聖書の言葉を聴きながら

一緒に聖書を読んでみませんか

誰にもわかるハイデガー

2020-11-30 18:23:58 | 読書
 筒井康隆『文学部唯野教授・最終講義 誰にもわかるハイデガー』(2018年 河出書房新社 解説 大澤真幸)読了。図書館で借りて読んだ。

 ハイデガーの『存在と時間』を紹介している。とても分かりやすい本だった。タイトルに偽りはなかった。買おうかとも考えている。
 著者はとても理解力のある方のようだ。本の中で既にある『存在と時間』の翻訳を紹介しているところがあるが、わたしには何を書いているのかさっぱり分からない。著者は1ヶ月で読み終え「もっと易しい言葉で、いくらでも易しくできるんじゃないかというふうに思った」とのこと。そしてその通り易しく、誰にも分かるように紹介してくれている。
 著者については殆ど知らない。『時をかける少女』の作者であるということ、朝日新聞に連載された『朝のガスパール』を読んでいた(内容は覚えていない)ぐらいである。しかし、これを読んで本当に感心したので、著者の他の作品も読んでみようかと思った。

 『存在と時間』の印象だが、ハイデガーは、神を抜きで聖書の提示する世界を描こうとしているのだなぁと感じた。これは、この本を読む前に読んだニーチェの入門書を読んだときにも感じたものである。当時のキリスト教では提示できなくなっているものを、生きることに深く関わることとして提示しようとしたのだろうか。

創世記 12:1〜9

2020-11-29 18:54:14 | 聖書
2020年11月29日(日)主日礼拝  待降節第1主日
聖書:創世記 12:1〜9(新共同訳)


 きょうから待降節です。教会の暦、教会暦は待降節から始まります。
 待降節は、降誕を待つ時のことです。待つというのは、神が民に与えられる訓練の1つです。旧約の民イスラエルは、救い主の到来を待ち続けました。そして時至って、イエス キリストが遣わされました。今、わたしたちはキリストの再臨、神の国の完成を待ち続けています。降誕節を祝う前に、降誕を待つ待降節の時を過ごし、神の約束は実現することを覚えていくのです。

 今年は待降節をアブラハムの物語を聞いて過ごします。アブラハムは、神の召しを受けた初代のイスラエルです。信仰の父と言われます。アブラハムは元々はアブラムという名前でしたが、神によってアブラハムと改名されました(17:5)。
 きょう聞いた箇所は、アブラハムがまだアブラムだった頃の話、アブラムが神の召しを受けたときの話です。

 主はアブラムに言われました。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。」
 神はアブラムを召し出されます。何故アブラムなのかは語られません。神がアブラムを召されたときの神の言葉が語られます。
 キリスト教では、信仰を持って神に従う時「神に召された。召しを受けた」と言います。信仰は、信じる者が勝手に信じる内容を決めるのではなく、神が語りかけられる声を聴いてその声に従います。信仰は信じる者が主になるのではなく、語りかけ、召し出される神が信仰の主なのです。

 神の召しは「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい」というものでした。神は、住み慣れた土地、これまで築き上げてきた周囲の人々との関係を捨てて、神が示す導きに従って歩み出すように命じられます。これは、わたしたちに大きな不安を与えます。わたしたちは目に見えるもの、目に見えないものも含めて豊かであること、備えがあることで安心します。その様々な豊かさによって、自分自身が養われ益を得るように努めています。
 しかし、神は自分に安心を与えてくれる住み慣れた土地、人との繋がりを手放して従うように求められます。きょうの箇所の直前11:31を見ますと、アブラムの父テラはカルデアのウルを出てハランへとやってきました。テラが何もないところからようやく築き上げてきたものがそこにはあったはずです。けれど安心や自分の益となるものを、自分が持っているもの、得たものの中に求めるのではなく、決して自分のものとすることはできない神ご自身の中に、自分の未来を見出し、自分の生きる道を見出すように神はお求めになります。このことは究極的にはイエスのこの言葉へと向かっていきます。「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」(マルコ 8:35)信仰とは、神以外のものに依り頼もうとする思いを捨て、神に支えられ、神が与えてくださるものを受けようとすることです。
 ですから、キリスト者にとっては自分の願いの実現が大事なのではなく、神の御心は何なのか、神はどこへと召しておられるのかが重要であり、それを聴こうとして神の声に心を向けることが大切なのです。

 神の召しには、約束が伴っていました。「わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。/あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。/地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。」
 神の約束は、祝福の約束でした。アブラムから遥かに時を経た時代に生きるわたしたちは、神の召しに応えたアブラムに対する神の約束が真実であったことを知っています。アブラムは確かに大いなる国民となりました。アブラムが従ったことから神の民イスラエルが生まれました。アブラムの信仰に連なる神の民、ユダヤ教、キリスト教、イスラムも含めたら、今や数えることができません。アブラムの名は信仰の父として数千年の時を経た今も忘れられることはありません。
 そして最も大切な約束は、祝福の源となるという約束です。神に従う者と共に神はあってくださり、神に従い生きる者を通して神は祝福を地に注がれるのです。そしてついには、アブラムの子孫、イスラエルの民の中にご自身の御子イエス キリストをお遣わしになり、「地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る」という約束を果たされたのです。

 アブラムは神の召しに従い、多くのものを手放しました。しかし、アブラムは神から神と共に生きる祝福、救いに入れられ神の民として生きる祝福、そして永遠の命へと至る祝福を受けたのです。
 アブラムは、主の言葉に従って旅立ちました。アブラムは、ハランを出発したとき75歳でした。アブラムは妻のサライ、甥のロトを連れ、蓄えた財産をすべて携え、ハランで加わった人々と共にカナン地方へと入っていきました。アブラムは何も言わず、黙って神に従いました。行き先が明らかにされないまま神の声を聴いて、それに従いました。
 ところで11:30を見ますと、アブラムの妻サライは不妊の女でアブラムには子どもがいなかったとあります。神が大いなる国民にするなどと言われても、それを信じられるような状況は何もありませんでした。アブラムがカナンを通り、シケムの聖所、モレの樫の木まで来たとき、主はアブラムに現れて、「あなたの子孫にこの土地を与える。」と言われました。しかし、その地方には既にカナン人が住んでいました。「あなたの子孫にこの土地を与える」などと言われても、アブラムに子どもはなく、その土地には既に住んでいる人たちがいます。アブラム自身、既に75歳です。一体、何をどう見たら神の言葉が真実だと思えるのでしょうか。

 アブラムは肉の目に見えるものに依り頼むことをしませんでした。自分の中で将来の計算を立てることをしませんでした。アブラムは自分に語りかけてくださった神を仰ぎ見ていました。未来は自分の手の中にではなく、神の御手の中にあることを信じていました。そしてそれこそ、神がアブラムに、すべての神の民に求めておられることです。
 アブラムは見えるものに振り回されて不安に悩むのではなく、神を呼び求め、礼拝しました。アブラムは彼に現れた主のために、シケムに祭壇を築きました。そこからベテルの東の山へ移り、西にベテル、東にアイを望む所に天幕を張って、そこにも主のために祭壇を築き、主の御名を呼びました。
 アブラムはひたすら神に依り頼み、神と共に生きることを証ししました。アブラムを通して、神ご自身こそ何物にも替え難い恵みであり、祝福であり、命であることが証しされました。そしてアブラムがなした証しを、神はイエス キリストにおいて成就されたのです。
 イエスは、神の御心により神としての栄光を捨てられました。人となってアブラムの子孫となられました。地上で目に見える報いを受けられることなく、ただひたすらに神と共に歩まれました。命までも失われ、すべてが虚しかったかのように見えましたが、神からすべてを受け、死から甦り、栄光を受け、すべての人の祝福となられました。

 アブラムに語られた神の言葉は真実でした。その召し、その約束に、神はご自身の御子の命をかけられるほどに真実でした。朽ちていく目に見えるものや、変わりいくこの世がわたしたちを救うことはありません。神の真実がわたしたちを救うのです。
 神の言葉に聴き従う者は幸いです。アブラムを支え導いた恵み、イエス キリストにおいて成し遂げられた恵みがその人を包むでしょう。


ハレルヤ


父なる神さま
 救いの御業のために、あなたはアブラムを選び、召し出されました。あなたはアブラム、そしてあなたの民を通して祝福を地に注がれます。今わたしたちもあなたの民とされ、祝福の源とされていることを感謝します。どうか更に多くの人が救いへと導かれ、祝福に与ることができますように。キリストの誕生を仰ぎ見、祝おうとするこの時、多くの人があなたの許へと招かれ導かれますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

詩編 144:12〜15

2020-11-27 12:33:30 | 聖書
2020年11月25日(水) 祈り会
聖書:詩編 144:12〜15(新共同訳)


 きょうは12〜15節です。ここでは、主語が「わたし」から「わたしたち」に変わっています。
 144篇は「王の詩篇」と呼ばれるものですから、12節からは、王が神の民を代表して祈るという形になっているように思います。
 そして内容はと言うと、神が与えてくださる未来、神の国の幻を仰ぎ見て、その到来を待ち望む祈り、神の国へと導いてくださる神と共に歩む幸いを讃美する祈りになっています。

 この詩篇は、既存の詩篇から詩句を採用していること、用語にアラム語からの借用があることなどから、バビロン捕囚で破壊された神殿が再建された(第二神殿)後に最終的にまとまったと考えられています。
 これは、ダビデ王朝がなくなった後、神の国の到来を待望する思いが満ちていく中で、詠い紡がれていったのではないかと思われます。軍事的に敵に勝利するというモチーフがないのも、その時代の思いを表しているのではないかと考えられます。(参照:月本昭男『詩篇の思想と信仰 VI』)

 12節「わたしたちの息子は皆/幼いときから大事に育てられた苗木。/娘は皆、宮殿の飾りにも似た/色とりどりの彫り物。」
 子どもたちについて語るのは、未来について語ることです。苗木は、成長を指し示し、神の守りと導きのある未来を語ります。娘の方の表現は、美しい女性の施しがなされた女人像の柱を喩えに用いたものでしょう。

 13節a「わたしたちの倉は/さまざまな穀物で満たされている。」13節b〜14節a「羊の群れは野に、幾千幾万を数え/牛はすべて、肥えている。」
 飢える心配のない豊かさが与えられている未来を描いています。これは神の恵みと祝福に満たされているしるしです。

 14節b「わたしたちの都の広場には/破れも捕囚も叫び声もない。」
 人々を不安や悲しみへと引きずり込む戦争のかけらもありません。神の平和 シャロームが民を包みます。

 15節「いかに幸いなことか、このような民は。/いかに幸いなことか/主を神といただく民は。」
 12〜14節で描かれた姿は、神が与えてくださるものです。神と共に歩む未来に与えられるものです。バビロン捕囚を経て、神に裁かれるのではなく、神に祝福されることを切に求めるようになっていた民の信仰を反映しているのでしょう。バビロン捕囚の経験があって、そもそも神は民をどこへ導こうとされていたのか、アブラハムを召し出されたとき、モーセを用いてイスラエルをエジプトから導き出されたとき、十戒や様々な戒めを与えられたとき、神はどこへ導こうとされていたのか、ということを思うようになったのでしょう。
 「いかに幸いなことか」は、神と共に歩む者の幸いを表す表現です。イエスの教えでも「幸いである」という言葉が繰り返されています(マタイ 5章、ルカ 6章)。

 今、ここにないものを仰ぎ見ることは、信仰にとって大切なことです。「幻がなければ民は堕落する」(箴言 29:18)と聖書は語ります。わたしたちは、まだ成就していない神の国の完成・到来を仰ぎ見ながら歩みます。今は感染症のために配餐をひかえていますが、聖晩餐は終わりの日に代々の聖徒たちと共に囲む主の食卓を指し示しています。
 神学の表現に「前味を味わう」という言い方があります。本当に味わうのは神の国に入れられてからですが、その時が必ず来ることを信じて味わうことを言います。洗礼や聖晩餐、そして礼拝において神の国を味わうのです。神の平和 シャロームを味わうのです。神の国の完成に先立って、味わうのです。教会は今この時、終末の前味を味わう先駆的な存在として建てられています。そして繰り返し主の祈りの(マタイ 6章、ルカ 11章)「御国が来ますように」と祈り続けていくのです。

 わたしたちも今、代々の聖徒たちと共に、神の国を仰ぎ見て「いかに幸いなことか、このような民は。/いかに幸いなことか/主を神といただく民は」と告白し、祈って参りましょう。


ハレルヤ


父なる神さま
 いつもわたしたちを未来へと、神の国へと導いていてくださることを感謝します。あなたが与えてくださる幻が、わたしたちに未来への希望を与えます。あなたは「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る」(1コリント 13:13)と言われました。あなたが与えてくださる希望が失われないことを信じます。どうかあなたの希望により、あなたと共に歩む力を増し加えてください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

ローマの信徒への手紙 12:15〜18

2020-11-22 21:08:36 | 聖書
2020年11月22日(日)主日礼拝  
聖 書  ローマの信徒への手紙 12:15〜18(新共同訳)


 きょうは、読みました所の15, 16, そして18節から聞いて参ります。
 15節「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」
 このローマの信徒への手紙は、書名にもあるとおり手紙です。抽象的な論文ではなく、具体的な相手がいます。パウロはまだローマに行ったことはありませんが、ローマ教会の様子を伝え聞いて、何としてもローマ教会の人たちに伝えたいとこの長い手紙を書きました。パウロの頭には、顔は思い浮かびませんが、キリストを信じ、教会に集い −教会と言ってもまだ信徒の家で礼拝を守る「家の教会」の状態ですが− 主にある兄弟姉妹たちが思い浮かんでいます。ですから「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」というのは一般論ではありません。
 ここでおそらく「泣く人」というのは、13節で「旅人」と言われた人たちではないかと思います。
 13節の所は、原文だと「聖徒の必要のために提供し、よそ者への愛を実践して」となっています。これは、この手紙が書かれた時代状況を考慮すると、まだキリスト者は少数者で、迫害される立場でした。迫害を受けて、住んでいた土地を離れ、同じ信仰のキリスト者を頼りに逃れてきている人たちのことが言われているように思います。今日で言うと「難民」に当たる人たちです。
 信仰故に、困難な状況にある人たちと共に泣くのです。つまり「共感」することが求められています。

 「共感」というのは、信仰に欠かせない感覚です。第一に神に共感し、神の御心に従っていくのです。罪人の救いを願う神の愛に共感し、救いの御業に仕えます。神が愛しておられる人たちを大切にします。
 この共感という感覚は、共に生きるために与えられた恵みです。わたしたちにとって、自分の気持ちが理解してもらえない、分かってもらえないというのはとても辛いことの1つです。罪によって、一人ひとりの善悪が異なってしまったことにより、分かり合える、理解し合えることが傷つけられてしまいました。
 そんなわたしたちに神は、キリストによって神に立ち帰る恵みを与えてくださいました。罪ゆえにバラバラになってしまった者たちが、唯一の神の許に立ち帰り、神の許で出会うのです。唯一の神に共感することを通して、神の御心を共有するのです。

 わたしたちは罪を抱えているので、絶えず神から離れていきます。だから、礼拝へと繰り返し帰ってくるのです。体ごと、丸ごとの自分が神へと帰ってくるのです。そして礼拝で、いつも御言葉を聴くのです。聖書を通して神の御心を聴くのです。わたしたちの教会は、歴史的に「御言葉によって絶えず改革され続ける教会」という言葉を掲げてきました。罪のため繰り返し神から離れて行こうとするこのわたしを、何度でも御言葉によって立ち帰らせて頂くのです。
 そのために、神は教会をお建てくださり、主の日ごとに礼拝を守らせてくださるのです。教会は10人もいれば、合う人合わない人がいます。そういった自分の好みを超えて、神が共におらせてくださるのです。アーメンと共に告白できる信仰を共有させてくださるのです。教会でなければ、一緒にいることはないだろうと思う人と、神が一緒におらせてくださるのです。
 今では、教会に来なくてもキリスト教の学びは出来ます。聖書の学びもいくらでもできます。しかし教会では、合わない人、理解するのが難しい人と、キリストの救いの故に共におらせて頂く、アーメンと共に告白する同じ信仰に与らせて頂くのです。まさに教会では、神の救いの御業が目に見える形で現されているのです。聖書の学びは趣味でもできますが、教会生活は趣味ではできません。教会だからこそ罪が露わになることもあります。光である神に近づくからこそ、影がより濃くはっきりと現れます。一人ひとりが祈りつつ、神と共に歩むのでなければ、教会生活は成り立ちません。

 パウロは、多くの人がやって来る大都市ローマの教会に集うキリスト者が、キリストによってつながれ、喜ぶこと、泣くことを共有し、分かち合い、神と共に歩むことを願っているのです。喜ぶことを共有するとき、イエスが5つのパンと2匹の魚で大勢を満たしたように(ヨハネ 6章)、そこに集うキリスト者が神の恵みに満たされていくでしょう。そして泣くことを共有するとき、泣く者は孤独から導き出され、多くの祈りが自分のためになされ、神が祈りに応えてくださることを知るでしょう。

 16節「互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。」
 この節は、訳も解釈も多様で、説明し出すと長くなりますが、要点は「キリストに倣って、高ぶることのないように」という勧めです。
 「互いに思いを一つにし」というのは、「互いのことを同じように心にかけ、同じキリストの愛を心に抱くように」という勧めです。わたしたちの歩みの基準となるのは、イエス キリストです。共にただ一人の救い主であり羊飼いであるイエス キリストに従って歩みます。そのイエス キリストは、あなたの救いもわたしの救いも同じように思ってくださり、あなたのためにもわたしのためにも十字架を負ってくださいました。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」(フィリピ 2:6~9)救いは、イエス キリストにあります。だからキリストに倣って「高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい」と勧めているのです。
 文法的な説明は省きますが、「低い人々」は「低いこと」と訳し「「低いことに同調し」(田川建三)、つまり「謙遜でありなさい」と訳している人もいます。よく子どもと話すときに、しゃがんで子どもと同じ目線で話すように言われることがありますが、イエスが人となってわたしたちの所まで来てくださった、わたしたちと同じ目線に立ってくださった。それと同じように、その人と同じ目線に立ち、その人の喜び、悲しみに共感して、共に歩むことが勧められています。

 そのようにキリストを仰ぐときに「自分を賢い者とうぬぼれてはなりません」と言われます。この世の知恵・賢さは、キリストの愛は評価しても、十字架は評価できません。十字架の道を歩むキリストに従おうとするとき、世はそれに反対し、それを愚かと判断します。それはうまいやり方ではなく、自分の得になるやり方ではないと考えます。教会であっても、しばしばうまいやり方、こうすれば問題を乗り越えることができるというやり方、経済的に得をするやり方が選ばれます。しかし、この世の知恵・賢さではキリストに従えないことに気づいていなくてはなりません。ただひたすらにキリストを仰ぎ、神の御心を求めていくのです。教会は神の御業であり、神の御心によって建てられていくものだからです。

 神の御心を第一としていくとき、神はわたしたちに平和を与えてくださいます。神が与えてくださる平和は、単に争いがない状態ではなく、共にあることを喜べる状態です。神が共にいてくださることが嬉しい、喜べる、それが神の平和、シャロームです。神の民イスラエルにおいては、シャロームは挨拶の言葉です。朝も昼も夜も使える挨拶だと聞いています。つまり、朝も昼も夜も、いつも神があなたと共にいてくださり、主にある喜びがあなたを満たすように願う、それがシャロームです。
 教会は、できればすべての人がこの神の平和に与り、与えられた命、生涯を喜びのうちに歩めるようにと願って、神の御業に仕えているのです。

 パウロがこれまでこの手紙で語ってきたことは、すべてこの神の平和に至るためです。まだ会ったことのないローマ教会の兄弟姉妹たちが、神の平和に与れることを願ってこの手紙を書きました。その願いは、神の御心でもありました。神はこの手紙をご自身の言葉として聖書に収め、代々に渡ってお語りになりました。だからわたしは、礼拝の最後、神の祝福を告げる際に「神の給う平安 シャロームの内を行きなさい」と言ってから、聖書に記された祝福の言葉を語ります。
 今、神は、わたしたちの救い・幸いを願って、キリストにおいて与えられる神の平安 シャロームへとわたしたちを招いていてくださるのです。きょう共に聞いたこの聖書の言葉、勧めは、わたしたちを神の平安へと、シャロームへと招くための勧めなのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 あなたの救いの御業は、わたしたちに共感を与え、共に生きることを与えてくださいます。代々の教会と共に、わたしたちの教会にも喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣くことをお与えください。常にイエス キリストを仰ぎ、神の知恵、神の御心を求めていくことができますように。どうかあなたの御心、あなたの愛、あなたご自身に共感し、あなたの平和、シャロームに与ることができますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン