聖書の言葉を聴きながら

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ヨハネによる福音書 11:1〜11

2019-03-24 18:33:33 | 聖書
2019年3月24日(日) 主日礼拝  
聖書箇所:ヨハネ 11:1〜11(新共同訳)


 きょうから受難週に向けて、礼拝・祈り会を通してヨハネによる福音書の後半部分からキリストの十字架と復活に思いを向けながら聞いていきたいと思います。

 一人の病んでいる人がいました。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロという人でした。
 マリアとマルタの名前も、この福音書ではここで初めて出てきます。二人の説明も詳しくは出てこないので、この福音書を読む人たちにはよく知られていたのかもしれません。マリアはこの福音書では次の12章で、イエスの足に高価なナルドの香油を塗ったことが記されています。
 ラザロの病気については説明されていませんが、重い病気だったようです。二人はイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と伝えました。二人はイエスなら癒やすことができると信じていました。
 するとイエスは「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」と言われました。

 当たり前ですが、イエスの時代にはビデオなどというものはありませんから、この場面のすべての言葉が記録された訳ではありません。言い伝えられてきた伝承があって、それがあるとき福音書として編集されていく訳です。つまり伝えようとしている言葉が書かれているのですが、この場面は不思議に思えます。普通であれば「どんな具合か」とか「熱はあるのか」とか聞くと思いますが、記されたイエスの言葉を読むと、イエスはラザロの状態を知っておられたように思われます。そしてイエスの言葉を聞いた者たちは「ラザロの病気は治るのだな」と思ったと思います。なぜなら、イエスはラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在されていたからです。イエスは急いでラザロのもとに駆けつけませんでした。一緒にいた者たちは「ラザロの病気はたいしたことはないのだな」と思ったろうと思います。しかし実際はそうではありませんでした。

 人は病気になります。多くの人は当たり前に病気になります。そして大きな病気にかかったとき、人は「どうしてわたしが」と問います。病気になりたいと思っている人はいません。神に病気を求める人はいません。それなのに病気になってしまう。神がその人を忘れているからでしょうか。神の配慮が欠けていたのでしょうか。それとも本人の信仰が足りなかったのでしょうか。マルタとマリアもイエスに「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と伝えました。ラザロが病気であることをイエスが知れば、治してくださると期待していました。
 しかしイエスは「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」と言って、二日間同じ所に滞在されました。福音書は5節ではっきりと「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた」と書いています。イエスがすぐに駆けつけなかったのは、配慮が足りなかったのでも、愛が足りなかったのでもありません。すべては神の栄光のためになされ、導かれていました。

 栄光は、誉め讃えられるものです。神の栄光は、神が救いの神であることが明らかになることであり、それによって民が神を誉め讃えるものです。このヨハネによる福音書では、イエスの十字架も栄光として描かれています。病であっても、苦難であっても、死であっても、神はそれをわたしたちが神と出会い、神が救いの神であることを知るときとしてくださるのです。

 それからイエスは弟子たちに言われます。「もう一度、ユダヤに行こう」。今イエスは 10:40に書かれているように「ヨルダンの向こう側」におられます。そして福音書が「ベタニアに行こう」ではなく「ユダヤに行こう」と記したのは、ユダヤの指導者たちとの緊張関係が高まっていたからです。
 弟子たちは言います。「ラビ(ユダヤ教の教師を呼ぶときの敬称)、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか」。10:31には「ユダヤ人たちは、イエスを石で打ち殺そうとして、また石を取り上げた」と書かれています。
 するとイエスはお答えになります。「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである」。
 昼間というのは、イエスが救い主として活動するのに神から与えられている時間を指します。イエスはご自身の逮捕の時に「今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている」(ルカ 22:53)と言っておられます。イエスは、神が時を定めておられることを知っています。そして罪人の救いのためにご自分が命を献げるために世に来られました。

 イエスはこの言葉を通して、神が時を支配し導いておられることを示されます。そしてわたしたちが思いを向けるべきは、神の光の内を歩くことです。イエスはこう言っておられます。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。・・暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。・・わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た」(ヨハネ 8:12, 12:35, 12:46)。

 光に照らされてこそ見えるのです。神の栄光を見るためには、光であるイエス キリストに照らされることが必要です。イエス キリストの光の内にあってこそ、病気が神の栄光のためであることが見えてきます。そして、イエス キリストの愛を受けてこそ、神がわたしを顧み導いていてくださることを知ることができるのです。
 そのしるしとして、イエスはラザロを起こしに行かれます。「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く」。

 ここで眠っているとは、永久(とわ)の眠りという言葉があるように、死んでいるということを表します。その死の眠りから起こすことは、イエスの御業は死にさえ勝利するというしるしです。

 わたしにとって、死は空しさそのものです。結局人はみな死んで終わります。しかし、人生が死んで終わりではなく、死の後に神の救いを見ることを確信させてくれるのが、イエス キリストであり、神の言葉である聖書です。神は、罪人が死んでしまうのは仕方ないとは思わず、罪と死からの救いの御業をなしてくださいました。それを自ら証ししてくださったのが、イエス キリストです。死に勝利されたイエス キリストが、わたしたちを、そしてわたしたちの愛する者をも起こしに来てくださいます。
 そしてそれを信じるしるしの一つとして、ラザロの復活はなされます。

 この受難節と復活節は、代々の聖徒たちと共にキリストの光に照らされて神の救いの御業を確信する時なのです。
 この人を見よ。イエス キリストを見よ。イエス キリストこそ、罪と死からわたしたちを救い出し、永遠の命へと目覚めさせてくださるまことの救い主なのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 この受難節・復活節に、イエス キリストの救いの御業を仰がせてください。イエス キリストの光に照らされて、わたしたちの人生のすべてがあなたの栄光が現れるためのものであることを信じさせてください。どうかわたしたちをあなたにある平安、喜び、希望に与らせてください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

ヨハネによる福音書 2:13〜22

2019-03-17 21:45:26 | 聖書
2019年3月17日(日) 主日礼拝  
聖書箇所:ヨハネ 2:13〜22(新共同訳)


 きょうの箇所の出来事は「宮清め」と呼ばれてきた出来事です。
 この宮清めは、4つの福音書すべてに記されています。ですが、このヨハネの記事は他の福音書と趣が異なります。例えば、他の3つの福音書には「わたしの家は・・祈りの家と呼ばれるべきである」(マルコ 11:17, マタイ 21:13, ルカ 19:46)というイザヤ書(56:7)の言葉が引用されていますが、ヨハネにはそれがありません。
 ヨハネによる福音書には、他の福音書とはまた違った伝えたいことがあるのです。きょうはそのヨハネによる福音書がわたしたちに伝えようとしていることを聞いていきたいと思います。

 ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれました。
 過越祭の前にわざわざ「ユダヤ人の」と書いているので、この福音書はユダヤ人以外の人に読まれることも想定しているようです。
 過越祭とは、出エジプトを記念する祭りで、五旬祭(七週祭)、仮庵祭と共にユダヤ教の三大祭りの一つに数えられるものです。
 このヨハネによる福音書では、過越祭が3回出てきます(6:4、11:55)。ここからイエスの救い主としての活動(公生涯)が約3年間であったろうと考えられています。
 ちなみに20節には「この神殿は建てるのに四十六年もかかった」とあります。ヘロデ王が神殿の再建を始めたのが紀元前20~19年頃のことです。そうするときょうの箇所の出来事があったのは、紀元27~28年頃と思われます。そこから3年間の活動期間があって、それでイエスが十字架に掛けられたのは紀元30年頃と考えられている訳です。

 イエスは神殿に入られると、境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になりました。
 おそらくこの場所は、神殿の一番外側で異邦人も入ることのできる「異邦人の庭」と呼ばれていた場所ではないかと思われます。ここでは神殿で献げる動物たちを売っていました。神殿に来るのに、動物を連れてくるのは大変なので、重宝だったと思います。また神殿で献げる貨幣がローマの貨幣だと、そこにローマ皇帝の像が刻んであって献げ物としては不適当だと考えられ、ユダヤの貨幣と交換する両替所がありました。当然商売ですから、もうけが出るようなっていましたし、人々は観光に来たのではなく、神に献げ物をし礼拝するために来ていますから、ほとんどの人が利用するようになっていました。

 イエスはそこで、手近にあった縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒しました。一言で言えば、乱暴狼藉を働いたのです。一緒にいた弟子たちも驚いて、固まってしまったのではないかと思います。
 イエスは鳩を売る者たちに言われます。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」
 商売をしている者たちにとって、神殿はお店と同じです。どうしたって売り上げが気にかかります。神と出会うための場所で神以外のものが気になってしまいます。ましてやイエスは「神と富とに仕えることはできない」(マタイ 6:24、ルカ 16:13)と教えておられます。
 日本キリスト教会においても、教会が神と出会い神との交わりを持つ場所として整えるように心がけてきました。わたしが祈りの際に献金の用意をするのを止めるようにお願いするのも、同じような理由からです。礼拝と祈りは、わたしたちが神と共に生きるために世の初めから与えられた大いなる恵みです。礼拝に出ていたらいい、献金を献げたらいいのではありません。神が求めておられるのは、わたしたち自身なのです。聖書は告げます。「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」(ローマ 12:1)。ですから、礼拝、そして祈りにおいて神以外のものに思いが向いてしまわないように注意しなければなりません。

 このときイエスの行動・言葉を見聞きした弟子たちは「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」という詩編(69:10)の言葉を思い起こしました。神の家を思う熱意が、神を食い尽くすというのは、わたしたちの心をざわつかせます。しかしいろいろな形で現実に起こります。
 中世の教会は、教会堂を補修しきれいにするため、新たに教会堂を建てるため、贖宥状(免罪符)と言われるものを売ってお金を集めました。この贖宥状を買えば、神の国に入ることができるなどと言って買わせたのでは、キリストへと思いを向ける必要がなくなり、キリストへと思いを向ける機会を奪ってしまいます。教会のためであっても、わたしたち罪人の熱心は、神の御心に背き、裁きの対象となることを心に留めておかなくてはなりません。神との出会い、交わりを妨げていると気づいたならば、それを手放し捨て去る覚悟が信仰には必要です。

 商売を邪魔されたユダヤ人たちは、イエスに言います。「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」。
 イエスは答えて言われます。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」。これを聞いてユダヤ人たちは言います。「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」。
 福音書はこれに対して「イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである」と告げています。弟子たちは、イエスが死者の中から復活されたとき、イエスがこう言われたのを思い出して、聖書とイエスの語られた言葉とを信じました。つまり、この出来事のときには理解できずに、イエスが復活されてから、イエスが救い主としての活動の初めから復活のことを語っておられたことに気づいたのです。
 そして復活を語っていたということは、ご自分のの死についても語っておられたことにも気づいたということです。前回のカナのぶどう酒の奇跡も復活の後で理解されたのです。キリストと結ばれたことを祝うぶどう酒は、キリストご自身が十字架を負い、血を流されたことによって用意されました。すなわち、キリストご自身によって祝いのぶどう酒は用意されたということも、復活の後に気づかされたのです。

 弟子たちは、復活の後でイエスの言われていたことを思い出して、聖書とイエスの語られた言葉とを信じました。ここで言う聖書とは旧約のことです。この福音書ができたときにはまだ新約は成立していませんでした。ここで聖書とイエスの言葉を信じたとあるのは、メシア=救い主を預言する旧約の言葉と、旧約の言葉の成就であるイエスの言葉を信じたということです。

 わたしたちも、弟子たちと同じようにイエスの復活から聖書の言葉を聞いています。聖書の言葉がイエスの復活に至ることを知って、わたしたちも復活、そして神の国に至ることを信じて、イエス キリストを、そして聖書全体を信じているのです。

 ただでさえ日常生活の中では、気になることが多すぎてわたしたちは神を忘れてしまいます。それなのに教会においてさえも神さま以外に思いが向いてしまうならば、どうやって神に立ち帰ればいいのでしょう。
 教会で第一にしなければならないのは、神との交わりに入り、神と共に生きることです。これがちゃんと保たれ、教会に来るすべての人がその恵みに与ることができるように、教会は整えられなければなりません。

 教会は、キリストご自身の命によって建てられ導かれます。キリストの救いに与り、キリストの救いを喜び楽しむことができるところこそ、教会なのです。
 わたしたちの教会が、キリストの恵みに満ち、神に祝福される本物の教会として育まれ導かれていきますように祈ります。


ハレルヤ


父なる神さま
 わたしたちはあなたによって清めて頂かなければならない罪を抱えています。信仰の熱心でさえ、主の叱責を受けなければならないものであることを知りました。あなたの御言葉によって導かれるのでなければ、わたしたちの信仰も善意も正しく歩むことはできません。どうか主よ、あきらめることなくわたしたちに語りかけてください。わたしたちをキリストと共に歩ませ、神の国へと導いてください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

ローマの信徒への手紙 8:15〜17

2019-03-10 18:48:08 | 聖書
2019年3月10日(日)主日礼拝  
聖書箇所:ローマ 8:15〜17(新共同訳)


 聖書は「あなたがたは・・神の子とする霊を受けた」と言います。
 霊というのは、二つのものを結び合わせる働きをします。霊という言葉は、風とか息とか目に見えないものの動き・働きを表しています。例えば、息・呼吸は、息をしているとき、目に見えるからだと目に見えない精神や心が結び合わされ、命を形作ります。息が止まるとき、命は失われ、体から精神・心が失われてしまいます。このように霊は、二つのものを結び合わせる目に見えない働きをします。
 聖霊は、わたしたちをキリストと神とに結び合わせ、その救いにわたしたちを導き入れます。反対に悪霊は、命の秩序を混乱させ、命を危機へと導きます。

 この霊の働きについて、きょうの箇所では「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです」と語っています。
 奴隷というのは、罪の奴隷のことです。罪に捕らわれ、神に裁かれるのではないかという恐れに捕らわれることを言っています。つまりわたしたちは、裁かれるのを絶えず恐れる罪の奴隷とする霊を受けているのではない、と聖書は告げています。そうではなくてわたしたちが受けたのは、神の子とする霊なのです。

 ここで「神の子とする」と訳されている言葉は「養子縁組」という言葉です。これは、罪ゆえに神との関わりがなくなってしまった者を、聖霊がキリストの救いに与らせ、神のひとり子であるイエス キリストと結び合わせてキリストの兄弟としてくださり、神の子としてくださることを表しています。
 復活したイエスは女性たちに会ったときにこう言っています。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」(マタイ 28:10)救いの御業を成し遂げられたイエスは、弟子たちに対して「わたしの兄弟たち」と言っています。そして聖霊は、わたしたちをキリストの救いに与らせ、キリストの兄弟としてくださり、わたしたちを神の子としてくださるのです。

 この聖霊によってわたしたちは、父なる神に向かって「アッバ、父よ」と呼ぶのです。
 アッバというのは、当時ユダヤ人たちが日常で使っていたアラム語です。そして、小さな子どもが父親に向かって言う言葉が「アッバ」という言葉で、日本語にしたら「父ちゃん」という感じの言葉です。ですから「父なる神さま」というのはアッバから考えると固すぎると言えるかもしれません。「天のお父さま」という言い方も聞きますが、これでも距離感がありすぎるのではないかと思います。本来キリストの救いは、わたしたちに神を「父ちゃん」と呼べる恵みをもたらしたのです。わたしたちは神に向かって「父ちゃん」と言って、神にしがみつくことのできる恵みに入れられているのです。

 そして聖霊が、わたしたちが救いに入れられて神の子どもとなったことを証ししてくださいます。
 イエスは霊についてこう語っています。「霊から生まれたものは霊である。『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」(ヨハネ 3:6~8)
 わたしたちはしばしば「聖霊を受けている実感がない」などと言います。しかし、神は人間の五感では捉えられない人間・被造物を超えた方です。人は聖霊を受けている実感など感じることはできないのです。
 聖霊の働きを重んじる教派では、聖霊降臨(ペンテコステ)の出来事から異言を語れることが聖霊を受けたしるしだと考える人たちもいます。しかし、わたしは疑問に思います。では、異言を語っていないときは聖霊を受けていなくて、聖霊の導きがないのでしょうか。そうではない、聖書はそうは言っていないとわたしは思います。わたしは異言自体は否定しませんが、異言を語れることが聖霊を受けているしるしと考えることは間違いだと思っています。
 聖書が語っているように、「聖霊によらなければだれも『イエスは主である』とは言えないのです」(1コリント 12:3)。ですから「イエス キリストはわたしの救い主です」と告白する人は誰でも、聖霊により救いへと入れられているのです。実感で聖霊を捉えようとするのではなく、聖霊が与えてくださったイエス キリストを信じるという奇跡がこの自分に起こったことを通して、神の恵みの御業を知るのです。
 わたしがイエス キリストを信じている、ということはよくよく考えるとおかしなことだと思います。わたしはイエス キリストに会ったことがありません。顔も知りません。声も知りません。握手をしたこともありません。全く知らない人なのに、イエス キリストがわたしの救い主だと信じているのです。理性を捨てた訳ではなく、疑う気持ちを捨てて思い込んでいる訳でもありません。本当に不思議な仕方で「イエス キリストがわたしの救い主である」という信仰が与えられているのです。断食をしたことも、滝に打たれて修行したことも、何時間も座禅を組んだこともありません。そういった修行を通してではなく、不思議な仕方で礼拝を通して信仰が、わたしの場合、キリストの復活を信じる信仰が与えられたのです。ある人は、罪人の中に信仰が与えられるのは、天地創造において神の言葉によって創造の御業がなされた奇跡に匹敵する奇跡である、と言っています。わたしもそう思います。その聖霊による奇跡によって、イエス キリストが救い主であるという信仰を与えられたことによって、わたしは聖霊が注がれ、聖霊が働いてくださったことを確信しているのです。
 ですから、異言が語れない、聖霊を受けている実感がない、わたしは本当に救われているのだろうか、と考える必要はないと思っています。唯一問うとすれば「わたしはイエス キリストを誰だと思っているのか」ということです。イエスが弟子たちに「あなた方はわたしを何者だと言うのか」と問われたように、わたしたちも自らに問うのです。そして「イエス キリストこそわたしの救い主です」と告白するとき、それは聖霊が注がれ、働かれ、わたしたちを信仰へと導いていてくださるしるしです。

 聖霊は、わたしたちに「父よ」と呼びかける祈りを通して、わたしたちの霊を神へと導いていてくださいます。わたしたちの霊がまことの神以外と結び付くことがないように、祈りという大いなる恵みによって神と神の子との絆を育んでくださっています。祈りによって聖霊に導かれ、神とのつながりを育まれ、信仰を育てて頂いているのです。ですから、わたしたちの信仰にとって祈りはとてもとても大事なのです。

 聖霊の働きにより神の子とされた者は、キリストと共同の神の相続人とされます。神の相続人は、神が与えてくださる救いを相続する者です。キリストだけが救いに到達したのですから、救いに至る道をキリストと共に歩むことになります。
 そこにはキリストと共に苦しむことも含まれます。コロサイの信徒への手紙には「キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています」(コロサイ 1:24)とあります。イエス キリストの地上での苦しみは、既に過ぎ去りました。今のわたしたちの苦しみは、キリストと共にわたしたちが担うべきものとして与えられているものです。わたしたちは「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」(マタイ 6:13)と主の祈りを祈りつつ、また「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」とイエスがゲツセマネで祈られた祈りを共に祈りながら、苦しみを担っていくのです。こうしてキリスト共に歩み、キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるのであります。キリストと共に歩む者は、キリストが既に到達されたあの復活、そして神の国に招き入れられることを望み見ることを許されています。キリストの復活、そして天の御国に入れられたことを仰ぎ見て、わたしたちに備えられている神の栄光を知るのです。

 当然、わたしたちは苦しみを避けたいと思います。そしてその時に、自分好みの道を歩もうとしてしまいがちです。そうすると、わたしたちはまたもや神から離れて迷子になってしまいます。
 だから祈りが必要なのです。祈りつつ聖霊に導かれることが必要なのです。聖霊によって、キリストの救いにしっかりと立たせて頂き、神を「アッバ、父よ」と呼び求めながら、神と共に生きるのです。
 聖書は、神と共に生きるという救いの恵みへとわたしたちを招き続けているのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 聖霊をわたしたちに注ぎ、キリストを信じ、神の子となる恵みを与えられておりますことを感謝します。どうかわたしたちが、聖霊の導きを求めて祈りつつ歩む者とさせてください。救いの道を、キリストと共に苦しみ、そしてついには、キリストと共にその栄光をも受けることができますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

ヨハネによる福音書 2:1〜12

2019-03-03 19:32:50 | 聖書
2019年3月3日(日) 主日礼拝  
聖書箇所:ヨハネ 2:1〜12(新共同訳)


 きょうの箇所では「最初のしるし」という言葉が出てきます。ヨハネによる福音書では「しるし」という言葉が17回も出てきます。4つある福音書の中で最も多く出てきます。
 では一体きょうの記事は、どんなしるしなのでしょうか。

 最初に「三日目に」とありますが、1:29に「その翌日」とあり、1:35さらに1:43にも「その翌日」と出てきます。この3箇所は1:19~28の翌日の出来事として書かれています。さらにその翌日の三日目の出来事としてきょうの箇所が書かれています。

 ガリラヤのカナという場所で婚礼が行われていました。当時の婚礼は、1週間続く村の一大イベントでした。そこにはイエスも、イエスの弟子たちも、さらにイエスの母もいました。
 おそらく結婚した二人の家はそれほど裕福ではなかったのでしょう。客のために用意したぶどう酒が足りなくなってきました。
 その時イエスの母は、イエスに「ぶどう酒がなくなりました」と告げます。彼女はイエスがこの状況を解決できると期待していたのでしょうか。母の思いは何も書かれていないので分かりません。

 イエスは母の言葉に対してあまりにも素っ気なく答えます。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」。
 既にイエスの救い主としての歩みは始まりました。イエスの歩みを導くのは、父なる神の御心です。しかし彼女は、自分の思いを超える父なる神の御心を知っていました。父なる神の御心を受け入れてイエスを生んだ彼女は知っていました。
 そこで彼女は、近くにいた召使いたちに言います。「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」。

 その家には清めに用いる石の水がめが六つも置いてありました。水がめは2から3メトレテス入りのものでした。わたしたちが日常で使うリットルに換算すると、78〜117ℓぐらいになります。わたしたちが今見かける形のそろった器ではなく、大体このくらいといった感じの不揃いのものだったようです。

 イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たしました。
 そしてイエスは言われます。「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」。召し使いたちは言われたとおり運んで行きます。
 世話役はぶどう酒に変わった水の味見をしました。世話役は、このぶどう酒がどこから来たのか知りませんでした。そこで世話役は花婿を呼んで言います。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました」。

 そして聖書はこう記します。「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた」。

 この話はわたしにとっては不思議です。母はイエスに何を期待したのでしょうか。最初のしるしだと言っていますが、何のしるしなのでしょうか。水がぶどう酒に変わったことが救いに何の関わりがあるのでしょうか。わざわざ福音書に記すほどこの出来事のどこに福音があるのでしょうか。
 説教の準備はいつでも、聖書を読んで感じる疑問の答えを求めて準備します。聖書を通して神が何を語りかけておられるのかを求めて準備します。

 ここでヨハネによる福音書の意図を考えてみましょう。
 福音書は 1:19以下で、洗礼者ヨハネの弟子たちにイエスが救い主であることを伝えようとしてきました。洗礼者ヨハネは、旧約最後の預言者です。ですから、洗礼者ヨハネからイエスへと導かれることは、旧約から新約へと進み行くことです。このヨハネによる福音書の編集者は、この出来事にそのしるしを見たのです。

 イエスは、水をぶどう酒に変えられました。水は清めのための水でした。清めは、旧約を象徴する行為です。その水がぶどう酒に変わったのです。
 新約でぶどう酒と言えば、聖晩餐のぶどう酒です。ぶどう酒はキリストの血を表すものです。キリストの血はわたしたちの罪を贖い、清めます。神の恵みによって新しく生きることの象徴、しるしです。水がぶどう酒に変わったのは、旧約から新約へと変わった、キリストによって救いが成就し、古い契約(旧約)から新しい契約(新約)に変わったしるしです。

 だから福音書の編集者は、この出来事がイエスの最初のしるし、救いの到来・成就のしるしであったと考えたのです。

 さらにこの福音書の特徴は、一つのことに複数の意味を重ねます。
 例えば、1:38でヨハネの弟子たちがイエスに「どこに泊まっておられるのですか」という言葉に「何に根ざしておられるのですか」とか「何につながっておられるのですか」という意味を重ねています。(参照:ヨハネ 1:35~42説教)

 ここでは、結婚式の喜びが増すように水をぶどう酒に変えられました。聖書で結婚は、キリストが花婿で、わたしたちは花嫁と例えられます。この奇跡は、わたしたちがキリストと結ばれ、救いに入れられることを神が喜ばれるしるしです。清めの水がぶどう酒へ変わる。それが旧約から新約へと至るキリストの救いを表すものです。キリストによって罪が贖われ、キリストと結ばれて神の子とされるのです。そして神の国へと招き入れられます。永遠の命が与えられるのです。結婚式の奇跡は、救いを喜ばれる神を象徴する出来事です。

 また、神と共に生きることに欠けが生じてしまうとき、丁度ぶどう酒がなくなってしまうような欠けが生じてしまうとき、それを補ってくださるのはキリストの御業であることを示しています。日常の中で、このままではダメかもと思ったときには、イエスの母のように「足りなくなりそうです、ダメになりそうです」と祈るのです。キリストの御名によって神に祈るのです。すぐに祈りが聞かれないように思えても、清めの水がめを一杯にしたからどうなるのだと思っても、イエスの言葉、神の導きに従うとき、そこに神の栄光が現れてくるのです。
 11節で「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された」とあります。聖書において栄光とは、神が救いの神であることが明らかになることです。祈りつつイエスに従う日常の中で、キリストはその栄光を現してくださいます。神があなたの救いの神であってくださることを、あなたが救いの中に入れられることを、神は喜んでおられるということを明らかにしてくださいます。
 そして最後には、神の国で最もよいぶどう酒が用意されているのです。キリストはわたしたちを最もよきものが備えられている神の国へとわたしたちを導いてくださるのです。わたしたちはきょう、聖晩餐に与りますが、聖晩餐は終わりの日の祝宴、神の国の祝宴を指し示すしるしです。

 この福音書は、終わりの方 20:30, 31でこう書いています。「このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」。
 この最初のしるしは、福音書の編集者が、キリストがなした多くのしるしの中から、イエスを信じて命を受けるために知ってほしいと選んだしるしです。このしるしには、受けても受けてもなくならない神の救いの恵みが込められています。
 イエスは言われます。「しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(ヨハネ 4:14)。
 是非、イエスご自身から溢れてくる命の水、祝福のぶどう酒を飲んで、キリストの喜びに満たされて、恵みの中を歩んでいって頂きたいと願っています。


ハレルヤ


父なる神さま
 どうかわたしたちの日常においてもしるしを現してください。キリストの命の水、祝福のぶどう酒に与って、あなたの喜びで満たしてください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン