聖書の言葉を聴きながら

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ヨハネによる福音書 4:27〜30

2019-11-24 23:37:59 | 聖書
2019年11月24日(日) 主日礼拝  
聖書:ヨハネによる福音書 4:27〜30(新共同訳)


 イエスの一行は、ガリラヤへと行く途中、サマリアのシカルという町に立ち寄りました。このシカルという町にはヤコブの井戸と呼ばれる井戸があって、イエスはその井戸の傍らに座り込んで休んでおられました。
 時は正午頃、一人の女性が水を汲みにやってきます。イエスはこの女性に「水を飲ませてください」と頼みます。その言葉づかいから自分に話しかけたのが、ユダヤ人だと気づいたのでしょう。この女性は驚きます。ユダヤ人はサマリア人を嫌っていて、付き合うのを避けていたからです。「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」とこの女性が答えたところからイエスとこの女性との対話が始まります。

 何とも不思議な対話でした。おそらく聖書を読む多くの人も「何だこの会話は」と思われるような対話でしたが、彼女は引きつけられるものを感じていました。
 彼女が、イエスが与えるという渇くことのない水をほしがると、イエスは「あなたの夫を呼んで来なさい」と言われます。彼女が「夫はいません」と言うと、「あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言った」とイエスは言います。

 彼女は驚きました。旅のユダヤ人が自分のことを知っている。しかも彼女が心の奥に隠してふたをしておきたい自分の痛み・悲しみを知っている。彼女は自分の目の前にいる男が預言者かもしれないと思いました。神がついに自分を憐れんでくださり、預言者を遣わして神の恵みに与る道を示してくれるのかもしれないと思いました。
 彼女は言います。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」
 イエスははっきりとお答えになります。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」
 彼女は、雷に打たれたかのような衝撃を受け、次の言葉を発することが出来ませんでした。神が遣わしてくださったのは、預言者どころか救い主その方でした。

 「ちょうどそのとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話をしておられるのに驚きました。しかし、『何か御用ですか』とか、『何をこの人と話しておられるのですか』と尋ねる者はいませんでした。」
 普通なら関わりを持たないサマリアの女性と話しているのは不思議でした。弟子たちはあえてサマリア人と関わろうとはせず、何も尋ねませんでした。
 しかしイエスは、周りの者たちが当惑するような関わり方をなさいます。
 徴税人や罪人たちが話を聞こうと近寄ってきたときも、ファリサイ派の人々や律法学者たちは「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」(ルカ 15:2)と驚きました。
 イエスご自身がパウロに出会い、回心させ導かれたのに、「皆は彼を弟子だとは信じないで恐れ」(使徒 9:26)ました。

 彼女は我に返ると、水がめをそこに置いたまま町へと駆け出し、出会う人々に「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」と言って回りました。
 なぜ彼女は町へと向かったのでしょうか。そこにいる人たちは、自分を白い目で見てくる人々、自分の噂話をする人たち、会いたくなくてわざわざ昼日の中水を汲みに行こうと思える人々です。
 彼女はこれまでの自分を吹き飛ばす出会いをしてしまったのです。水を汲みに来たのに、生活に欠かせない水を汲みに来たのに、水がめをそこに置いたまま駆け出すほどの出会いをしてしまいました。イエス キリストと出会ったのです。イエス キリストを知ったのです。これまで自分がどうであったか、みんなが自分をどう思っているか、そんなことが吹き飛んでしまう出会いをしたのです。
 何とうらやましいことかと思います。自分も彼女のような出会いがあれば、もっとしっかりとした信仰になるのではないかと思わずにはいられません。しかし、一人ひとりに唯一無二の命があるように、神の導きも一人ひとりに固有のものです。神がよかったと思われる最善のものです。イエスと劇的な出会いをしたパウロも「わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません」(2コリント 5:16)と言っています。
 大切なのは、自分の救いのために神が与えてくださったキリストとの出会いをきちんと受けとめることです。神が自分に語りかけてくださる御言葉を自分自身の存在をもって味わうことです。そこから始まって、神はわたしたち一人ひとりを「主と同じ姿」(2コリント 3:18)になるまで導いていってくださいます。

 彼女は出会う人々みんなに「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシア 救い主かもしれません」と言って回ります。
 彼女は語らずにはいられません。パウロも「福音を宣べ伝えずにはいられない」(1コリント9:16)と言っていますが、彼女もそうだったのです。
 けれど彼女の言葉には、不安が表れています。「もしかしたら・・・かもしれません」と言っています。自分の言葉なんて信じてもらえないかもしれない。救い主に会ったなんて言ったら、バカにされるだけかもしれない。そんな不安が「もしかしたら・・・かもしれません」という言葉になったのではないでしょうか。

 そんな彼女の不安をよそに「人々は町を出て、イエスのもとへやって来」ました。
 イエスは、彼女に出会い、彼女を用いて、サマリアの人たちに出会うために来られました。サマリアの人たちは、かつてアッシリアに国を滅ぼされて以来、ユダヤ人からは軽蔑され、同じ神の民とは見なされなくなっていました。しかしイエスは、そのサマリアの人々に救いをもたらすため、シカルの町へと来られ、そのシカルの町でも軽蔑されている一人の女性を選び用いられて、ご自身を伝えられたのです。悲しみと痛みを負っている者をイエスは御業のために用いられるのです。聖書は語ります。「主に結ばれているならば、自分たちの苦労が決して無駄にならない。」(1コリント 15:58)

 イエス キリストに出会い、神と共に歩むとき、わたしたちは神にあって「よかった」存在になるのです。神に立ち帰り、神の御前に立つとき、わたしたちは神に祝福されている本当の自分を知ることができるのです。だからわたしたちの信仰の先輩であるカルヴァンは「人生の主な目的は、神を知ることだ」と言うのです。
 わたしの牧師としての最大の願いは、この教会に集う人が、イエス キリストに出会い、神と共に歩むことです。イエス キリストを通して、父・子・聖霊なる神の交わりに入れられて生きることです。
 どうか皆さんお一人おひとりが御言葉を通してイエス キリストに出会えますように。今もわたしたちに語りかけておられる神の声を聴くことができますように。


ハレルヤ


父なる神さま
 わたしたちはきょう、イエスが、蔑まれていた人たちに救いを伝えるために、その人たちからも白い目で見られていた悲しみを負った一人の女性を救い、用いられたことを聞きました。あなたはわたしたち一人ひとりをも救いへと導き、用いてくださいます。どうか今与えられている恵みに満たされて、あなたとの交わりの中に生きることができますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

イザヤ書 61:1〜3、10〜11

2019-11-10 22:07:23 | 聖書
2019年11月10日(日) 主日礼拝  逝去者記念礼拝
聖書:イザヤ書 61:1~3, 10~11(新共同訳)


 本日は、先に召された方々を覚えて守る逝去者記念礼拝です。
 教会の暦、教会暦に、先に召された人々を覚える All Saints Day と呼ばれる日が11月の初めにあるところから、この時期、逝去者を覚えて礼拝を守る教会が多くあります。地方に行きますと、お盆の帰省に合わせて守るところもあります。

 現代はとても便利な時代になりました。人類は文明を積み重ね、科学技術により昔はできなかったいろいろなことができるようになりました。けれどどんなに便利になっても、人が自由にできないものがあります。その一つが時間です。人は時間を止めることはできません。成長し、年を取り、老いていくことを止めることはできません。そして誰もがこの世での人生の終わりの時を迎えます。
 死は、自分の命であっても、命は自分の思い通りにすることができないことを教えます。実に、命は自分の命であっても、自分の所有物ではありません。命は、与えられたものであり、いつか与えてくださった方の許に帰らねばなりません。
 聖書は、その命の造り主である神がおられること、神によって命が与えられ、神は一人ひとりをご自分の御国へと導こうとしておられることを教えています。

 神は創造のとき、愛と祝福をもってお造りになられました。神は人をご自分にかたどって造られました(創世記 1:27)。愛である神ご自身(1ヨハネ 4:16)にかたどって、愛をもって生きる者としてお造りになりました。
 しかし、人は罪を犯してしまいました。食べてはいけないと言われていた善悪の知識の木の実を食べてしまいました(創世記 3:6)。それにより、神とは違う自分の善悪を持つようになり、神とは共に歩めなくなってしまいました。その結果、命の造り主である神から離れていくようになりました。神に背を向けて歩む、その人生の終わりには死が待っています。人は罪によって、死に囚われてしまいました。
 そこで神は罪と罪がもたらす死から救うために御業をなしてくださいました。その救いの御業は、わたしたちと新しい関係を築くことでした。人を罪と死から救い出すことができるのは神だけです。命を創造される神だけが、死を超える命を与えることができるのです。ですから、神はわたしたちとつながろうとしてくださり、わたしたちに関わってくださいます。そのとき、わたしたちは死から解放されるのです。

 さて、きょう読みました箇所ですが、神はご自身の御心・計画を伝えるために預言者をお立てになります。聖書が語る預言というのは、あらかじめ未来を語ることではなく、神の言葉を託されて語ることです。ですから預言は、言葉を預かると書きます。
 聖書は語ります。「主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。」油を注ぐというのは、任職の儀式です。預言者として立てられたことを表す儀式です。「神の霊がわたしをとらえた」というのは、神の霊、聖霊によって語るべき神の言葉が示されるということです。
 「わたしを遣わして/貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人には自由を/つながれている人には解放を告知させるために。」預言者は務めを果たすために遣わされます。その務めは「貧しい人に良い知らせを伝え、打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人に自由を/つながれている人に解放を告知」することです。
 「貧しい」と訳された言葉(アーナーヴ:ヘブライ語)は、経済的に貧しいと言うより、宗教的・倫理的に心が貧しいという意味で用いられることの多い言葉です(岩波版の注)。つまり、心豊かに生きることができる良い知らせを伝え、傷つき砕けた心を癒やし、神の許にある自由を与えるために預言者は語ります。良き知らせの源である神を指し示して語ります。そして「主が恵みをお与えになる年/わたしたちの神が報復される日」、つまり救いの完成する日を告知するのです。

 預言者は神の言葉によって「嘆いている人々に/灰に代えて冠をかぶらせ/嘆きに代えて喜びの香油を/暗い心に代えて賛美の衣をまとわせ」ます。神の民は、罪が力を振るい支配しているかのごとくに映るこの世にあって、神の言葉により、恵みを与えられ、喜びを受けて生きてきました。神に祝福された新しい命、死をも超えていく永遠の命を受けて生きてきました。そして神の民は「主の輝きを現す」「正義の樫の木」、神を証しする大切な存在とされ、救いのために用いられてきたのです。

 「わたしは主によって喜び楽しみ/わたしの魂はわたしの神にあって喜び躍る。主は救いの衣をわたしに着せ/恵みの晴れ着をまとわせてくださる。花婿のように輝きの冠をかぶらせ/花嫁のように宝石で飾ってくださる。」神は、わたしたちに花婿のように花嫁のように真実な愛の関係を与えてくださいます。神はわたしたちを罪から救い出して、神の愛と真実による新しい関係に入れてくださいます。わたしたちは、神の愛を受けて、救いの喜びを味わいます。
 命を造り、救いを与えてくださる神の恵みは、死を超えて永遠です。先に召された愛する一人ひとりは、神の愛と真実の中にいます。そしてわたしたちの地上の生涯が終わるときの未来もそこにあります。

 神だけが死を超える未来を示すことができます。わたしたちのために救い主となられたイエス キリストだけが、復活と永遠の命を与えることができます。
 わたしたちは神の国で愛する者たち、すべての聖徒たちに会うのです。救いの喜びに満たされて主の食卓を共に囲みます。教会はイエスが弟子たちと守られた最後の晩餐を記念して聖晩餐というパンとぶどう酒を分かち合う儀式を行います。これは過去の出来事を記念するだけでなく、救いの完成する日に神の国で祝われる主の食卓を指し示します。そこにおいてわたしたちは、愛する者たち、代々の聖徒たちと喜びの食卓を囲みます。神に命を与えられたこと、愛する者と共に生きる恵みを与えられたこと、共に救われ神の国に導かれたことを喜ぶ主の食卓に共に与ります。わたしたちは神の愛と真実によって、死でさえも奪い去ることのできない大いなる喜びへと導かれています。神の御前に立ち帰る者は、その喜びの中に愛する者を見出します。
 預言者は、その幸いを語ります。「大地が草の芽を萌えいでさせ/園が蒔かれた種を芽生えさせるように/主なる神はすべての民の前で/恵みと栄誉を芽生えさせてくださる。」

 わたしたちは今、主にある希望を持って、愛する者たちを思い見るのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 あなたは死によっても失われることのない救いを与えてくださいます。あなたの愛、あなたの真実に支えられて、わたしたちは愛する者たちを思い見ることができます。どうか愛する者たちが与った救いの恵みに、わたしたちも共に与り、あなたにある希望に生きることができますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

ローマの信徒への手紙 9:19〜24

2019-11-04 20:17:55 | 聖書
2019年11月3日(日)主日礼拝  
聖書:ローマの信徒への手紙 9:19~24(新共同訳)


 パウロは、神の救いの御業を語る中で「神は御自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなにされる」(18節)と言います。
 であれば、19節の神への問いかけは当然です。「ところで、あなたは言うでしょう。『ではなぜ、神はなおも人を責められるのだろうか。だれが神の御心に逆らうことができようか』」。神がかたくなにしたい者をかたくなにされるのならば、かたくなであることを責められるのは理不尽というものです。わたしたちが神の御業に逆らえないのであれば、なおさらです。

 パウロはそれに対してこんな答えをします。「人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か。造られた物が造った者に、『どうしてわたしをこのように造ったのか』と言えるでしょうか」。しかし、そんな言葉で納得なんかできません。ヨブと同じように神に訴えずにはいられません。「理不尽ではないですか」と叫ばずにはいられません。

 続く器のたとえは、(70人訳と呼ばれる旧約のギリシャ語訳の)イザヤ 29:16からの引用です。この器のたとえは、イザヤ書とエレミヤ書に何回か出てくるものです。ですから、ユダヤ人であればよく知っているたとえ、「預言者も言っているじゃないか」と言われれば「そう言えば」と思い出す言葉です。
 器は、焼き物師に向かって「どうしてこんな用途のために作った」とか「なんでこんな形なんだ」と文句は言えません。どういう器をどういう風に用いて生活を整えていくかというビジョン・計画は、作り手の側にあります。
 ですから、ビジョン・計画は神にあります。そこでパウロは15節で(出エジプト 33:19(70人訳)を引用して)神は「憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ」という言葉を引用して、神のビジョン・計画は「憐れみ」と「慈しみ」が実現するためのものであることを示します。

 ただ人間に与えられた「自由」と、神が「憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなにされる」という神の決定との関係には触れません。
 パウロはここで、人間の自由と神の決定といった理屈を論じたいのではないのです。パウロは、ローマの教会にいるユダヤ人キリスト者、ひいてはこれからキリスト教会に足を運んでくるユダヤ人たちに、キリストの福音を伝えたいのです。
 神は、ユダヤ人の父祖アブラハムに「信仰を義とする」救いの約束を与えられました。そして、アブラハムの約束を始め旧約の約束をイエス キリストにおいて成就されました。そして新たに、イエス キリストを信じる信仰を義とするという約束を与え、ユダヤ人のみならず神がお造りになったすべての人を救いへと招かれました。パウロは、神を信じ続けて生きてきたユダヤ人たちが、神の御心から離れてしまわず、イエス キリストの救いに与り、喜びに入れられることを願っているのです。

 ですから、救いを伝えようとして語っているということを忘れて、考えていくとずれていってしまいます。
 22-23節は、特にそのこと、救いを伝えようとしていることを忘れずに読んでいかないといけません。少し意味が分かりづらいので、少々意訳をしながらお話しします。
 「神は罪に対する怒りを示し、裁きを知らせようとしておられたのですが、神の怒りを受ける器として自ら滅びに向かって歩んでいたユダヤ人たちを、憐れみと慈しみに満ちた心で忍耐をしてくださいました。そして、神の憐れみを受ける器として選んだキリスト者たちを、救いの輝きで満たすために、神の怒りを受ける器をさえお用いになるのです。」
 怒りを受ける器とは、ユダヤ人を指しており、憐れみを受ける器の方は、キリスト者を指しています。繰り返し申し上げますが、パウロは怒りを受ける器となっているユダヤ人が、キリストを信じて救われることを願って語っています。ですから、人には「怒りの器」と「憐れみの器」の2種類あるのだ、などいう話をしているのではありません。

 人の目には、なぜ今「信じる者」と「信じない者」とがいるのか分かりません。しかし、ひとり子をさえ遣わされた神の御心は明らかです。神は、救いの完成を目指し、すべての人が信じるに至り(1テモテ 2:4)、救いに入れられることを目指して導かれています。
 パウロは、神の救いを信じています。それは、復活のイエスに出会ったからです。彼がイエスと出会ったのは、彼が迫害者だったときです。イエスの弟子たちを捕らえるための旅の途上でした。イエスを全く求めていませんでした。けれど、その自分に出会ってくださり、救いへと導いてくださいました。さらには使徒として用いてくださいました。讃美歌 502(1954年版)の3節の歌詞に「あるに甲斐なき 我をも召し、あまつ世嗣となしたまえば、たれか漏るべき 主の救いに」とありますが、まさしくパウロの心境そのものです。パウロは、自分の理性・知性、また自分の確信を遥かに超える神の救いの恵み、神の愛を知ったのです。
 パウロは同胞ユダヤ人の救いを、神の愛、その憐れみと慈しみにおいて確信しています。9章から始まったイスラエルの救いについては11章まで語られますが、その最後でパウロはこう言います。少し長いですが引用します。「福音について言えば、イスラエル人は、あなたがたのために神に敵対していますが、神の選びについて言えば、先祖たちのお陰で神に愛されています。神の賜物と招きとは取り消されないものなのです。あなたがたは、かつては神に不従順でしたが、今は彼らの不従順によって憐れみを受けています。それと同じように、彼らも、今はあなたがたが受けた憐れみによって不従順になっていますが、それは、彼ら自身も今憐れみを受けるためなのです。神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。」(11:28~36)
 怒りの器も、憐れみの器も、救いのために共に用いられ、すべての人を憐れむ神の御心が明らかになると、パウロは信じています。「この人は怒りの器だから救われない」などとこれっぽっちも考えてはいないのです。

 救いは、神の御心の内にあります。揺るぎなくあります。
 わたし自身も、神に文句を言わせてもらえるならば、言いたいことはたくさんあります。もっと愛せる人間がよかった。もっと赦せる人間でありたかった。細かいことにイライラせず、神を信じて落ち着ける人間がよかった。牧師として召されるのであれば、もう少し語学が堪能であってもよかったのじゃないか。言い出したらきりがありません。しかし、神はわたしを造ったとき「よかった」と言われます。わたしを愛していると言われます。イエス キリストはわたしにご自身の命を差し出して「これはあなたのためのわたしの体だ」と言われます。

 人間の理性や知性を超えていて、納得できないこと、理解できないことはあります。神の国で神ご自身に聞いてみたいこともあります。しかし、神はひとり子を給うほどにわたしを、わたしたちを愛しておられることははっきりと分かります。キリスト我を愛し給う、故に我ありです。
 今、神は憐れみを受ける器として、わたしたち一人ひとりを召しておられるのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 どうかあなたの愛と憐れみを知ることができますように。わたしたちの愛する者の未来をあなたの救いの中に見出すことができますように。あなたが救いを願っていてくださるように、わたしたちも救いを願って仕えることができますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン