聖書の言葉を聴きながら

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ローマの信徒への手紙 8:35〜39

2019-08-26 12:00:14 | 聖書
2019年8月25(日)主日礼拝  
聖書:ローマの信徒への手紙 8:35〜39(新共同訳)


 パウロは、3:21からキリストの福音を語ってきました。それがきょうの8:39で一区切りとなります。
 キリストの福音をまとめるにあたり、パウロは問いを投げかけます。前回の箇所では、31節「神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。」33節「だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。」34節「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。」
 いずれの問いの答えも「そんなことをできるものはいない」です。神の救いの御業を信じるだけでなく、律法など人間の業に頼りたくなってしまうわたしたちの不安、不信仰に対して、問いを通して打ち消そうとしています。
 そしてきょうの箇所で最後の問いを投げかけます。35節「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。」

 パウロは皆が不安に感じているものを挙げていきます。「艱難ならキリストの愛を引き離すと思いますか。苦しみならどうですか。迫害の方がキリストの愛よりも強いと思いますか。キリストの愛も飢えにはかないませんか。それとも裸でしょうか、危険でしょうか、剣でしょうか。」

 使徒言行録においてパウロとバルナバが、「弟子たちを力づけ、『わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない』と言って、信仰に踏みとどまるように励ました」(使徒 14:22)とあります。
 罪の世で、キリストに従って歩むには、様々な困難があります。パウロは詩編 44:23「『わたしたちは、あなたのために/一日中死にさらされ、/屠られる羊のように見られている』と書いてあるとおりです」を引用して、それは旧約の時代から言われているとおりで、神の言葉が苦難が伴うことを明らかにしていると語ります。
 詩編は神に呼びかけていますから、「あなたのために」とは「神のために」という意味です。そしてこの詩編は続けて「主よ、奮い立ってください。なぜ、眠っておられるのですか。永久に我らを突き放しておくことなく/目覚めてください」(詩編 44:24)と神に呼びかけます。
 そして神は、その罪の世の困難の中にあるわたしたちを捉えるために、詩編の祈り、代々の神の民の祈りに応えて、イエス キリストを人として、救い主としてこの世に遣わしてくださいました。

 35節で列挙されたもの「艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か」これらは、イエス キリストが経験された事柄です。一体どれがキリストにわたしたちを愛することをあきらめさせただろうか。キリストは十字架の死に至るまでわたしたちを愛してくださいました。艱難も苦しみも、迫害も飢えも、裸も危険も剣も、キリストがわたしたちを愛することをあきらめさせることはありませんでした。さらに十字架の死に至るまでではなく、キリストは復活をして弟子たちに現れ、弟子たちの信仰を生き返らせてくださいました。
 イエスを3度自分を知らないと言ったペトロに対しても、それを拭い去るかのように3度「わたしを愛しているか」(ヨハネ 21:15~17)と問うて、主の羊を飼う務めを与えてくださいました。

 イエス キリストは、わたしたちを救うために、罪の世の苦難の中に来られ、36節のような神への祈り「わたしたちは、あなたのために/一日中死にさらされ、/屠られる羊のように見られている」という祈りも共にしてくださり、十字架の道を進んでいかれました。「御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。」(ヘブライ 2:18)

 神が遣わし、与えてくださった救い主、イエス キリストに思いを向け、仰ぎ見るときに、わたしたちは救いを確信することができるのです。
 かつてイエスが湖の上を歩いて弟子たちが乗っている舟に近づかれたとき、ペトロが「水の上を歩いてそちらへ行かせてください」と頼んで歩かせてもらったときも、イエスよりも強い風に気になって怖くなってしまったとき、沈みかけてしまいました(マタイ 14:22~33)。イエス キリストを見ずに、この世に目を向けたとき、わたしたちは不安に捕らわれてしまいます。
 イエス キリストを仰ぎ見るときに、神のわたしたちに対する思いを確信することができるのです。そしてイエス キリストがわたしを救ってくださることを信じることができるのです。

 だからパウロはこう宣言します。「しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。」
 イエス キリストが勝利者なのです。キリストが罪に勝利してくださったのです。イエス キリストが十字架の苦難を負い、わたしたちの罪を贖い、死を打ち破って復活してくださったので、わたしたちはキリストの勝利に中に入れて頂いているのです。キリストの永遠の命に入れられ、神の国に生きる未来を与えられているのです。

 「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」
 パウロはその当時の世界観の中で、人生に影響を及ぼすと考えられていたものを次々と挙げて、世にあるどんなものも、わたしたちの真の主であるキリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないと宣言したのです。

 救いの鍵は、神の愛です。
 ハイデルベルク教理問答などのカテキズムでも示されているとおり、わたしたちがなす善き業・愛は、神の救いの業・神の愛への感謝の応答です。神の愛がすべての基であり、すべてに勝利するのです。そして神の愛を証しするのがイエス キリストです。わたしたちは、イエス キリストに結び合わされることにより、救いに入れられ、父・子・聖霊なる神との交わりのただ中に置かれ、神と共に歩むのです。

 ですから、先週の聖書とのつながりで言うなら、イエス キリストが皆さんの中でますます大きくなっていく(ヨハネ 3:30)ことが大事です。イエス キリストに思いが向かうなら、神の愛の確信が深まり、キリストの救いが確かな支えとなっていきます。神は、このパウロの確信が皆さん一人ひとりの確信となることを願っておられます。

 わたしたちを造られた神が、わたしたちを愛しています。わたしたち一人ひとりのために、イエス キリストを遣わし、救いをなしてくださいました。皆さんが神を喜び、救いに生きるためであります。


ハレルヤ


父なる神さま
 イエス キリストに満たされていきますように。キリストによって示されたあなたの愛で満たしてください。あなたがわたしたちの救いであることを確信させてください。あなたの平安に与らせてください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

ヨハネによる福音書 3:22〜30

2019-08-19 11:41:40 | 聖書
2019年8月18日(日) 主日礼拝  
聖書:ヨハネによる福音書 3:22〜30(新共同訳)


 ニコデモとの対話から場面が変わります。
 この箇所は、聖書研究をするなら、90分授業を3回ぐらいしなければならないところです。しかし、礼拝でするのは説教であって、聖書研究ではありません。説教は、その聖書箇所を通して神が何をわたしたちに語りかけておられるかを伝えるものです。「神は皆さんにこう言っておられます」と神のメッセージを語るのが説教です。一方聖書研究は、聖句の意味を明らかにしようとするものです。この箇所であれば、イエスはユダヤ地方のどこに滞在しておられたのだろうか? 地名が出てくるが、これは現在のどこなのだろうか? 洗礼という言葉が出てくるが、どのように行われていたのだろうか? など聖句の語っている内容を明らかにしようとするのが聖書研究です。
 聖書研究をするなら、きょうの箇所は、重大な問題がいくつかあります。
 一つは、22節に「イエスは・・洗礼を授けておられた」とありますが、4:2を見ますと「洗礼を授けていたのは、イエス御自身ではなく、弟子たちである」とあります。どちらが正しいのでしょうか。新約が書かれているギリシャ語は、動詞の形が主語の人称や数で変わります。22節の「洗礼を授けていた」という動詞は3人称単数なので、主語は「弟子たち」ではありません。主語は明らかに「イエス」なのです。聖書研究は、このような矛盾と見えるものの説明を追い求めます。
 次に、洗礼者ヨハネの洗礼が出てきますが、これはどのような洗礼だったのでしょうか。ヨハネの洗礼は悔い改めのための洗礼です。イエス キリストの救いに与らせるための洗礼とは違います。では、ヨハネの洗礼を受けた者たちは、改めてイエス キリストの救いに与るための洗礼を受けたのでしょうか?
 などなど、この箇所は考えなければならないと思われることがいくつもあります。
 しかし、聖書が語ろうとしていることは、最後の29, 30節です。ですから、聖書研究は機会があればすることとしまして、説教として語るべき神が語ろうとしておられることに心を向けていきたいと思います。

 2:23に「イエスは・・エルサレムにおられた」とあります。イエスはニコデモとの対話を終えて、エルサレムを離れ、地方に向かわれました。場所は不明ですが、弟子たちと共に滞在し、洗礼を授けておられました。他方ヨハネは、後に捕らえられ、投獄されますが、まだサリム近くのアイノンというところで洗礼を授けていました。
 そこで、ヨハネの弟子たちとユダヤ人の間で、清めのことで議論になりました。清めというのは、ここでは洗礼のことです。洗礼者ヨハネは、人々を悔い改めに導くために洗礼を行っていました(マタイ 3:11)。この議論の内容も具体的には分かりません。けれどおそらく別れ際に「みんなもうイエスのところに行っているじゃないか。ヨハネなんて古いんだよ」といったことを言われたのではないかと思います。
 弟子たちはヨハネの許に来て言います。「ラビ(ユダヤ教の教師に対する敬称)、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、洗礼を授けています。みんながあの人の方へ行っています。」弟子たちも悔しかったのだと思います。人は誰しも自分の所属しているものを誇りたいものです。自分が生まれた土地、住んでいる土地、自分の国、民族、果ては自分の応援しているプロ野球のチームやアイドルグループに至るまで、人は自分とつながりのあるもの、所属しているものを誇りたいのです。

 おそらくヨハネにも弟子たちの気持ちは分かっていたでしょう。しかし、とても大切なことなので、ヨハネは丁寧にそしてはっきりと弟子たちに伝えます。
 「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。」天というのは神を指しています。人には神から与えられた務めがあります。「わたしは、『自分はメシア(救い主)ではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる。」ヨハネは弟子たちにきちんと自分の務めを明らかにしていました。ヨハネの弟子たちは、ヨハネの証人です。ヨハネが神の委託にどのように応えたかは、弟子たちが証しをします。
 「花嫁を迎えるのは花婿だ。」ヨハネはたとえを使って語ります。花嫁は人々。花婿はイエスです。「花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。」花婿の介添え人、これがヨハネであり、わたしたちを含めたキリストを宣べ伝える者です。ユダヤの婚礼において、介添え人は花嫁を花婿のところへ連れてくる務めを担います。その務めを果たしたら、介添え人は婚礼の舞台から退場します。けれど婚礼は、そのために仕えた介添え人に大きな喜びをもたらします。同様に、人々がイエスの許に集っているのを聞いて、ヨハネは喜ぶのです。イエスご自身が人々に語りかけてくださるのを聞いて、喜ぶのです。
 ヨハネは、旧約においてイスラエルが神の花嫁とたとえられている(イザヤ 54:5)のを使って、弟子たちに人々はイエス キリストの花嫁であって、自分が花婿ではないことを伝えようとしました。

 そして最後にヨハネは「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」と言います。ここはもう少し正しいイメージを持てるように別の訳を使いたいと思います。それは「その方は大きくなり、私は小さくなっていくだろう」(田川健三 訳)という訳です。この訳の方が、聖書が伝えようとしているイメージを受け取りやすいと思います。
 キリストを証しする者は「この人を見よ」と言ってイエス キリストを指し示します。当然言われた人々は、イエスキリストの方を見ます。ところが、牧師は時に自分が教えたとおりに理解しなければ、イエス キリストに近づくことは許さないとしてしまいがちなのです。本来であれば、ヨハネが言うとおり介添え人同様、皆さんがイエス キリストに出会ったならば、次第に小さくならねばならず、皆さんの目にそして心にイエス キリストが大きく大きく映っていくように、そしてイエス キリストに従い、キリストと共に歩めるようにしていくのが本来なのです。

 しかしこれがなかなか難しいのです。イエス キリストよりも人の方が大きく映ってしまいます。牧師を中心としたのでは、キリストの教会は立たないのに、「牧師を中心に教会を建て」と言われたり、教会を表すのについ「〇〇先生の教会ですね」と言ってしまったりします。

 きょう最初に聖書研究と説教の違いについて触れたのは、わたしたちが主の日ごとに礼拝へと招かれるのは、教養のために聖書の勉強をしたり、知的好奇心を満たすために聖書の解説を聞きに来ているのではない、ということに気づいて頂きたいからです。教会では、御言葉の学びという言い方がされますが、礼拝においては学びが行われているのではありません。礼拝においてわたしたちに語りかけてくださる神の声を聞くのです。聖霊において臨在してくださるイエス キリストご自身に出会い、イエス キリストを通してわたしたちの命と救いの源である神を知るのです。そのために、わたしたちは礼拝に招かれているのです。

 どうか礼拝を通して、本当の救い主であるイエス キリストと出会われますように。聖書と説教を通して、今皆さんに語りかけておられる神の声を聞くことができますように。そして皆さんの中でイエス キリストがますます大きくなり、イエス キリストに満たされていきますように。


ハレルヤ


父なる神さま
 わたしたちをイエス キリストに出会わせ、イエス キリストで満たしてください。わたしたちの救いのためにその命を献げ、そして復活してくださったイエス キリストの救いでわたしたちを満たしてください。イエス キリストと共に救いの道を歩ませてください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

ローマの信徒への手紙 8:31〜34

2019-08-13 22:17:22 | 聖書
2019年8月11日(日)主日礼拝  
聖書:ローマの信徒への手紙 8:31〜34(新共同訳)


 「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。」
 言わなくてもお分かりと思いますが、「もし神がわたしたちの味方であるならば」とパウロは言いますが、けれどこれは「もし神がわたしたちの味方である」と仮定すると、という話ではありません。パウロは、神がわたしたちの味方であると確信しています。

 パウロの信仰にとって、復活のキリストとの出会いが決定的でした。それにより、イエスがキリスト 救い主であることを知りました。自分が罪人であることを知りました。イエスが罪人の救いのために命を献げ、また復活されたことを知りました。そしてイエス キリストによって、神が罪人の味方であることを知りました。
 それが「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された」という言葉に表れています。

 わたしたちは神に選ばれた者たちです。わたしたちが神を求め、神を発見したのではありません。神がわたしたちを選んでくださいました。聖書は告げます。「あなたの神,主は・・あなたを選び,御自分の宝の民とされた。」(申命記 7:6)
 神は、イエス キリストの救いを信じ受け入れたわたしたちを、神の御前で罪赦され義とされた、神の子としてくださいました。キリストの救いに与ることによって、神と正しい関係にある者、義なる者としてくださいました。
 神が他の何ものにも代えがたい独り子の命をかけてまでわたしたちの救いを成し遂げてくださった今、誰がわたしたちを罪に定めると言うのでしょうか。そんなことができるものはいないのです。ただ一人わたしたちを罪に定めることができる神が、キリストのゆえにわたしたちを罪から救うと決められた以上、もはや誰もわたしたちを罪に定めることなどできないのです。
 神は「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡され」るお方です。イエス キリストには、神のわたしたちに対する思いがすべて込められています。イエス キリストこそ、神の言葉です。イエス キリストを仰ぎ見るとき、神がどれほどわたしたちを愛しておられるかが分かります。

 だからパウロは、イエス キリスト以外の救いの根拠を持ち出すことを厳しく批判します。割礼を受けている、断食をしている、たくさん献げ物をしている、たくさん祈っている、施しをしている・・・どれもわたしたちの救いの根拠とはなりません。わたしたちの救いの根拠はただイエス キリストお一人なのです。
 そのイエス キリストは、今も神の右にあってわたしたちのために執り成し続けていてくださいます。

 イエス キリストは、神とわたしたちとの間に立ってくださいます。世の終わりまでわたしたちを執り成してくださいます。イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じように(ヘブライ 2:17)なり、真に人となって世に来られました。
 母マリアの胎に宿り、無力な幼子として世に生まれ、母の胎にも、まだ信仰を持たない幼子にも救いをもたらしてくださいました。
 救い主として歩み出されたときにも、始めに悪魔の誘惑をお受けになりました。「御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになる」(ヘブライ 2:18)と聖書は語ります。飢えや渇き、十字架に掛けられるといった肉体的な痛み。理解されない、裏切られる・捨てられる、救おうとしているのに拒絶される、嘲られるという精神的な痛み。それらを受けて苦しまれてなお、「父よ、彼らをお赦しください」(ルカ 23:34)と執り成されました。
 さらに「キリストは、肉では死に渡されましたが・・霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました」(1ペトロ 3:19)と聖書が語るように、死者のところにまで救いをもたらされました。
 母の胎から死者たちの霊のところまで、人が存在するすべてのところにイエス キリストは救いをもたらし、わたしたちの執り成し手として、神とわたしたちとの間に立ってくださっているのです。「神は,すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。神は唯一であり,神と人との間の仲介者も,人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。この方はすべての人の贖いとして御自身を献げられました。」(1テモテ 2:4~6)このイエス キリストを前にして「わたしは救われない」と絶望しなければならない人は一人もないのです。

 だからパウロは「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」と言うのです。
 ここに出てくる「すべてのもの」は、28節の「万事が益となるように」が「すべてのことがわたしたちの救いとなるように働く」という意味であったのと同じく、救いに必要な「すべてのもの」を指しています。つまり「イエス キリストは与えられたけれど、これがたりなかったから救われなかった」などということはあり得ない、とパウロは言っているのです。
 パウロは、様々な試練・苦難を経験しました。パウロは最初迫害者でした。だから回心してもなかなか受け入れてもらえませんでした。生前のイエスの弟子ではないと軽んじられました。福音宣教の中で数え切れないほどの困難に出会いました(2コリント 11:23~27)。何度も祈ったけれども癒やされませんでした。そのすべてを振り返ってみても、パウロは何か足りないものがあったとは思わず、救いに必要なすべてのものが備えられ、信仰から信仰へと導かれたと確信しているのです。

 パウロは、3:21から8章の終わりまでキリストの福音について語ります。本当に言葉を尽くして語ります。何としてもキリストの救いに与ってほしい、という熱意をもって語ります。手紙からパウロのその思いが伝わってきます。
 そしてパウロ以上の熱意をもって、神がこの手紙を通して語り続けてこられました。2,000年という時を貫いて語り続けてこられました。今、独り子を遣わされた神ご自身が、皆さんの前にキリストの救いを差し出しておられます。
 「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(ヨハネ 20:27)


ハレルヤ


父なる神さま
 御子イエス キリストが、救い主として遣わされているその恵みの大きさを知ることができますように。そして独り子を遣わすほどに愛していてくださるあなたの愛を知ることができますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

ヨハネによる福音書 3:18〜21

2019-08-04 21:35:26 | 聖書
2019年8月4日(日) 主日礼拝  
聖書:ヨハネによる福音書 3:18〜21(新共同訳)


 「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。」

 神はわたしたちに信じるという関係をお求めになります。
 ただ勘違いしてはいけないのは、神は「信じたら救いますよ。信じますか」と取り引きを持ち掛けているのではありません。
 人は罪を犯したことによって、自ら約束を破る者となってしまいました。そのことによって、自分自身が約束を破る信じられない者となり、信じることのできない世界に踏み込んでしまいました。

 信じるということは、わたしたちが生きていく上で不可欠な事柄です。人間関係でも取り引きでも、信用が大事です。社会の営みは、信用の上に成り立っています。信用の成り立たないところでは、共に生きることも成り立ちません。そして何もかも信じられない世界では、わたしたちは生きていくことはできません。共に生きる者、家族、友だち、社会、そして自分も未来も信じられない、そんな状況では人は希望を持つこともできず、生きられなくなってしまいます。
 神はエデンの園で「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」(創世記 2:17)と言われました。この善悪の知識の木の実には毒が入っていた訳ではありません。しかし、神とは違う善悪を持ち、神から自由になって、自分の好きに生きる世界では、信じることがときに壊され、失われ、信じられない世の中と言われるようになっていってしまいます。そしてついには、生きることが苦しい世界、生きられない世界になってしまうのです。

 だから神は、自らが信じられるものとなって、わたしたちとの間に信じることのできる関係を造り出してくださるのです。
 神はご自身の民、イスラエルを召し出し、共に歩み、ご自身が救いの神であることを証ししてこられました。そして時至って、御子イエス キリストを救い主としてお遣わしになりました。
 救い主の大切な務めの一つが、神が信じられる方であることを証しし、信じるを世に造り出すことです。
 イエスは裏切ると分かっている者を弟子としました。一緒に捕まるのが怖くて逃げ出す者を弟子にしました。自分を3度知らないと言う者を弟子にしました。自分を十字架につけて嘲る者たちのために執り成されました。イエスはわたしたちの罪も弱さも愚かさも知っておられます。その上で、十字架を負い、わたしたちの裁きをご自身の身に負われました。イエスはわたしたちを知っておられます。その上でなおわたしたちを愛されます。イエスだけはわたしたちに失望しません。「あなたがそんな人だとは思わなかった」とは言われません。イエスには自分自身のすべてを委ねることができるのです。イエスが証しされた神の愛は、信じてよいのです。

 イエスの許には、神が独り子の命をかけて造りだしてくださった信じて生きることのできる世界、神の国があります。
 わたしたちが信じるのは、信じられなくなったわたしたちのために、神が御子の命をかけて信じることを造りだしてくださったということを信じるのです。重ねて申し上げますが、わたしたちは信じたから救われるのではなく、神がわたしたちを愛し救っていてくださることを信じるのです。

 だから「信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている」と言われるのです。信じる者は、イエスを信じることのできる神の国に生きています。信じない者は、備えられた神の国を拒絶し、罪が支配しているかのように見える信じたくない罪の世で生きている。そのことが既に裁きなのです。神の救いの中で生きるのではなく、何があるか分からない、信じたらいけないと身構えて生きる、けれどどんなに身構えても死に至る、罪がもたらす滅びの中で生きているそのこと自体裁きなのです。
 しかし裁きは救いへの招きです。信じられない罪の世で生きるのではなく、神の国で信じて生きなさい、という招きなのです。ですから、裁きは決定してしまった運命ではなく、常に救いへと開かれているのです。

 ここでも勘違いしてはいけないのは、裁きは罰ではありません。罪から離れられない頑なな心を打ち砕いて、救いへと導く神の救いの御業です。ローマの信徒への手紙はこのことを「神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです」(ローマ 11:32)と言っています。

 わたしたちは、多数といる方が安心する傾向があります。ですから「人間だから仕方ない」と言って、多少噓をつくことも、だますことも、少々の悪を行うことも仕方のないこととして、多くの人がいる薄闇の方が安心できるのかもしれません。しかし命には光が必要です。砂漠に照りつける灼熱の光ではなく、命を育む命の光が必要です。
 イエスは言われます。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」(ヨハネ 8:12)

 ただ、光に照らされると、薄闇の中でははっきりと見えなかったものが明らかになってしまいます。聖書は「悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを畏れて、光の方に来ない」と語ります。確かに、光に近づくと影は一層濃くなります。今まで見えなかったものが見えてきます。キリストの前に出ると、自分でも気づいていなかった罪が露わになります。「それは嫌だな」と思います。ペトロも自分が3度もイエスを知らないと言うとは思っていませんでした。しかしイエスと共に歩めない自分の露わになりました。そんな自分を知りたくはありません。しかし、罪を知らないと、自分には救いが必要だということに気づけません。キリストの光は、罪から滅びへと導く光ではなく、罪から救いへ、永遠の命へと導く光です。

 人は救いの希望のないところで罪と向かい合うことはできません。神の確かな愛と赦しがあるからこそ、人は自分の罪を認め、神へと立ち帰ることができます。よくある歴史の改ざん問題も、事実を認めると、自分たちの誇りが傷つき壊れてしまうので、向かい合うことを避けているのです。ただ神の救い、キリストの愛と赦しに満たされ導かれるとき、未来は開かれていくのです。

 イエス キリストに出会うのでなければ、人は罪を知ることができません。神に導かれ、イエス キリストに出会い、その救いを知り、愛と赦しへと招かれるから、わたしたちは信じることへ、信じて大丈夫な神の国へ進み行くのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 信じることのできる神の国に生きる者としてください。あなたがお与えくださったイエス キリストに出会わせてください。信じることのできない悲しみから救い出し、あなたを信じる関係の中へと導いてください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン