2019年2月24日(日)主日礼拝
聖書箇所:ローマ 8:12〜14(新共同訳)
パウロは「わたしたちには一つの義務があります」と言います。
わたしの感覚ではここは「義務」と言うよりも「責任」と言った方がいいように思います。日本語訳では岩波版が「責任」と訳しています。
この責任がどこから生じるのかと言うと、直前の11節で「もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。それで・・」と言われています。つまり、聖霊が宿っていることによって責任が生じるというのです。
まず、聖霊について確認しましょう。
聖霊については、イエスがヨハネによる福音書でこう言っておられます。「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。・・この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいる・・父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」(ヨハネ 14:16,17,26)。聖霊なる神が、イエス キリストが一体誰なのかを教えてくださるのです。だから聖書はこうも言います。「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」(1コリント 12:3)。
しかし、ただイエス キリストを理解するというだけではありません。
コリントの信徒への手紙 一 にはこう書かれています。「あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい」(1コリント 6:19,20)。
神はわたしたちを罪から解放するため、イエス キリストという代価を払ってわたしたちを神のものとしてくださいました。そして、わたしたちの救い主イエス キリストとわたしたちを一つに結び合わせてくださるのが、聖霊なのです。2,000年前にこの世に人となって来られ、わたしたちの救いのために十字架でその命を献げてくださったイエス キリストと一つに結び合わせる、イエス キリストがなしてくださったその出来事をわたしたち自身のものとしてくださるのが、聖霊なのです。
だからパウロはこうも言っています。「わたしは神に対して生きるために・・キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラテヤ 2:19, 20)。
わたしたちの救いは、父・子・聖霊なる三位一体の神の御業によるものなのです。わたしたちは自分で救われるのにふさわしい者となって救われたのではありません。罪人が救われることを願い求めてくださる神の愛によって救われたのです。神の愛によって救われたのですから、救いに入れられた者は、神に対して責任あるいは義務が生じるのです。
それは聖書が言うように「肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません」。ここで「肉」というのは、神とのつながりがない状態を指して「肉」と言っています。聖霊を受けて救いに入れられたことによる義務また責任ですから、神とのつながりのない状態へと戻るような義務や責任ではありません。罪によって神とのつながりを失った結果、死に囚われることになったのですから、肉に従って生きるならば、つまり神とのつながりを失って生きるならば、死に飲み込まれてしまいます。これは救いとは相容れない事柄です。
それでもわたしたちは今、罪の世で生きていますから、罪の引き寄せようとする力(引力)を受けています。それに引きずられて罪の中に戻ってしまうことがないように、救いに固く留まるように、聖書はわたしたちに絶えず語りかけているのです。それをここでは「霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます」と言っているのです。
おそらく皆さんの多くは、命を保つため、そして健康のために、食べるのを控えているもの、制限しているもの、あるいは歩くのを心がけているなど努めていることがあるのではないかと思います。わたし自身もそうです。わたしたちはこの世の命を保つために、医師の勧めなどに従い自らに制約を課して生きています。生きている者は、命に対する配慮が必要であることを知っています。同様にあるいはそれ以上に、永遠の命を保つために、神と共にあり続けるよう心を配り、罪と戦うことが大事なのです。
パウロはこのローマの信徒への手紙の13:12で「闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう」と勧めています。またエフェソの信徒への手紙では「主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。・・神の武具を身に着けなさい」(エフェソ 6:10,11)と勧めて「真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なおその上に、信仰を盾として取りなさい」(エフェソ 6:14~16)と言われています。
これら神の武具と言われているものは教会生活を通して与えられるものです。ですから丁寧な教会生活を心がけて頂きたいと思います。そして教会生活・信仰生活を導くのが神の霊、聖霊なる神なのです。
繰り返しますが、わたしたちの救いは父・子・聖霊なる三位一体の神によるものなのです。
例えば祈りの場合、父なる神に祈ります。子なる神イエス キリストの御名によって祈ります。聖霊なる神が出てこないように思われているかもしれませんが、祈るという行為自体が聖霊なる神の導きによるものです。
だから聖書はこうも語ります。「“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださる」(ローマ 8:26)。わたしたちが言葉にさえできない、祈る言葉さえ見つからないときでも、聖霊なる神がわたしたちのために執り成し祈ってくださるのです。
祈りという神との交わりは、聖霊なる神によって支えられているのです。ですから、聖霊なる神を抜きにしてはわたしたちの救いは成り立ちません。14節で言われているように「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです」。
神の子とは、言葉どおり神さまの子どもです。聖書は神を父と呼び、わたしたちは神の子とされたと語ります。神とわたしたちとの関係が、親と子の関係にあると語られます。親と子は命のつながりです。互いにその存在を否定することはできない関係です。その否定することのできない命のつながりに入れられていることを、神の子という言葉は表しています。
わたしたちは時に信仰の不安に襲われることがあります。果たしてわたしは救われているのだろうか、と。
たとえわたしの信仰が弱くて、たとえ救われているかどうか不安になるようなことがあっても、わたしはわたしの信仰によって救われているのではなく、神によって救われているのです。神がわたしたちを愛して、父なる神がわたしたちの救いを願い、子なる神が人となってその命を献げて救いを成し遂げ、その救いを聖霊なる神がわたしたちのものとしてくださっている。そして神がこの聖霊によって「イエスは主である」という信仰へと導いてくださった。わたしが不安になろうと、救いの確信が揺らごうと、わたしたちは神の救いによって神の子とされているのです。
わたしたちは聖霊によってキリストと結び合わされ一つとされました。キリストと共に古い自分に死に、キリストと共に神の子として新しく生まれました。それをわたしたちにしるし付けるのが、洗礼です。
宗教改革を始めたマルティン・ルターという人は、自分の救いの確信が持てず、信仰の不安を抱えている人でした。彼は自分の救いに不安が生じてくると、机に向かいペンを取って「このわたしはキリストの洗礼を受けた者である」と繰り返し書いたと言われています。
わたしたちは自分の内側を見ていくと、救いの確信を持つことなどできません。それは仕方ないことです。なぜなら、救いの確信はわたしたちの内側にあるのではなく、神の側にあるからです。
神の愛が変わることなくわたしたちに向けられている、キリストのなしてくださった救いの御業が代々限りなく真実であり続けてくださる、そして聖霊なる神が唯一の救いであるイエス キリストとこのわたしたちを時を超えて一つに結び合わせてくださっている。この神の御心・御業の中にわたしたちの救いの確信があるのです。神の御言葉も御業も、洗礼や聖晩餐も、わたしたちが神によって救われたことを証し続けています。
神との交わりの中に、神と共に生きるところに神の子の命はあります。だから、わたしたちの命の根拠も、命の希望も、父・子・聖霊なる神にのみあるのです。わたしたちのこの新しい命は、三位一体の神に対してだけ責任があり、義務があるのです。
聖書は、父・子・聖霊なる神がご自身のすべてをもって関わり成し遂げてくださった救いを失うことがないように、新しい命を喜んで生きることができるように、神へと、そして神の許にある救いへとわたしたちを導いているのです。
ハレルヤ
父なる神さま
わたしたちに聖霊をお注ぎください。救いに生きる者としてください。あなたとの交わりに生きる神の子としてください。イエス キリストにより与えられた新しい命を失うことがないように、あなたと生きることに心を向け、信仰に生きる者とさせてください。どうかこの教会があなたと出会い、あなたと共に生きるところとなりますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン
聖書箇所:ローマ 8:12〜14(新共同訳)
パウロは「わたしたちには一つの義務があります」と言います。
わたしの感覚ではここは「義務」と言うよりも「責任」と言った方がいいように思います。日本語訳では岩波版が「責任」と訳しています。
この責任がどこから生じるのかと言うと、直前の11節で「もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。それで・・」と言われています。つまり、聖霊が宿っていることによって責任が生じるというのです。
まず、聖霊について確認しましょう。
聖霊については、イエスがヨハネによる福音書でこう言っておられます。「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。・・この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいる・・父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」(ヨハネ 14:16,17,26)。聖霊なる神が、イエス キリストが一体誰なのかを教えてくださるのです。だから聖書はこうも言います。「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」(1コリント 12:3)。
しかし、ただイエス キリストを理解するというだけではありません。
コリントの信徒への手紙 一 にはこう書かれています。「あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい」(1コリント 6:19,20)。
神はわたしたちを罪から解放するため、イエス キリストという代価を払ってわたしたちを神のものとしてくださいました。そして、わたしたちの救い主イエス キリストとわたしたちを一つに結び合わせてくださるのが、聖霊なのです。2,000年前にこの世に人となって来られ、わたしたちの救いのために十字架でその命を献げてくださったイエス キリストと一つに結び合わせる、イエス キリストがなしてくださったその出来事をわたしたち自身のものとしてくださるのが、聖霊なのです。
だからパウロはこうも言っています。「わたしは神に対して生きるために・・キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラテヤ 2:19, 20)。
わたしたちの救いは、父・子・聖霊なる三位一体の神の御業によるものなのです。わたしたちは自分で救われるのにふさわしい者となって救われたのではありません。罪人が救われることを願い求めてくださる神の愛によって救われたのです。神の愛によって救われたのですから、救いに入れられた者は、神に対して責任あるいは義務が生じるのです。
それは聖書が言うように「肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません」。ここで「肉」というのは、神とのつながりがない状態を指して「肉」と言っています。聖霊を受けて救いに入れられたことによる義務また責任ですから、神とのつながりのない状態へと戻るような義務や責任ではありません。罪によって神とのつながりを失った結果、死に囚われることになったのですから、肉に従って生きるならば、つまり神とのつながりを失って生きるならば、死に飲み込まれてしまいます。これは救いとは相容れない事柄です。
それでもわたしたちは今、罪の世で生きていますから、罪の引き寄せようとする力(引力)を受けています。それに引きずられて罪の中に戻ってしまうことがないように、救いに固く留まるように、聖書はわたしたちに絶えず語りかけているのです。それをここでは「霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます」と言っているのです。
おそらく皆さんの多くは、命を保つため、そして健康のために、食べるのを控えているもの、制限しているもの、あるいは歩くのを心がけているなど努めていることがあるのではないかと思います。わたし自身もそうです。わたしたちはこの世の命を保つために、医師の勧めなどに従い自らに制約を課して生きています。生きている者は、命に対する配慮が必要であることを知っています。同様にあるいはそれ以上に、永遠の命を保つために、神と共にあり続けるよう心を配り、罪と戦うことが大事なのです。
パウロはこのローマの信徒への手紙の13:12で「闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう」と勧めています。またエフェソの信徒への手紙では「主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。・・神の武具を身に着けなさい」(エフェソ 6:10,11)と勧めて「真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なおその上に、信仰を盾として取りなさい」(エフェソ 6:14~16)と言われています。
これら神の武具と言われているものは教会生活を通して与えられるものです。ですから丁寧な教会生活を心がけて頂きたいと思います。そして教会生活・信仰生活を導くのが神の霊、聖霊なる神なのです。
繰り返しますが、わたしたちの救いは父・子・聖霊なる三位一体の神によるものなのです。
例えば祈りの場合、父なる神に祈ります。子なる神イエス キリストの御名によって祈ります。聖霊なる神が出てこないように思われているかもしれませんが、祈るという行為自体が聖霊なる神の導きによるものです。
だから聖書はこうも語ります。「“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださる」(ローマ 8:26)。わたしたちが言葉にさえできない、祈る言葉さえ見つからないときでも、聖霊なる神がわたしたちのために執り成し祈ってくださるのです。
祈りという神との交わりは、聖霊なる神によって支えられているのです。ですから、聖霊なる神を抜きにしてはわたしたちの救いは成り立ちません。14節で言われているように「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです」。
神の子とは、言葉どおり神さまの子どもです。聖書は神を父と呼び、わたしたちは神の子とされたと語ります。神とわたしたちとの関係が、親と子の関係にあると語られます。親と子は命のつながりです。互いにその存在を否定することはできない関係です。その否定することのできない命のつながりに入れられていることを、神の子という言葉は表しています。
わたしたちは時に信仰の不安に襲われることがあります。果たしてわたしは救われているのだろうか、と。
たとえわたしの信仰が弱くて、たとえ救われているかどうか不安になるようなことがあっても、わたしはわたしの信仰によって救われているのではなく、神によって救われているのです。神がわたしたちを愛して、父なる神がわたしたちの救いを願い、子なる神が人となってその命を献げて救いを成し遂げ、その救いを聖霊なる神がわたしたちのものとしてくださっている。そして神がこの聖霊によって「イエスは主である」という信仰へと導いてくださった。わたしが不安になろうと、救いの確信が揺らごうと、わたしたちは神の救いによって神の子とされているのです。
わたしたちは聖霊によってキリストと結び合わされ一つとされました。キリストと共に古い自分に死に、キリストと共に神の子として新しく生まれました。それをわたしたちにしるし付けるのが、洗礼です。
宗教改革を始めたマルティン・ルターという人は、自分の救いの確信が持てず、信仰の不安を抱えている人でした。彼は自分の救いに不安が生じてくると、机に向かいペンを取って「このわたしはキリストの洗礼を受けた者である」と繰り返し書いたと言われています。
わたしたちは自分の内側を見ていくと、救いの確信を持つことなどできません。それは仕方ないことです。なぜなら、救いの確信はわたしたちの内側にあるのではなく、神の側にあるからです。
神の愛が変わることなくわたしたちに向けられている、キリストのなしてくださった救いの御業が代々限りなく真実であり続けてくださる、そして聖霊なる神が唯一の救いであるイエス キリストとこのわたしたちを時を超えて一つに結び合わせてくださっている。この神の御心・御業の中にわたしたちの救いの確信があるのです。神の御言葉も御業も、洗礼や聖晩餐も、わたしたちが神によって救われたことを証し続けています。
神との交わりの中に、神と共に生きるところに神の子の命はあります。だから、わたしたちの命の根拠も、命の希望も、父・子・聖霊なる神にのみあるのです。わたしたちのこの新しい命は、三位一体の神に対してだけ責任があり、義務があるのです。
聖書は、父・子・聖霊なる神がご自身のすべてをもって関わり成し遂げてくださった救いを失うことがないように、新しい命を喜んで生きることができるように、神へと、そして神の許にある救いへとわたしたちを導いているのです。
ハレルヤ
父なる神さま
わたしたちに聖霊をお注ぎください。救いに生きる者としてください。あなたとの交わりに生きる神の子としてください。イエス キリストにより与えられた新しい命を失うことがないように、あなたと生きることに心を向け、信仰に生きる者とさせてください。どうかこの教会があなたと出会い、あなたと共に生きるところとなりますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン