聖書の言葉を聴きながら

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ローマの信徒への手紙 8:12〜14

2019-02-24 15:46:43 | 聖書
2019年2月24日(日)主日礼拝  
聖書箇所:ローマ 8:12〜14(新共同訳)


 パウロは「わたしたちには一つの義務があります」と言います。
 わたしの感覚ではここは「義務」と言うよりも「責任」と言った方がいいように思います。日本語訳では岩波版が「責任」と訳しています。

 この責任がどこから生じるのかと言うと、直前の11節で「もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。それで・・」と言われています。つまり、聖霊が宿っていることによって責任が生じるというのです。

 まず、聖霊について確認しましょう。
 聖霊については、イエスがヨハネによる福音書でこう言っておられます。「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。・・この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいる・・父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」(ヨハネ 14:16,17,26)。聖霊なる神が、イエス キリストが一体誰なのかを教えてくださるのです。だから聖書はこうも言います。「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」(1コリント 12:3)。

 しかし、ただイエス キリストを理解するというだけではありません。
 コリントの信徒への手紙 一 にはこう書かれています。「あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい」(1コリント 6:19,20)。
 神はわたしたちを罪から解放するため、イエス キリストという代価を払ってわたしたちを神のものとしてくださいました。そして、わたしたちの救い主イエス キリストとわたしたちを一つに結び合わせてくださるのが、聖霊なのです。2,000年前にこの世に人となって来られ、わたしたちの救いのために十字架でその命を献げてくださったイエス キリストと一つに結び合わせる、イエス キリストがなしてくださったその出来事をわたしたち自身のものとしてくださるのが、聖霊なのです。
 だからパウロはこうも言っています。「わたしは神に対して生きるために・・キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラテヤ 2:19, 20)。

 わたしたちの救いは、父・子・聖霊なる三位一体の神の御業によるものなのです。わたしたちは自分で救われるのにふさわしい者となって救われたのではありません。罪人が救われることを願い求めてくださる神の愛によって救われたのです。神の愛によって救われたのですから、救いに入れられた者は、神に対して責任あるいは義務が生じるのです。
 それは聖書が言うように「肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません」。ここで「肉」というのは、神とのつながりがない状態を指して「肉」と言っています。聖霊を受けて救いに入れられたことによる義務また責任ですから、神とのつながりのない状態へと戻るような義務や責任ではありません。罪によって神とのつながりを失った結果、死に囚われることになったのですから、肉に従って生きるならば、つまり神とのつながりを失って生きるならば、死に飲み込まれてしまいます。これは救いとは相容れない事柄です。

 それでもわたしたちは今、罪の世で生きていますから、罪の引き寄せようとする力(引力)を受けています。それに引きずられて罪の中に戻ってしまうことがないように、救いに固く留まるように、聖書はわたしたちに絶えず語りかけているのです。それをここでは「霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます」と言っているのです。

 おそらく皆さんの多くは、命を保つため、そして健康のために、食べるのを控えているもの、制限しているもの、あるいは歩くのを心がけているなど努めていることがあるのではないかと思います。わたし自身もそうです。わたしたちはこの世の命を保つために、医師の勧めなどに従い自らに制約を課して生きています。生きている者は、命に対する配慮が必要であることを知っています。同様にあるいはそれ以上に、永遠の命を保つために、神と共にあり続けるよう心を配り、罪と戦うことが大事なのです。

 パウロはこのローマの信徒への手紙の13:12で「闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう」と勧めています。またエフェソの信徒への手紙では「主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。・・神の武具を身に着けなさい」(エフェソ 6:10,11)と勧めて「真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なおその上に、信仰を盾として取りなさい」(エフェソ 6:14~16)と言われています。
 これら神の武具と言われているものは教会生活を通して与えられるものです。ですから丁寧な教会生活を心がけて頂きたいと思います。そして教会生活・信仰生活を導くのが神の霊、聖霊なる神なのです。

 繰り返しますが、わたしたちの救いは父・子・聖霊なる三位一体の神によるものなのです。
 例えば祈りの場合、父なる神に祈ります。子なる神イエス キリストの御名によって祈ります。聖霊なる神が出てこないように思われているかもしれませんが、祈るという行為自体が聖霊なる神の導きによるものです。
 だから聖書はこうも語ります。「“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださる」(ローマ 8:26)。わたしたちが言葉にさえできない、祈る言葉さえ見つからないときでも、聖霊なる神がわたしたちのために執り成し祈ってくださるのです。
 祈りという神との交わりは、聖霊なる神によって支えられているのです。ですから、聖霊なる神を抜きにしてはわたしたちの救いは成り立ちません。14節で言われているように「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです」。

 神の子とは、言葉どおり神さまの子どもです。聖書は神を父と呼び、わたしたちは神の子とされたと語ります。神とわたしたちとの関係が、親と子の関係にあると語られます。親と子は命のつながりです。互いにその存在を否定することはできない関係です。その否定することのできない命のつながりに入れられていることを、神の子という言葉は表しています。

 わたしたちは時に信仰の不安に襲われることがあります。果たしてわたしは救われているのだろうか、と。
 たとえわたしの信仰が弱くて、たとえ救われているかどうか不安になるようなことがあっても、わたしはわたしの信仰によって救われているのではなく、神によって救われているのです。神がわたしたちを愛して、父なる神がわたしたちの救いを願い、子なる神が人となってその命を献げて救いを成し遂げ、その救いを聖霊なる神がわたしたちのものとしてくださっている。そして神がこの聖霊によって「イエスは主である」という信仰へと導いてくださった。わたしが不安になろうと、救いの確信が揺らごうと、わたしたちは神の救いによって神の子とされているのです。

 わたしたちは聖霊によってキリストと結び合わされ一つとされました。キリストと共に古い自分に死に、キリストと共に神の子として新しく生まれました。それをわたしたちにしるし付けるのが、洗礼です。
 宗教改革を始めたマルティン・ルターという人は、自分の救いの確信が持てず、信仰の不安を抱えている人でした。彼は自分の救いに不安が生じてくると、机に向かいペンを取って「このわたしはキリストの洗礼を受けた者である」と繰り返し書いたと言われています。
 わたしたちは自分の内側を見ていくと、救いの確信を持つことなどできません。それは仕方ないことです。なぜなら、救いの確信はわたしたちの内側にあるのではなく、神の側にあるからです。
 神の愛が変わることなくわたしたちに向けられている、キリストのなしてくださった救いの御業が代々限りなく真実であり続けてくださる、そして聖霊なる神が唯一の救いであるイエス キリストとこのわたしたちを時を超えて一つに結び合わせてくださっている。この神の御心・御業の中にわたしたちの救いの確信があるのです。神の御言葉も御業も、洗礼や聖晩餐も、わたしたちが神によって救われたことを証し続けています。

 神との交わりの中に、神と共に生きるところに神の子の命はあります。だから、わたしたちの命の根拠も、命の希望も、父・子・聖霊なる神にのみあるのです。わたしたちのこの新しい命は、三位一体の神に対してだけ責任があり、義務があるのです。

 聖書は、父・子・聖霊なる神がご自身のすべてをもって関わり成し遂げてくださった救いを失うことがないように、新しい命を喜んで生きることができるように、神へと、そして神の許にある救いへとわたしたちを導いているのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 わたしたちに聖霊をお注ぎください。救いに生きる者としてください。あなたとの交わりに生きる神の子としてください。イエス キリストにより与えられた新しい命を失うことがないように、あなたと生きることに心を向け、信仰に生きる者とさせてください。どうかこの教会があなたと出会い、あなたと共に生きるところとなりますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

ヨハネによる福音書 1:43〜51

2019-02-17 17:27:56 | 聖書
2019年2月17日(日) 主日礼拝  
聖書箇所:ヨハネ 1:43〜51(新共同訳)


 福音書は、イエス キリストを伝えようとしています。イエスがキリストすなわち救い主であることを伝えようとしています。
 きょうの箇所はまだ1章です。この1章で言っていることは3つです。1〜18節は「イエス キリストは神の言葉です」ということ。19〜28節は「洗礼者ヨハネは救い主ではない」ということ。そして29〜51節は「自分でイエスを見てみなさい」ということです。

 29節で洗礼者ヨハネはイエスを指して「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と言います。34節でヨハネは「わたしはそれを見た」と言います。36節でも「見よ、神の小羊だ」と言っています。39節は「来なさい。そうすれば分かる」と訳されていますが、元々は「来て、見なさい」となっています。
 そしてきょうの箇所でも46節で「来て、見なさい」とあります。

 福音書は、最初の1章で救い主はイエス キリストです。このイエスを見なさいと宣言して、2章からイエスの救い主としての生涯を語り始めます。

 そこできょうの箇所ですが、イエスはガリラヤへ行こうとされます。その時フィリポに出会います。フィリポはイエスが行こうとされていたガリラヤにあるベトサイダ(湖の北側)の出身でした。イエスはフィリポに「わたしに従いなさい」と言われます。イエスは自分と共に生きるように招かれます。イエスと共に生きることこそ救いだからです。

 この1章には、イエスに招かれイエスを見て知った者たちが登場します。そして彼らは人をイエスの許に連れてきます。アンデレは兄弟のペトロを、そしてフィリポは友人のナタナエルをイエスの許に連れてきます。
 福音書は、イエスが救い主としての生涯を始めた直後から伝道が始まっていたことを伝えています。伝道の本質は、イエスとの出会いです。そして福音書自身も、この福音書を読むことを通してイエスと出会うことを願って書かれました。20章31節にはこう書かれています。「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」。

 教会はキリストと出会うための場所です。そして礼拝は、父・子・聖霊なる神と交わり、神を知る時なのです。教会がそのようなキリストと出会い、神を知るところとして用いられるように祈っていって頂きたいと思います。

 さてフィリポはナタナエルに言います。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ」。つまり「旧約が証ししている救い主に出会った。ナザレのイエスだ」とフィリポは言ったのです。するとナタナエルが答えます。「ナザレから何か良いものが出るだろうか」。ガリラヤの田舎ナザレから優れたものが出るのだろうか、という懐疑の言葉です。フィリポは言います。「来て、見なさい」。
 イエスを紹介することはできます。イエスの許に案内することもできます。しかし、信じるかどうかは一人ひとりが決断する事柄です。自分自身がイエスと出会って、イエスが誰なのか判断しなければなりません。

 ナタナエルがフィリポについて行くと、イエスはナタナエルを見て「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない」と言われます。ナタナエルはほめられてうれしかったかもしれませんが、初めて会うのにイエスが以前から自分を知っているように言うのを不思議に思い、イエスに問います。「どうしてわたしを知っておられるのですか」。イエスは答えます。「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」。
 ユダヤのいちじくの木は、日本のいちじくよりも大きくなるそうです。そしてその木陰は、憩いや瞑想、祈りの場に用いられるそうです。そして旧約では、いちじくの木陰は平和の表れとして用いられます(ミカ 4:4、ゼカリヤ 3:10)。このイエスの言葉は、ナタナエルがいちじくの木の下で祈り、神を求めていたことを表しています。イエスはナタナエルが求めていたもの、必要としていたものを知っていることを明らかにされました。
 それを聞いてナタナエルは言います。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」。イエスの言葉を聞いて、ナタナエルは「この方は自分を本当に知っておられる」と気づきました。
 信仰深かったナタナエルは、旧約の詩人の「主よ、あなたはわたしを究め、わたしを知っておられる」(詩編 139:1)という御言葉を思い出したかもしれません。ただ単に過去のことを言い当てたのではなく、ナタナエルの魂が求めているものをイエスは知っておられました。彼の上辺だけでなく彼の魂の底まで知っていてくださいました。だからナタナエルは、イエスに信仰を告白したのです。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」。

 するとイエスは言われます。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる」。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる」。
 この言葉を聞いてナタナエルは創世記にあるヤコブの出来事を思い起こしたことでしょう。「ヤコブは・・ハランへ向かった。とある場所に来たとき、・・そこで一夜を過ごすことにした。・・すると彼は夢を見た。先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったたりしていた」(創世記 28:10~12)。
 イエスは、神の子である自分が人の子となって地上に来たことによって、天と地が結ばれ、神の国に至る道が開かれることを、明言されたのです。

 ここで面白いのは、ナタナエルはイエスに対して「神の子」と言い、イエスは自分のことを「人の子」と言っています。福音書は、イエスが神の子であり人の子であると確信しています。ヨハネによる福音書は、神が遣わしてくださった救い主イエス キリストは「真に神であり真に人である」という信仰に立っています。神学的な言い方では「二性一人格」と言います。イエス キリストの一人の人格に、神性と人性が存在していること、つまりイエス キリストは真に神であり、真に人である、ということです。ですから日本キリスト教会信仰の告白も「イエス・キリストは、真の神であり真の人です」と告白しています。

 これは人の思いを超えています。人の理性は、イエスは人なのか、神なのかと問います。しかし福音書は語ります。その人の思いを超えた神の救いの御業がなされた。来て、見なさい。イエス キリストを見よ。自分で見てみなさい。
 このヨハネによる福音書は紀元90〜100年頃に編纂されたと今日考えられています。イエスが十字架に掛かられたのが、紀元30年頃のことです。おそらく福音書の編者自身イエスを直接は知らないのです。しかし編者自身、伝えられた福音を聞いて、キリストと出会い、イエスを信じたのです。だから自分も、アンデレやフィリポのようにイエス キリストを伝えるのです。先に紹介したように「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」(20:31)と書いているのです。
 そして多くの人がこのヨハネによる福音書を始めとする聖書の言葉を通してイエス キリストと出会ったのです。イエス キリストが誰であるかを知って、信じたのです。
 この教会において、礼拝を通し、聖書を通して、イエス キリストとの出会いが起こりますように。キリストの「わたしに従いなさい」という声を聞いて、信じる者が起こされますように。福音書を書かずにはおれなかったこの編者と同じように、ここからキリストの証しがなされていきますように。


ハレルヤ


父なる神さま
 イエス キリストと出会わせてくださり、感謝します。わたしたちを救いへと招くイエス キリストの声を聞かせてくださり感謝します。どうかこれからもこの教会においてキリストとの出会いが起こり、キリストに従う者が多く起こされていきますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

ローマの信徒への手紙 8:5〜11

2019-02-11 08:08:53 | 聖書
2019年2月10日(日)主日礼拝  
聖書箇所:ローマ 8:5〜11(新共同訳)


 霊と肉という対比がなされています。
 霊は、結び合わせる働きをします。きょうの箇所で「霊」は聖霊を表しています。聖霊は神ご自身とわたしたちとを結び合わせてくださいます。悪霊という言葉もあるように、神以外のものと結び合わせわたしたちを苦しめる働きをする霊もあります。
 聖書では、聖霊と言う以外にも神の霊、主の霊、キリストの霊などと言われることもあります。

 霊に対して肉という言葉が使われていますが、ここでは、神とのつながりがない状態を指して「肉」と言っています。
 「肉に従って歩む者は、肉に属することを考え」というのは、神とのつながりなしに生きる者は、この世に属することを求めることを表します。
 「霊に従って歩む者は、霊に属することを考え」というのは、神とのつながりを大切にして生きる者は、神との交わりの中で神の国に生きることを表します。

 神とのつながりのない肉の状態は、死へと向かっており、神とつながる霊を大切にする者は、神が与え給う命と平和に与ります。命は神から与えられるものであり、祝福も神とのよい関係、神との平和の中で与えられます。
 神とのつながりを軽んじる肉の状態にある者は、当然神の律法を軽んじますから神の律法に従うこと自体できません。神とのつながりを軽んじ、神とのつながりを持たない肉の状態にある者が、神に喜ばれることはありません。神とのつながりを大切にしない者は、神と共に生きるのではなく、神を利用しようとします。自分の願いをかなえるために、神を利用しようとします。利用しようとしかしない関係は喜びを生み出しません。

 神と共に歩み、救いに入れられるには、神とのつながりを生み出す聖霊が不可欠です。天の父がイエスの名によって遣わされる聖霊は、イエスが話したことを思い起こさせ、教えてくださいます(ヨハネ 14:26)。そしてイエスこそ主であるという信仰を与えてくださいます(1コリント 12:3)。

 この聖霊によって与えられる神とのつながり、神との交わりに生きることは、家族の関係に似ています。
 おそらくは、神とわたしたちの関係が家族の関係に似ているのではなく、神とわたしたちとの関係に基づいて家族という関係が与えられていると言うのが正しいのだろうと思います。つまり、神にかたどって人が創られているように、神との関係にかたどって家族の関係が与えられているのだろうと思います。この世で父と呼ばれる者たちは、天の父に倣って託されている者たちを治め、導き、愛していかなければならないのです。
 そして家族の関係に似ているということは、家族であるという事実はいつも変わらなくても、そこで言葉を交わし、共に生きる関係が日々育まれているか否かによって、家族の内実は大きく違ってきます。丁度、同じく礼拝に出ていても、御言葉を蓄え、祈る人と、そうでない人とでは信仰に違いが出てくるのと同じです。
 そこに命ある関係が築かれるには、日々の営みが大切です。共に生きることを通して、命が養われ愛が育まれていかねばなりません。神との関係においては、聖書という御言葉の糧に養われて、祈りという交わりの内に神と共に生きることを積み重ねていくのです。

 気をつけて頂きたいのは、信仰を持つ人は大抵いい人ですが、いい人は自分の善意が神の思いと一致すると勘違いしがちです。自分の善意すなわち神の御心ではありません。わたしたちは罪人ですから、善意でさえも神の御心から離れていくことを知っていなくてはなりません。聖書から聞きつつ、繰り返し神へと立ち帰らねばなりません。
 また、「うちではこんなときこういう風に対処します」と善意から教会にこの世の仕事で行われている方法を取り入れようとする人もいますが、それも違います。教会はキリストを主として歩むために長い間、罪と戦いながら歩みを積み重ねてきました。その教会の実践を軽んじて善意からでも、良かれと思ってであっても、この世の方法つまり「肉に属するもの」を選んでしまうと、教会は崩れていきます。

 神とのつながりのない肉であるのではなく、聖霊を求め、聖霊の導きを求め、霊的であることを求めていくことが大事です。わたしたちが霊的であるために、神がは礼拝、祈り、讃美、御言葉、献げること、仕えること、愛することを与えてくださっているのです。そしてそれが正しく行われているかどうかを検証していくのが、神学なのです。わたしたちの教会が神学を重んずるのは、わたしたちが聖霊に導かれて、神との交わりの中に生きるためなのです。すべては、霊的であるため、そして神の愛と祝福に満たされるためになされているのです。

 わたしたちは、聖霊に従って歩むことを、聖霊に属することを求めなければなりません。聖霊こそがわたしたちを神との交わりに生かし、救いに与らせ、命と平和へと導いてくださいます。
 聖霊は、わたしたちの内にキリストを住まわせてくださいます。キリストの復活の命、永遠の命に与らせてくださいます。「霊は義によって命となっています」。聖霊なる神が、父なる神・子なる神キリストとの関係を正しい義なるものとしてくださり、命をもたらしてくださるのです。
 「もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう」。

 人は、神が命の息を吹き入れて生きる者となりました(創世記 2:7)。罪がもたらす死を超えて生きるためには、聖霊を受けてキリストの命に与るのです。世の始めに命を与えられたように、神に贖われ、赦され、祝福されて新たな命に生きるのです。わたしたちの本当の命は、父・子・聖霊なる神との交わりの中にあるのです。
 神は求める者に聖霊を与えてくださいます(ルカ 11:13)。祈りつつ、聖霊に満たされて、信仰から信仰へ、命から命へと歩んでまいりましょう。


ハレルヤ


父なる神さま
 わたしたちを聖霊で満たしてください。あなたとの交わりの平和、命を味わい喜ぶ者としてください。あなたの救いが復活に至ることを望み見、希望に満ちた確信をお与えください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

ヨハネによる福音書 1:35〜42

2019-02-03 17:00:27 | 聖書
2019年2月3日(日) 主日礼拝  
聖書箇所:ヨハネ 1:35〜42(新共同訳)

 ある日、ヨハネは二人の弟子と一緒にいたとき、歩いておられるイエスを見つめて「見よ、神の小羊だ」と言います。
 それで二人の弟子は、イエスについて行きました。

 するとイエスは振り返り「何を求めているのか」とお尋ねになりました。すると二人は「先生(ラビ)、どこに泊まっておられるのですか」と尋ねます(ラビ:ユダヤ教の教師に対する敬称)。
 なんとも間の抜けたような答えに聞こえます。しかしこの言葉には「何に根ざしておられるのですか」また「何につながっておられるのですか」という意味が含まれています。ヨハネはこの表現に二重の意味を持たせて書いています。つまり、二人が付き従うためにイエスの滞在先を知りたいということと、イエスがどういう根拠で活動しておられるかを尋ねたということの二重の意味を持たせているのです。

 イエスは「来なさい。そうすれば分かる」と言われます。
 そこで二人はイエスについて行きます。
 福音書は「どこにイエスが泊まっておられるのかを見た」と書いていますが、これもイエスがどこに寝泊まりして活動しておられるのかを知ったという意味と、この日イエスと一緒に過ごしてイエスが誰とつながり、何に根ざして活動しているのかを知ったというのと二重の意味を持たせています。

 その日、二人はイエスのもとに泊まりました。午後4時頃のことだと福音書は書いています。当然二人はイエスに問いかけ、イエスとたくさん話をしただろうと思います。そしてイエスとの対話において、彼らは問いの答えを得たのです。
 だから、二人の内の一人シモン・ペトロの兄弟アンデレは、「彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、『わたしたちはメシア(油を注がれた者)に出会った」と言ってシモンをイエスの許へと導くのです。
 アンデレは、兄弟シモンをイエスに引き合わせなければと思いました。彼はイエスと話したことによって、イエスが神とつながり、神に根ざして活動しておられることを確信しました。

 シモンをイエスのところへ連れて行くと、イエスはシモンに「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ(岩)と呼ぶことにする」と言います。
 ケファというのは当時ユダヤで話されていたアラム語で「岩」という意味です。新約は、当時の地中海世界の共通語であったギリシャ語で書かれています。ギリシャ語で「岩」は「ペトロス」というところからペトロという名前で呼ばれるようになりました。

 改名は日本でも新たな出発の際に行われます。例えば、元服をして幼名から新しい名前をもらって一人前として新たに生き始める、ということが行われていました。ペトロも、イエスご自身から新しい名前をもらい、イエスとの出会いから新たな人生が始まりました。
 ペトロのエピソードは、福音書にいろいろ出てきます。イエスから問われ、「あなたはメシアです」と信仰告白をする(マルコ 8:26)。イエスから十字架の話を聞き「そんなことがあってはなりません」とイエスをいさめ、「サタン、引き下がれ」と叱責される(マタイ 16:22, 23)。イエスの逮捕の際には、逮捕に来た者の耳を切り落とす(マタイ 26:51)。イエスが心配で大祭司の官邸までこっそり着いていくが、イエスを三度知らないという(ルカ 22:54~61)。聖霊降臨の後は、人々に説教をし(使徒 2:14~40, 3:11~26)、各地を巡回し異邦人伝道の道を開きます(使徒 10章)。
 人間的な失敗もあるペトロです。パウロに叱責されるようなこともしてしまいます(ガラテヤ 2:11~13)。けれどもイエスに名付けられたように、信仰の岩として働きます。
 カトリック教会では、ペトロを初代のローマ司教であると考えています。伝説ではローマで殉教したと言われています。ポーランドの作家シェンキェヴィチは、この伝説をもとにして『クォ・ヴァディス』という小説を書いています。
 またヨーロッパなどではしばしば聖書の人物から名前をつけることがありますが、ペトロ由来の名前を耳にされたことも多いと思います。英語ではピーター、フランス語はピエール、イタリア語ではピエトロ、ドイツ語はペーター、スペイン語・ポルトガル語だとペドロ、ロシア語ではピョートルと言います。
 聖書を通してペトロの信仰も代々に語られるようになりました。イエス キリストとの出会いがペトロの人生を一変させ、全く新しいものとしたのです。

 さて、きょうの箇所の核となるのは「来なさい。そうすれば分かる」という言葉です。つまりキリストに出会うということです。ヨハネの二人の弟子も、イエスに触れ、語らう中でイエスが誰であるかを知りました。そして二人の内の一人アンデレは、兄弟ペトロをイエスに会わせようと連れてきました。イエスに出会ったペトロは、イエスから新しい名前をもらい、キリストの使徒としての新しい人生を歩み始めました。
 キリストの弟子たちの業は、人々をキリストに出会わせるためになされます。何のために教会を建て、礼拝をするのか、何のために伝道するのか、すべてはイエス キリストと出会うためです。
 たとえどんないいお話を礼拝で聞いたとしても、キリストに出会わないなら、感動したお話しもいつかは忘れ、人生を支え導くことはありません。まことの救い主であるイエス キリストに出会うこと、イエス キリストを知ることが大事なのです。

 わたしたちは今、聖書を通して聖霊の働きによってキリストと出会います。
 パウロはこう言っています。「わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」(2コリント 5:16, 17)。パウロの言うように、ほとんどのキリスト者は肉においてキリストを知ることなく、聖霊の働きの内にキリストと出会い、キリストを知り、その救いにより新しく神の子とされたのです。キリストに出会い、キリストによって救いを知り、神の愛を知るのです。キリストによって新しくされ、救いの中で新しく歩み始めるのです。

 福音主義教会(プロテスタント)は宗教改革の伝統に立つ教会ですが、宗教改革は礼拝改革であったとも言われます。わたしたちは礼拝において、キリストと出会い、神を知るのです。礼拝を通してキリストの救いに与り、新しくされて生き始めるのです。礼拝はキリストと出会い、神の奇跡が行われる所です。伝道は人の力や工夫でなされるものではありません。キリストがその人に臨んでくださり、キリストと出会う、そこに救いが生まれるのです。
 聖書は告げます。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。・・天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」(ルカ 11:9, 10, 13)。
 イエスは求める者すべてに答えてくださいます。「来なさい。そうすれば分かる」。
 教会へと導かれたすべての人が、イエス キリストと出会うことができますように。


ハレルヤ


父なる神さま
 わたしたちと出会うために、わたしたちがあなたを知るために、ひとり子イエス キリストを人としてお遣わしてくださったことを感謝します。
 ヨハネの弟子たちがイエスの「来なさい。そうすれば分かる」という言葉に従ってついて行き、確信を与えられたように、わたしたちもキリストに従い、確信を与えられ、新しくされ、キリストの弟子として仕えることができますように。喜びをもってキリストに導かれて救いの道を歩んでいけますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン