聖書は「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいる」(ローマ 8:19)と語ります。被造物も神の救いに与り、神の祝福に満たされること、創造のときの喜びが回復することを待ち望んでいます。
マルコによる福音書は復活の主イエスの宣教命令をこう書いています。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ 16:15)
神の救いの御業は、全被造物に及びます。そして148篇は、天と地にあるすべてのものを讃美へと招きます。
148篇はその形から見て、会衆を讃美へと招くのに用いられた詩編のように思います。「主を賛美せよ」という呼びかけは、神を証しする神の民の務めです。教会に集うお一人おひとりが、その信仰生活・教会生活において、神を讃美せずにはいられない神との出会いをされますようにと祈ります。
ハレルヤ
父なる神さま
あなたの造られた世界が讃美で満たされますように。代々の民と共にわたしたちもあなたを指し示し、讃美へと導くことができますように。あなたと出会う一人ひとりが救いの喜びで満たされますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン
聖書:詩編 148:1〜6(新共同訳)
きょうは148篇の前半です。
この詩篇も最初と最後にハレルヤ(主を讃美せよ)とあります。
ハレルヤが「主を讃美せよ」という意味だと分かると、「主を賛美せよ」という言葉が何度も言われていることに気づかれると思います。日本語に訳されている「賛美せよ」も、最初にカタカナで書かれている「ハレルヤ」と同じ「ハーラル」(讃美する)という動詞が使われています。
1節の2行目に「天において」とあります。そして7節に「地において」とあります。
1~6節は天における讃美が語られ、7節以下は地における讃美が語られます。そして11~12節は人の讃美、13~14節は主の民の讃美が語られます。
この詩篇は、神が造られた世界の天においても、地においても、讃美で満たされ、世界がすべて神を喜ぶことへと導こうとしています。
讃美は、神を讃えて、神の栄光を証しする行為です。詩編102:19には「主を賛美するために民は創造された」(新共同訳)という言葉があります。讃美は神の民の務めであり、神にふさわしいものです。
わたしが神学校で習った時(30年前)には、出エジプトを喜び讃える出エジプト15章のミリアムの讃歌(20~21節)が一番古い聖書の記事だと言われていました。ただ聖書学も日進月歩で今もそう考えられているか定かではありません。けれど讃美は、神の民の歩みの初期からあったものであろうと思います。
1節「天において」「高い天で」
天は、神がおられる世界を表します。人が住む地に対する天です。人の手が届かない高みを指し示します。
2節「御使いらよ、こぞって」「主の万軍よ、こぞって」
天使とその軍勢も皆、讃美へと誘われます。
3節「日よ、月よ」「輝く星よ」
天体、天を飾るものたちも、讃美に招かれます。
4節「天の天よ」「天の上にある水よ」
天の中の天、最も高い天、そして雨として降る天の上にある水も、神が造られた世界のすべてのものが神を讃えることを詩人は願っています。すべてのものは神によって造られたのですから。5節「主は命じられ、すべてのものは創造された。」
6節「主はそれらを世々限りなく立て/越ええない掟を与えられた。」この節は「主は掟を与え、天の被造物は掟を逸脱することはない」という意味です。つまり、神は自然の理を造り、与えられたということです。
この詩篇は、神の創造の御業を思いめぐらしながら、讃美しています。
神の創造の御業は、創世記1:1~2:3で語られます。この箇所はバビロン捕囚で、バビロニアの創世神話に触れて、触発されて語られたと言われています。それは、バビロニアの神々が世界が造ったのではなく、唯一の真の神が祝福をもって造られたことを表す信仰告白であると言われます。科学的なことを伝えようとしているのではなく、信仰をもって神の創造の御業を語っています。
1:1~2:3は、混沌から神の言葉によって命の秩序が造られていく様が表現されています。創造は7日間でなされます。七日目は安息の日ですから、創造自体は6日間でなされます。この箇所が書かれた紀元前一千年頃は、7も6も完全数だと考えられていました。7は、1と7以外割る数字を持たない特別な数という意味で完全数と考えられていました。逆に6は、1でも2でも3でも6でも割ることのできる特別な数という意味で完全数と考えられていました。創造の記事は、完全数を用いることにより、創造の御業が完全であることを表そうとしています。
6日間で世界が造られてきますが、これは、3日と3日に分かれます。一日目と四日目、二日目と五日目、三日目と六日目が対になっています。
一日目、光が造られます。四日目、太陽と月の創造が語られます。光と太陽が別々に語られます。一日目の光は、光そのものです。古代のイスラエル人がそのような感覚を持っていたことに、驚きを感じます。
二日目、水が分けられます。天の水と地の水です。五日目、空の鳥と海の生き物が造られます。
三日目、地が造られ、植物が造られます。六日目、地に生きる生き物、そして神にかたどられた人間が造られます。
このように、一日目と四日目、二日目と五日目、三日目と六日目が対になっています。これらは、神が語られる前は、地は混沌であったのに(創世記 1:1)、神の言葉によって命の秩序が造られ、神の「よかった」(良しとされた)が繰り返され、造られた世界には神の祝福が満ちていたことが表されています。
そして今、聖書は「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいる」(ローマ 8:19)と語ります。被造物も神の救いに与り、神の祝福に満たされること、創造のときの喜びが回復することを待ち望んでいます。
マルコによる福音書は復活の主イエスの宣教命令をこう書いています。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ 16:15)
神の救いの御業は、全被造物に及びます。そして148篇は、天と地にあるすべてのものを讃美へと招きます。
148篇はその形から見て、会衆を讃美へと招くのに用いられた詩編のように思います。「主を賛美せよ」という呼びかけは、神を証しする神の民の務めです。教会に集うお一人おひとりが、その信仰生活・教会生活において、神を讃美せずにはいられない神との出会いをされますようにと祈ります。
ハレルヤ
父なる神さま
あなたの造られた世界が讃美で満たされますように。代々の民と共にわたしたちもあなたを指し示し、讃美へと導くことができますように。あなたと出会う一人ひとりが救いの喜びで満たされますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン